大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年03月31日(月)
平たく言うと、ハイデガーのいう形式的告示に対する解釈学的実質、機械化されない解釈の複数可=不確定性というのは、ジャーゴンにとらわれないということだ。ハイデガー用語によらずに、ヘルダーリンのように一回的に遂行する。それは(ニーチェのような)意志や作為のような機械化では得られない。
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posted at 18:14:55
そこをいくと、三島の『潮騒』を、『潮騒のメモリー』にしてしまった、朝ドラ『あまちゃん』のクドカンが、震災から得た直感、つまり解釈学的形式に対する(非機械的な)実質は、凄みがあるな。youtu.be/fFIC6xKCGl0
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posted at 18:01:19
ここで日本での受容史で気になるのが、1)三島のヘルダーリンの受容twitter.com/sunamajiri/sta... 、そして2)3.11直後、脱原発へのアソシエーションを言い始めた柄谷行人に対して、池田信夫がテクネーへの誤解だと論難したあたりだ。どっちが意志的=被制作的なのだろうか?
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posted at 17:43:05
解釈に形式的告示のような形式性を持ち込むと、意志→作為→テクネー→被制作性という「別な原初」を招き入れてしまう。そこでニーチェに対するヘルダーリンのような、非形式的な秘教的な用語化によって、解釈の複数可=不確定性を、形式に対する遂行的実質にする、というのが第六章第6節2前半。
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posted at 17:33:09
つまり、『存在と時間』の問題は、演繹できる数学のような存在動態という用語化によって、意志や作為や被制作性というテクネーに陥りかねない、ということようだな。それでは解釈の機械的反復になり「複数の解釈者による解釈の反復可能性がなくなる」。それでも「原存在」と用語化してしまう悲哀。
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posted at 17:28:49
「秘教的」とされる『寄与』は解釈の機械的反復性を打破する「公教」化、と斎藤は指摘するが、前期~『存在と時間』にある形式性は、「意志」ということのようだ。解釈を脱形式化すると意志によるテクネー(作為)から脱却して、「原存在」という根源的な問いが可能になる。迷いが払拭できたのね。
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posted at 17:26:42
斎藤第六章第6節2。twitter.com/sunamajiri/sta... の続き。やっとハイデガーも私達に近づいた。ニーチェの超人批判だが、ヘルダーリンによる解釈学の脱形式化への転回という「哲学への寄与」。機械的反復→意志→テクネー→反自然。bit.ly/1gSzvHm
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posted at 17:08:31