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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2015年11月17日(火)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

これは、ミステリー小説で考えるとわかりやすいです。語り手は犯人を知っていて、それを小出しに読者に開示する。いわゆる全智の視点です。しかし、これでは単にジャンル文学です。より根源的には、語り手も読者と同時に知らないことが語れられなければならないのです。@BeTakada

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posted at 19:02:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

それゆえ時間を即自すると同時性=即物性が二重化されて記述され、時間性自体が記述できなくなるのです。脱自的時間というのは、時間を静的な点に即自しないことです。そのことで、二重化されていた同時性が根源化されるのです。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 18:58:49

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

絶対的悟性とか根源的直観が客観であるというのは、第一原因でないのに擬似的に神の視点を想定することです。twitter.com/sunamajiri/sta... 要するに造物主でないのに、神の視点で語ってしまう矛盾が問題なのです。@BeTakada

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posted at 18:54:29

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

しかしその前に、即自と脱自は、GA26-208-9のカントが同時性を我々の外に二重化する時間の即自性=内時間の問題です。時間を即自すると、即物に対する二重化が起こるのです。それは根源的直観の視点=客観の問題です。@BeTakada pic.twitter.com/JtGITqFusf

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posted at 18:52:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

それは、同時性=アプリオリを、前後関係で語る企投=時間的即自からは、実存の事実性(基礎存在論)が還元できず、様相還元で陥ったフッサールの内時間性を解体する時間の根源性=内世界性が得られない、というGA26の次節の問題です。問題は即自と脱自です。@BeTakada

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posted at 18:45:29

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

なお、注20の丸山氏の続編とは、heideggerforum.main.jp/ej8data/maruya... のカント書論です。しかし「存在者の全体」に対する「全体における存在者」というのは、いわばさらなるポストメタ存在論で、メタ存在論自体は、時間は内時間ではなく内世界だ、ということです。@BeTakada

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posted at 18:37:20

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

同時性(アプリオリ)は認識されると前後関係に転倒する。転回とはその転倒からの脱却です。タカキチさんのジャーゴン twitter.com/BeTakada/statu... では、アプリオリとは人類発祥の寧ろ後に備わる同時性のことです。@BeTakada

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posted at 18:34:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

ちなみに、丸山2014注20で引用されるGA26-186 bit.ly/1MjCPIU は「われわれの把捉より先」ということです。@BeTakada

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posted at 18:34:30

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

同時性であるアプリオリを事後的に語るのはアポステリオリです。アプリオリは「われわれ=客観」が順序立てて語ることに先立つ同時性のこと。しかし問題は、同時性を何方の順序で語るかと、企投してしまうこと。@BeTakada

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posted at 18:18:49

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

タカ基地さん bit.ly/1QrVV3u は、注20の事象性=同時性を、「人類発祥のアプリオリ」と早計しましたが、それは寧ろアポステリオリです。アプリオリとは事後的に語られていない同時性のこと。@BeTakada pic.twitter.com/BVbytmsds0

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posted at 18:16:42

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

丸山「二重のアプリオリの前後関係」は、カントでは即自(即物)に対峙する視点が、物自体と現象に分裂したことに対して、ハイデガーが脱自的超越の視点GA26-208から、それを統一的に図式化する時間の問題として捉え直した点に関わる。@BeTakada

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posted at 07:10:04

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

純粋化=超越論化は、時間を静止状態で孤立的に取り出すことではないということなのだが、GA26-209が引用するカント純理A251は、範疇を純粋化すると客観的実在を取り出せず、超越論的には図式性しかないという箇所。bit.ly/1NXrGQg @BeTakada

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posted at 07:00:36

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

そこ(GA26-209-210)で、ハイデガーが指摘しているカントの二重性は即自態の矛盾のこと。もっというと即自的時間が孕む二重性。脱自態というのは、その二重性がなくなることなのだ。それは、われわれ=客観=絶対的悟性、という第一原因と矛盾した視点の捨象なのだ。@BeTakada

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posted at 06:53:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

しかし、それはカントが時間を量として規定し、自己を静止した点(即自性)として内時間化したために、人間を方法化する世界内から、有意義な時間連関(脱自性)を捨象してしまった、というのがハイデガー。テクニカルにこれは再転回といわれるが、むしろ日本人の通念に近い。@BeTakada

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posted at 06:42:54

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

デカルト以後、むしろ第一原因の問題だけになってしまった、といったのはスピノザだが、カントでは第一原因ではない「客観=われわれ」と、その「われわれの外」の主観という問題になってしまう、というのがGA26-209。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 06:37:43

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

コメントアウトすると、デカルト~カントまでは第一原因に明示的に苦慮してるのに、認識論的転回と転倒した新カント派からフッサールまでは、そうとは思わず苦慮し、それちがうだろとハイデガーが独り転回したけど、そうとは思えない日本人読者、という構図に見えるのよね。@BeTakada

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posted at 05:52:49

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

これで、デカルト~カントが苦悩した、第一原因=因果律という根の問題が、意味連関から抹消(捨象)されて、語りの根は時間=内世界性として取り戻され、自然を語ることができるようになる、という目論見なのでしょう。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 02:11:49

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

具体的には、人間とは何かと問う旧来の形而上学に対して、方法的懐疑を徹底させると、人間とは如何にか、という方法が世界の本来の語義で、その内世界こそが時間的意味連関だ、という意味です。それは事実性に対する時間性なのです。@BeTakada

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posted at 02:10:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

ハイデガーの結論とは、時間は内時間=点ではなく、脱自的時間=内世界=意味連関であり、それは実存の事実性を還元できたときに、はじめて根源となるが、しかしそれは領域存在論ではない、ということ。それは第一原因を前提とした旧来の方法的懐疑=思惟からの脱却ということです。@BeTakada

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posted at 02:03:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

twitter.com/sunamajiri/sta... にも言いましたが、私たちはハイデガーの結論を知ってることを前提にしてるのです。そこでハイデガーがそれを方法化できたのは、妥当かという話題の立て方ができるということです。それを念頭に話題にしないといけない。@BeTakada

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posted at 02:00:54

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

ポスト基礎存在論であるメタ存在論は、GA3カント書で、第一原因そのものを捨象する思惟の方法、世界という人間の方法を根源規定化している、ということです。根源的直観=客観という二重の「われわれの外」の問題に引き寄せれば、根源的直観は第一原因ではない、という思惟。@BeTakada

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posted at 01:55:30

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

念頭におくべきは、ポスト『存在と時間』ポスト基礎存在論は、GA24の学的企投(領域存在論)の破綻から、GA26のメタ存在論(補論)以後のフッサールの内的時間の転覆(脱自的時間)に成功し、GA25はそれをカントの三種の綜合の根として扱い~ @BeTakada

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posted at 01:53:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

根源的直感は、GA25カント講義書のこの部分、つまり超越論的感性論がわかりやすいでしょう。つまり客観とは有限な視点に対する擬似的な神の視点ということです。擬似的なのは、第一原因たりえないからです。@BeTakada pic.twitter.com/W2zHodAHRt

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posted at 01:47:54

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

GA26-203-218 は、超越とは神学のことではないが、カントでは根源的直観(第一原因)と派生的直観の二重の「われわれの外」であり、それで客観は絶対的悟性を前提した特殊形而上学だ、と批判しているのです。@BeTakada pic.twitter.com/Zl4tnfQThs

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posted at 01:36:49

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

それは、丸山論文注9「超越論的演繹との対決を通じ、これを超越の現象の分析において調停するべきであるという見通しに到達した」という点に関係するのですが~ @BeTakada pic.twitter.com/ec1VzHkDms

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posted at 01:25:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月17日

GA26-203-218 bit.ly/1NWnJeN の次の箇所、GA26-218-239 bit.ly/1LYsotS では文字通り「超振動」といってますものね。@BeTakada bit.ly/1HTDWLb

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posted at 01:24:01

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2015年11月16日(月)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

丸山論文は、補論のGA26-199の事実的実存の外の事実的自然、というメタ存在論の解釈だが、このGA26-203-218 bit.ly/1NWnJeN はその補論の直後。カントのA373 bit.ly/1Yce7iX の解釈。

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posted at 23:28:43

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

端折ると、自由とは有限性の謂だが、その有限性はどんな前後関係により摘出され、それをカントが明確には表明できていない、とハイデガーが指摘していることになるのかが、丸山論文の最奥部で論証されている。

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posted at 23:13:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

丸山論文の「2つのアプリオリの前後関係」は、ハイデガーGA26-208の、カント純理A373の「われわれの外」は二重だ、という指摘だ。GA26-203-218 超越の概念 bit.ly/1NWnJeN pic.twitter.com/tKRlHpZtB6

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posted at 23:06:17

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

根底でつねに話題になる方法的懐疑とは、方法=自覚性だということなのだ。それ以外のことは瑣末な問題なので、左右されても仕方がない。ハイデガーが方法的なのも、歴史に対する遂行歴史性を実行しているからだ。方法は実行されてはじめて自覚性になるのだ。それが読めた、ということ(歴史)である。

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posted at 21:41:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

語り方が自覚的でないと、とんでもない話になるということなんですが、ハイデガーが「我々の外の二重性」をいう箇所でカントは、実在論と観念論を超越論すれば唯物論と唯心論という無根拠になる、と批判してるわけです、それは自覚的な語り方ではないという意味なんですよね。@BeTakada

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posted at 20:11:00

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

その話でしょうね。 ハイデガーが問題にするカントのbit.ly/1Yce7iX も、いわば無自覚的な語り方の批判です。 @BeTakada カントの謂う自然には自由意思すらも規定に含まれてしまっている。twitter.com/BeTakada/statu...

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posted at 20:06:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

それにしても、語りの根の時間は因果(第一原因)を語ら(せ)ない、のよねー。@BeTakada

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posted at 08:27:39

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

ちなみに、内世界は時間的意味連関だ、というハイデガーの転回は、自然は内世界にはない、という意味。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 07:45:21

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

カントの言う「我々の外」は二重の外だということなのだが、(テクスト的には後刻)、ちなみに、その指摘をする箇所の欄外注で、ハイデガーは「有限時間を語れないぐらいなら、無神論者と安っぽく呼ばれたほうが、まだましだ」とまでいう。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 07:05:21

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

ちなみに、カント純理A373 外的関係の観念性に関する誤謬推論 bit.ly/1Yce7iX は、 実在論と観念論を超越論すると唯物論と唯心論という無根拠になる、という話なのだが、それをハイデガーはその内実を取り出す。

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posted at 07:01:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

この「2つのアプリオリの前後関係」は カント純理A373 外的関係の観念性に関する誤謬推論 bit.ly/1Yce7iX の「我々の外」は、二重の意味だというハイデガーの問題。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 06:58:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

デカルト以後の体系性は、メタ存在論(事実性還元)がフッサールの内時間性を還元することで解体される。それをもう一度学的企投すれば、丸山文隆の「存在者の全体」に対する「全体における存在者」論になるわけだが、その最奥部がこれ。 pic.twitter.com/QiDAqFwkpP

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posted at 05:52:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

さて、時間は内時間=点ではなく、時間が内世界=意味連関で、内世界とは時間であるのだから、自然が時間的意味連関の外にある、という問題 twitter.com/sunamajiri/sta... を、ハイデガーが本当に表明できているのか、というのが最新学説上問題になるという話。@BeTakada

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posted at 05:28:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

時間は内時間ではなく内世界だ、つまり意味連関は延長ではなく、時間的連関だというのは、内時間=時間が点と前提されていたのでは、時間が無であること=時間が意味化しない、ということに尽きるね。

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posted at 05:21:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

内時間=点と、その延長としての意味ではなく、時間は手許的に地平=内世界性、時間が意味連関そのものであり、自然とは世界=意味連関のことではない、というのは認識論的転回を批判した存在論的転回ではじめて表明できた、というのは相当だろうな。

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posted at 05:15:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

端的に世界と自然を混同してしまうデカルト以降の哲学の体系化を、旧来の形而上学として懐疑する方法(明証性)なので、時間は内時間ではなく内世界だと、ハイデガーがメタ存在論に転回したのが、非体系性を表明できているのか、というのが最新学説で問題になるのも頷けるというもの。

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posted at 05:12:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

存在証明は無駄だというのがデカルトの明証なら、それによって内時間、つまり時間は点で、無時間であり、意味とはその延長だという認識論的転回は無駄だ、というハイデガーの明証性=方法とは、時間は内時間ではなく内世界=意味連関=地平で、自然はその外にある、という解決の方法そのものだからね。

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posted at 05:03:31

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

そうそう、堂々巡り、無限遡行ですものね。ハイデガーからは実存分析論が、それなんですよね。だからメタ存在論なんですが、ところで、ここ twitter.com/sunamajiri/sta... について、もうちょっとテクスト的に精確に読み取りたいと思いまして。@BeTakada

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posted at 02:50:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

ほら、お薬で気分から退散する時代でしょ? いいお薬ができるまでは、現存在分析=基礎存在論=病因論だったのよ。それでも眠れないとドラッグ(ヘロイン)とかだったのだが。@inja650rr おくすり飲みましたので、そろそろ離脱をさせていただきます。

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posted at 02:26:57

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

スピノザの方法を批判するハイデガーの方法という本でも書こうかしら。あ、スピノザの方法は東大博論か、どっかに博論でも書くか。暇で退屈だしなwww(^-^)/

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posted at 02:16:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

ハイデガーの方法の話しかしなくなったな私。数年前はフロイトとラカンを批判的に話題にする消極性だったのに、随分と積極的になってきたものだww(^-^)/ twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 02:12:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

それこそ、日本人は形而上学というと、ライプニッツ~バウムガルテンのいう特殊形而上学=神学のことだと転倒するんですよね。しかし方法というのは、第一哲学の方法ですものね。特殊形而上学でも領域存在論でも見通せないものがある、というのがハイデガーの方法でしょうね。@BeTakada

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posted at 02:09:10

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

ハイデガーの気遣いという問題系は、現存在であること。周りが気になることもそこに含まれるかもしれないが、周りが気になることを言うのではない。むしろ、周りから隔絶されても、もやもやと不安のような気分になること。つまり気分のこと。@inja650rr

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posted at 01:44:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

全然違うよ。だいたい世間への配慮って、どこから来てるのよ? ハイデガーはヘーゲル批判を基礎存在論というのだよ。そこからの転回は文学論 twitter.com/sunamajiri/sta... です。叙事詩と小説は違うでしょ? しかし小説もある意味だめなのよね。@inja650rr

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posted at 01:42:24

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年11月16日

@sunamajiri うー難しいです。
カントもハイデガーも世間に対する配慮の違いこそあれ
本質的には同様の事を悟っていたのかも知れないと
僕は想像をしていたのですが、その理解は誤りでしょうか?
twitter.com/inja650rr/stat...

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posted at 01:37:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

ハイデガーが言っている根源時間というのは、非本来的形而上学を踏まえたカントのいうような因果律のことではなく、カントの三種の綜合(予期・把持・現前)の根、つまり語りの根のことです。因果律が語る(古典的譬喩)のではないという意味です。@inja650rr

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posted at 01:27:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

しかし、いわゆる観測問題をいっているヒラリー・パトナム bit.ly/1H3ddkx は、ハイデガーが批判した、基礎づけられていない形而上学を前提した客観主義者、新カント派の末路で、私から見るとユダヤ教原理主義者です。@inja650rr

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posted at 01:25:33

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年11月16日

@sunamajiri 現存在が観測した存在(或は非存在)を有とも無とも規定せずに、
縁起による現象と見る仏教的立場は、時間の概念を含むものであると思います。
因果律とは時間の概念が前提になる考え方であるからです。

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posted at 01:24:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

ならないでしょ、空ではなく時でしょう。静態ではなく動態ということです。シュレディンガー問題は、確かに仏教的だが、それは静態的認識論のモデルだから、というのは今吟味できませんが。世界というのも静態の意味ではないです。空は確かに時も含みそうだが明示的ではない。@inja650rr

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posted at 01:17:35

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年11月16日

@sunamajiri 現存在に対する存在を「空」或は「色」と考えると
存在者とは、現存在との関わりにより初めて存在する。
仏教的な空観哲学が見えてきました。
シュレディンガーの猫の話しとも繋がりますか?

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posted at 01:13:19

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

それが存在忘却です。存在忘却とは、たとえばこういう言い方 twitter.com/sunamajiri/sta... です。我々は生まれる前から世界があると錯覚して、被造物という意味を客観としてしまうが、それでは存在忘却だ、と言っているのです。@inja650rr

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posted at 01:04:38

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年11月16日

@sunamajiri 「われわれより先なるもの」とは人間から見たら創造神(=形而上学)ではないのでしょうか?

そして中世の西欧社会は神を要請してきた訳ですから転回とは社会化とも言えるようにも思えるのですが・・・

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posted at 01:02:29

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

だから何度もいっているように、デカルトにとって形而上学は存在証明だが、ハイデガーの用語ではそれは非本来的形而上学、あるいは存在忘却なのです。本来の形而上学とは、存在論的差異を存在了解することなんです。それはまるで違う。@inja650rr

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posted at 00:59:54

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年11月16日

@sunamajiri 神の存在証明が形而上学であれば
人間の在り方について語るのもまた形而上学という事ですね(゚Д゚;)

ここでは前者を旧来の形而上学と規定するという理解で良いでしょうか?

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posted at 00:53:26

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

なので、事実的実存の分析論=基礎存在論(学的企投)と、転回以後(被投性)は、ガラッと違うんです。死の決意性の問題もぶっ飛んでしまう。それこそ吹っ切れているんです。この吹っ切れるというのが方法そのもののことです。@inja650rr

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posted at 00:52:51

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

ハイデガーが転回すると一気に文学論でしかなくなるのは、そのためなのです。古典的譬喩は宗教的(形而上学的)で、造物主を前提とした、物化=被造物化させる譬喩だが、ハイデガーは神の視点で人間を動かそうとしている、と思えばいいかもしれません。@inja650rr

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posted at 00:50:43

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

これは譬喩 twitter.com/sunamajiri/sta... のバージョンアップのような話。宗教は古典的譬喩だが、そこから脱却するには事実的実存を学問するのが方法です。しかしそれだけでは人生は方法化しない。だから全く別次元の譬喩が必要だ、というようなことです。@inja650rr

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posted at 00:47:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

これを平たく言うと、学校では人生は学べないが、人生は文学や詩人なら教えてくれそうだ、というような意味です。事実的実存までは学的に探求できる。しかし、それが人生だとは言えないんです。それがハイデガーが意識化した転回という問題です。@inja650rr

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posted at 00:42:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

どういうことかというと、確かに学問にとって方法は、非形而上学的なんです。しかし、それでは人間とは何か、という実体問題が残存してしまう。そこで、人間とは如何にかという方法は、学問ではなく、詩や文学によってしか語れない、というのが転回(の末路)なんです。@inja650rr

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posted at 00:41:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

違うんです。デカルトでは懐疑だが、ハイデガーでは形而上学が方法の徹底なんです。もしそれが見えないとすると存在忘却。しかし、問題は転回なんです。事実的実存にとっては形而上学は依然方法ではないからなんです。ハイデガーは学的企投を諦めるという方法を選んだんです。@inja650rr

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posted at 00:38:32

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年11月16日

@sunamajiri
なるほど!つまり世界を語る為の方法が哲学として基礎づけられていなかったのでその方法を語る事が出来なかった。
しかしそれを突き詰めたところで形而上学に堕ちてしまう。
つまり円周率をπで置き換えるように人間そのものを語る方法とし無限遡行を避けた(^^)/

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posted at 00:30:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

もっと単純で、人間とは何であるか=という実体視する形而上学が、方法化されていない形而上学。なので、ハイデガーは古来、世界とは如何にか=方法という意味で、本来の形而上学は方法のことだ、というのです。しかし実存でも方法化しないというのが転回の問題。@inja650rr

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posted at 00:29:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

twitter.com/sunamajiri/sta... にも言ったけれど、人間中心主義とは神中心主義=基礎づけられていない=方法化されていないことから、脱却すること=方法化する、という謂(意味)なので、そう躓かないほうがいい。@inja650rr @1012Wk285557

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posted at 00:25:47

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年11月16日

@sunamajiri @1012Wk285557 世界という物を捉えようとするとき、
その尺度は心理的に相対的なモノでしかない。
しかし人間そのものを基準として語ると、絶対的な基準として語る事が出来る。
即ち実存をアプリオリ的な「方法」として語る。…という理解で良いでしょうか?

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posted at 00:21:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

全てです。たとえば世界は世界観(の心理学=ヤスパース)ではなく、古来、人間という方法のことだった、と語られる。あるいはリッカートでは意味だが、人間は意味ではなく方法なのです。それは人格(シェラー)でもない。@inja650rr @1012Wk285557

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posted at 00:14:55

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年11月16日

@sunamajiri @1012Wk285557
大本先生こんばんわ。
ヨコからすいません。たまに僕も迷うのですが、
人間の方法化とはどの様な意味合いで使われる表現なのでしょうか?

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posted at 00:05:45

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

こういうのを、カントの学校概念への批判というのだが、しかしハイデガーによれば、それは事実的実存では不十分だ、というのが転回(メタ存在論)、人間を方法化することそのものです。それが戦前の絶頂であるカント書の問題なのです。@1012Wk285557

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posted at 00:02:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月16日

ハイデガー自身は、それをメタ存在論とか転回というのですが、端的に方法化することです。基礎存在論=事実的実存(死の決意異性等)では、基礎づけれれていない形而上学に陥った学問を批判することしかできず、人生が本来的に方法化しない、といっているのです。@1012Wk285557

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posted at 00:00:37

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