大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年12月22日(月)
丸山文隆氏のカント書論heideggerforum.main.jp/ej8data/maruya... で引用された論文、3本ネットにあったwww.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... が一本は現象学会年報でネット非公開か。
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posted at 18:43:49
日本で評論が文芸評論という独特なジャンルなのも、言文一致体としての近代小説の中にしか、現象学のような、近代的自我の素材が存在していなかったからだろうが、しかし国語現代文では文芸評論は忌避される。それは小説を与え、それによって現象学のような論理で読めるかをテストするためだ。
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posted at 03:55:22
そうした意味で、現代の日本で必要な論理性のすべてが現象学にあるといっても過言ではない。戦後の人権偏重の挙句にモンスター化してしまったことや、かたや機械的な受け答えで機転を働かせられない人材ばかりで空洞化の憂き目にあっていることなど、全ての問題解決のために国語力が問われているのだ。
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posted at 00:24:00
ここからいえることは、思考の臨機応変を測定するために、現象学的な文を漢文の換言のように換言テストするのは、小説の換言でテストするよりも、より直接的に機械的な反応や、形而上学的な思い込みを排除できる、というのが日本の現代文テストの方法になっていると言って良い。
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posted at 00:13:11
漢文の換言という伝統から、現代文では言文一致体である近代小説の換言が国語テストになったのだが、現象学の浸透で小説の換言でなくとも、言語力を測定する論理性が得られるようになった。つまり逆に国語力が低いと、マニュアル的な杓子定規な反応や、修正主義史観のような形而上学に陥ってしまう。
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posted at 00:10:47