大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年11月29日(木)
いわゆる大きな物語の終わりといっていた人たちは、命と名前の入れ替わりから、サスペンスに物語が変形した、ということなんだと思うけど、それでは大きな物語はイデオロギーでしかないことになってしまう。大きな物語は単なるオイディプスのことなのに。@LitoSnowfield
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posted at 01:27:12
そうそう、物語を表象と捉えた日本人だけ、ポストモダンも内面化させてしまって、パズルを作ってしまった。行き詰って当然。t.co/fgnJl0Z7 @LitoSnowfield 同じことを考えていました。「大きな物語の終わり=冷戦終結とする場合はサスペンスになる
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posted at 01:43:30
エロティシズムはフロイトが考えたような欲動そのものや自然的欲求の中にあるのではなく、これがイメージ化され欲望となったときに生ずる、“言葉の産物”に他ならない。
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posted at 21:05:06
2012年11月30日(金)
問二の吉本隆明の詩論は秀逸。日本語で意味を表現するとメロディーとならず、日本語を音律にしようとすると、詩が意味を失う、という日本語の実体論。つまり、日本語で意味とは音楽ではなく、音楽とは意味ではないという、日本語の存在論として詩を捉えている。@sunamajiri
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posted at 02:51:45
通常小説論では、身振りと台詞の違いによる言語性しか明らかに出来ない。それが言文一致の仕方なのだが、そうしたナラトロジーではなく、試論では日本語の音的実体が現れる(音になると意味にならない言語)というのが、さすがに吉本隆明惚れ惚れするわね。@sunamajiri
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posted at 03:00:42
でしょ? いま日本語では、詩による象徴的意味を切断しないとメロディーが生まれないという吉本隆明の話をしていたのだが、その日本語でもオイディプス的実体が現れるためには、必然的にダブルオイディプスのようになる、というのが凄かったでしょ?(^-^)/ @LitoSnowfield
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posted at 03:03:57
たぶん一般人はクライマーズハイのダブルオイディプスが無意識化されて、何の話か分らない側に回るかもね。それほど日本語の病理は深刻なのだ。吉本隆明の詩論でさえ、日本語では象徴的意味を切断しなければ、言語の音楽的実体が現れないとしているが実体が言語にない。@LitoSnowfield
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posted at 03:10:46
つまり近代文学は身振りと台詞の差異から言文一致を生み出すも、オイディプスのような実体を喪失してしまうが、詩論では、象徴的意味の切断が日本語の音楽的実体を表すとなる。小説文学で近代化したつもりで、じつは近代化できなかったのは、日本語固有の問題と示唆している。@sunamajiri
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posted at 03:18:36
吉本隆明が秀逸なのは、日本語の実体論になっている点ですね。言葉は音韻であるのに、インドヨーロッパ語族とは対照的に日本語でメロディーとなるためには、象徴的意味の切断が不可欠と言明したことになる。t.co/f7hPfGeP @lapasion
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posted at 03:46:41
この問題は、音楽の側から興味深いのです。日本語の音韻、シラブルがなぜかメロディーにならない。メロディーにするためには、メロディー性を変形するか、シラブルを押し込めるように、日本語の音韻をデフォルメするしかない、というような。@sunamajiri
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posted at 03:49:59
音楽というのは音で何かを表すような表象であるより、明らかに純粋な実体です。ところが歌詞というのは何かを表象してしまう。日本語では歌詞が意味を持とうとするとメロディーが生まれなくなる。これが日本語に固有かインドヨーロッパ語族と対照的な実体というわけですから。@sunamajiri
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posted at 03:53:46
吉本隆明がそのテクストで明らかにしようとしているのは、インドヨーロッパ語族は音楽という実体に従属して意味となるのに対して、日本語はそれができないことで、音楽とは対立的な日本語という言語の実体をもつ、というような事柄なので、大変興味深いです。@sunamajiri
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posted at 03:55:23
うさたん、どうしてもハムのせバタートーストがたべたいから、さっき食パンとバターとハムかってきたから、トースターのコンセントいれる。なぜ普段たべないかというと、トースト焼くと部屋がくさくなっちゃって、あとでたいへんなの(^-^)/
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posted at 04:07:46
そうです、日本語が、身振りの描写と台詞の言文一致でさえ、実体より表象、つまり象徴化させてしjまう、という問題に子供の頃からずっと悩んでいます(^-^)/ @LitoSnowfield 日本で文章がおざなりになる…扱われるというのは、まさに表象と捉えて別に内実がある…という思い込み
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posted at 04:13:02
私中学に英語圏にいくまでは、文は読めるけど口下手だったんです、いまや日本語でもコミュニケーティブですが、しかも自然に。克服するためには日本語を一旦離れる必要があったと自覚しています。@LitoSnowfield とても居心地の悪いことですし、日本語への興味や謎?についての原点
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posted at 04:18:32
話し戻すと、クライマーズハイも息子を無口に病化させる父性の喪失の話。それを回復するためには父親が二人必要というダブルオイディプス、あるいは重層的オイディプス。それが言葉を表象と思って失語症に病化するのが、日本語では同根という。(^-^)/ @LitoSnowfield
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posted at 05:13:24
漢文から近代化は言文一致で、それは物語だから普通オイディプスになるのに、言文一致による身振りと台詞の差異化がなぜかアンチオイディプスになるのが日本近代文学のようで、吉本の詩論のとおり日本語では象徴切断だけが実体になる。オイディプス重層化ではじめて父性が現れる@sunamajiri
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posted at 05:17:16
この父親を音楽のように実体化t.co/7OHd1ZlJ させない、表象、あるいは明確に象徴としての言語というのがあって、このオイディプスの二重化が、吉本の詩論のとおり、それが日本語の音韻の切断だ、ということに思えてならない。@sunamajiri
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posted at 05:21:52
いまは日本語ラップの時代ですが、ラップになるまで日本語の音韻は、ある種のビートやリズムを受け付けなかったんです。どうやらこの日本語の音韻を表象として捉え、象徴作用を生み出すことが、言文一致文学からのオイディプスを剥奪してるようですね。@LitoSnowfield
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posted at 05:28:42
言文一致というのは、漢文によって抑圧された父子性を、身振りの描写と台詞の差異(齟齬)で浮き彫りにして、近代的自我を形成するための小説国語のことですが、日本語の音韻自体が小説だけでは乗り越えられない象徴化作用を持っていたと見て間違いないのでしょうたぶん。@sunamajiri
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posted at 05:31:34
これは音楽論でやると実体的なのです。メロディーというのは二元論で、抑揚の象徴化のようなもの。ジャズのモダン化や、ソウルのラップ化などをみて分るとおり、メロディーの象徴化作用の切断が可能なのです。音韻が象徴的だと、メロディーにならない、というのは・・・。@sunamajiri
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posted at 05:37:30
メロディーのビバップ化やラップというのは、メロディーの持つ象徴化作用の切断です。それは西欧語では音韻が直接メロディーだったからです。しかし、吉本の象徴詩論のとおり、日本語の音韻はメロディーとは違う実体なのです。だとすれば、象徴化作用を切断するしかない。@sunamajiri
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posted at 05:39:45
西欧では小説文学は、地の文による身振りの描写と、それを相対化する場面内の台詞(会話)の差異化でした。そのことによって、象徴化作用が相対化され自我が言語化された、日本近代文学ではそうなるどころか、何等かな象徴化によって場面内から会話を奪ったのかもしれない。@sunamajiri
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posted at 05:44:32
より端的に言うと、近代的自我を言語化した小説で、漢文が抑圧した父子関係を、言文一致させたことで、却って近代的自我を抑圧してしまった。それほど日本語の音韻は近代性を抑圧しかねないのでしょう。日本語では声を文に書いてはいけないというように。@sunamajiri
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posted at 05:48:28
日本語のの音韻にとっては、近代文学が相対化した声も、ハレに捩れて、たとえば羞恥心さえプライドになってしまったりする。語れないことがあるというより、書くとパフォメーティヴに作用してしまう。素では書けない。書いたら象徴化してしまう。ハレの漢文になってしまう。@sunamajiri
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posted at 06:08:38
ツイートまとめ@FB(^-^)/ クライマーズハイのダブルオイディプス、舞姫の前近代性=マザコン、吉本隆明詩論の象徴化を切断しないと音韻にならない日本語、近代的自我化するはずの言文一致で抑圧された息子の音声。
t.co/mFh7wL4S
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posted at 06:38:52
2012年12月01日(土)
このメルロ論入ることt.co/RoMU5pdX は、入ること一般論。そのように入ることを語らせてしまうのが原理。それで入れないと、読むのを諦めて原理に辿りつかないわけだけど、しかし、じつは読まないでも原理はある。@sunamajiri @op_kujou
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posted at 00:20:30
しかし、その原理的というのも、いまツイートしたとおり、実体と表象とか、本物のと偽者とか、本人と言説とか、部分と全体とか、対立項でおさえればよいだけなのだ。それが捩れると偽者になってしまう。本人が聞いたら、わかってねーじゃないか、となる。@sunamajiri @op_kujou
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posted at 01:21:45
たとえば、この前の模試でいうと、コミュニケーションというのは、こういう分るを分ること。以前スピノザの方法でツイートしたように、分かり合えるみたいな感じ。それは文字でしか確かめられない、と脱構築させたのが模試。声では共同体=前近代になるとされていた。@sunamajiri
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posted at 01:27:37
ちなみに先程から話題になっている、入ること(原理への入門)で引き合いに出されているヘーゲルというのは、序文が長いので有名なのだが、ヘーゲルはいわば、スピノザを読んで入門書を書こうとしている状態。そういう文を読んで分るか?ということ。@sunamajiri
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posted at 01:29:25
つまり、心が分らないというのは、文や本を単語=観念で、別物として読んでしまっているということ。そこには確かに心はない。本が心に見えてくるというのは、単語に躓いて文を誤読しないということに尽きる。それを先程の入門と言い換えてよいと思う。@sunamajiri @op_kujou
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posted at 02:00:03
ところで、このように説明するのにも、観念語が不可欠。今度は心と言い換えている。しかし、その心という単語自体に意味があるのではない。このように観念を函数のように運用する能力があるかをテストするためには、文にさせるというのが日本の国語。@sunamajiri @op_kujou
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posted at 02:04:44
受験生にとって重要なのは、単語となった概念や観念に躓くな、ということ。たとえば神という単語に躓いたら文が読めなくなる。ただそれだけ。出題者はそこだけをテストしようとしている、ということを常に念頭において問題を解くこと。@sunamajiri @op_kujou
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posted at 02:07:25
現代文では、躓きやすい単語を意識化させる。たとえば10年ぐらい前までは、記号や表象だったのが、いまや文字や身体が実体とされるような評論が頻出している。そのような単語に躓くかどうかをテストされるだけなので、数学などより対策がしやすい。@sunamajiri @op_kujou
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posted at 02:10:47
その理由は簡単で、文字や身体まで記号や表象とするような、日本的ポストモダン(時代的にはバブル時代)が、徹底的に批判されている。そのために、表象に埋もれた実体、という主題が台頭している。しかしそれは原理的だ、ということ。@sunamajiri @op_kujou
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posted at 02:15:32
ツイートまとめ@FB(^-^)/ 本にしか心がない、を読めないということ。単語に躓き文を読めず心に到達できない人は、社会人になり本を読む暇がない。一方、受験生が文に入門するということ、をめぐるツイート流れ。
t.co/EUiQeHIu
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posted at 02:34:06
その、フィラーからファンクションライン、そしてラインのリズムフィギュアからモードへ、という引き裂かれが一昨日のフルート授業6時間だったよーww(^-^)/ @LitoSnowfield 両方が好きな私は困惑したものでした@bassfukawa
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posted at 02:50:24