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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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2014年03月18日(火)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

「被制作性が被投性の契機となるのか」という予想が真偽に形式化されるのも当然ね。解釈学では「より前とより後」という比較級が動態となり、後続者の方がより真となる、ということだから。この真のために善まで認識論化された。@estei_st pic.twitter.com/hE2hzH2hD5

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posted at 18:36:05

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

認識論的超越論では被制作的現前性になるが、被制作性から被投的非現前性を、つまり現象性を、形式的告示的解釈学なら動態とできるか、という予想をたててみる。形式言語だとすると無理な気もするのだが・・・ww(^-^)/ @estei_st

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posted at 16:45:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

信仰とは異なり認識論では神要請となるが、超越論では神要請のままとなる、という話をしているのでしょう。それに対して解釈学では形式的告示をすれば、認識論や超越論のために神要請という被制作性に非本来化されることもない。おそらく、本来的に、ただ神があるといえばいい。@estei_st

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posted at 16:08:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

引用するほどもないというのは、告示すれば解釈上は十二分だ、というほどのことでしょう。神要請するのでなく、告示をすればいい。それが形式的告示的解釈学と認識論の相克なのでしょう。@estei_st

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posted at 15:54:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

本の発明以来、一冊の本=声でないと、携行性が悪いという聖書化願望に憑かれ、ネット時代にそれが解体しているだけですから、ハイデガーのような主著が未完で、あとは断片的講義録という分冊化は、斎藤氏のように一冊で纏めるしかない、ということであるに過ぎないのでしょう。@estei_st

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posted at 15:35:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

勿論、神要請のことである認識論の超越論化すら、こうして「差し戻した」上で、善性の非意味化という途上では、まだ視覚的な現前性になる、ということですからね。こうした、声のような問題は、引用するほどでもないのですが。@estei_st pic.twitter.com/lctEOxCYLw

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posted at 15:34:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

このように、斎藤第五章自体がフロネーシス=配慮性の途上性だが、もちろん、善のイデアの認識論化を批判するための動態だ。眩しくて不可視の太陽=善のイデアを可視化させることで、ポイエーシス(被制作性)となる、としている。@estei_st pic.twitter.com/hbxDQjamkP

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posted at 13:38:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

斎藤第五章は、善も美も倫理も意味が漂白され、本来性も途上的だ、と論じられていると思うのだが、それはたとえばスピノザが神を非意味化し、その静態から倫理を動的に語るのとは対照的に、倫理を非本来性に静態化させることで、いわば他の動態を語るハイデガーを示唆するだけだ。@estei_st

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posted at 13:27:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

しかし気になるのは、斎藤氏の第五章で触れられた善のイデアの認識論化だ。存在了解(あるいは存在理解)が非本来性に留まり、動態存在とならないという現象は、この善のイデアの認識論化が原因、というのが途上的フロネーシスの第五章。善のイデアの善性の非意味化のことだが。@estei_st

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posted at 02:33:29

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

要するに思考がフリーズしない方法ということなのだが、それは何も、当たり前だが哲学部の人達のやる「哲学者論」でなくとも、たとえば受験生に小論文指導したり、エディターが原稿をみるときに、死んだ思考をどう生きかえらせるのか、という具体的な場合と全く同じことなのだ。@estei_st

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posted at 02:03:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

神を証人にすることでしかない認識論のままだと、超越論でしか存在を動態とする存在論にならないということなんだろう。しかし解釈学が死を非意味化して、存在まで静態とできるなら、スピノザのQEDのように、もう別な話をしていても動態になりそう、ということなんだろうな。@estei_st

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posted at 01:54:33

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