大本薫 Kaoru Ohmoto
- いいね数 11,694/13,358
- フォロー 2,831 フォロワー 2,653 ツイート 290,630
- 現在地 東京 LA NY 茅ヶ崎 鹿児島
- Web http://www.sunamajiri.com/
- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年01月16日(金)
評論より、原書の方が読みやすいものだが、ハイデガーはね。でも高田訳は、ゾルゲが定義されるまでの前半部にもゾルゲが欠けてるはずがない、と踏まえることで、日本語として読みやすくなったね。近代小説の文体が村上春樹になると、シンプルになるのと同じだそうだが。@LitoSnowfield
タグ:
posted at 05:32:29
『存在と時間』を読んでない人は、読書会をやるべきなんだが、さっきの等根源性というのはよく言われる概念だが、ざっと高田訳で見つけると、この両面?性のことね。まだ同時性になってないでしょ?ただそれだけのこと。@LitoSnowfield pic.twitter.com/iAxeIsPCEi
タグ:
posted at 05:19:25
そうそう。自然の多義性から転回したかもね。というより新約の信仰はないが、それでも科学の影響下だからね。そんなものはハイデガー的には気にならない、わけだが。@LitoSnowfield その辺り>日本人には自明的
タグ:
posted at 05:14:00
いや簡単よ。日本人は近代化というと、新約のような西欧に対峙してしまうのだが、ハイデガーはそうした新約的な宇宙観から、離れる道先案内を買って出てるだけだから。日本人には自明なことといえるかもしれない。@LitoSnowfield 最近、ハイデガーtweetを追いきれていないので〜…
タグ:
posted at 05:02:23
つまり端的に、決意性によって、被投性(等根源性)が取り出された後は、決意性もいらなくなってしまうという、ハイデガーの新約的な聖書観からの脱却がみられるということなのだが。その後に同時性が出現するからね。@LitoSnowfield pic.twitter.com/NcDlIdO9xa
タグ:
posted at 04:57:43
このカイロス(未来が結果ではなく原因のようにあること)という旧約の内実を、ハイデガーが聖書に書いてないことと見誤る問題とザラデルが言うことは、ニーチェのニヒリズムの克服までにあったような『存在と時間』では、決意性なのだが、それが払拭されても残るからね。@LitoSnowfield
タグ:
posted at 04:54:20
ザラデルはハイデガーが見誤るのは、聖書をギリシャ語訳聖書しか読んでないからだろう、ということも論証していくのだが、そのカイロスは斎藤元紀氏が博論で形式的告示を論じるときにアリストテレスをどう脱却するか、という問題で出てくるね。@LitoSnowfield
タグ:
posted at 04:48:42
超越論を経験論として語ろうと超越論のまま語ろうと、ハイデガーの問題設定だけが飛び出てしまう。東の博論の前半と同様、フッサールの『幾何学の起源』からポンティ、デリダ、セールを立論する中田光雄も序文ではハイデガーの幾何学への比肩に言及する。bit.ly/1xtvn2R
タグ:
posted at 03:31:43
言い換えると、超越論という名前まで奪い、伝承という経験できない経験の問題と片付けるほうが、(日本人的には)案外さっぱりしているということになるのだろうが、それを行わせたのが襞や二重襞、つまりハイデガーの問題であり、それは超越論性という名前を奪ったところで消えるわけではない。
タグ:
posted at 03:17:05
というように、すべて経験世界の伝承(郵便)の認知限界に組み入れられてしまうのだが、しかしどうやら、幾何学と並んで、単に誤配する伝承=郵便に組み入れられないのが、襞や二重襞とよばれる、存在論的差異や存在忘却という問題として、東は本文でその権利を固有名で呼び続けている。
タグ:
posted at 02:59:28
続 ハーバート・サイモン風に言えば、「認知限界」です。僕たちはあるかたちでしか世界を切り取れない。だから余剰分が残る。するとその効果が超越論性として知覚されてしまう。」とも述べる。引用終わり
タグ:
posted at 02:31:47
続 とすれば要するにそれは、ある種の経験論に立つということになる」と問う。東は「人がなぜ人のなかに超越論性を見出してしまうのか。…僕の考えでは、それは結局は現実のコミュニケーションが極めて複雑なグラフを構成していて、その複雑さを人間は処理できないからです。続
タグ:
posted at 02:31:25
引用 東が「経験的なネットワークがむしろ超越論性を生み出す」と述べるのに対し、千葉雅也は「それは、哲学的に展開すると大胆な意見だと思います。カントに従うのならば超越論性というのは現実の条件であるわけですが、その次元をさらに条件づけているものとして経験的なものがある-続
タグ:
posted at 02:30:55
ところで、フッサールのいう権利問題(幾何学の起源)というのは、柄谷~東ではクリプキの固有名論と同じなのだが、その結論。WIKIで千葉雅也との対談が再録されているのだが、ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98... 曰く
タグ:
posted at 02:29:56
説明しておくと、合田が指摘するザラデルの回避はフーコーの回避なのだが、レヴィナスがザラデルの博論に指摘していたのはフッサールの回避で、ザラデルはそれを挽回するために単著でハイデガーの権利問題だけを論証してしまった。しかし合田はデリダは論破できてもラカンが回避されていると指摘する。
タグ:
posted at 02:25:51
合田の訳者後書きでのザラデル批判も、この権利問題。同書でザラデルはハイデガーを権利問題だけに純粋化できたため、レヴィナスを斥け、デリダのようなエクリチュールすら斥けてしまう。しかしいぜれにせよ、ハイデガーをめぐる権力闘争の図式に変わりない、というものだ。
タグ:
posted at 02:20:06