大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年08月06日(木)
ミヒャエル・エンデが、想像力の超越論性=産出力を、なんとかものそうとしてますよね。twitter.com/Michael_Ende_j... @estei_st それまでのドイツ観念論を継承しつつ、理性による存在の認識を超え、意思は(これまでにない)新たな存在を想像する力
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posted at 23:13:32
カントが想像力を再性的能力としてしまったが、じつはそれは生産的想像力(構想力)bit.ly/1InXgCq ではないか、というのがカント講義書末尾の総括部、さらにカント書ではそれを有限的想像力を齎す超越論的時間地平と語るのです。@estei_st
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posted at 23:11:34
@sunamajiri 面白いことにハイデガーもシュタイナーも、先人の哲学を引き受けながらも、解体し読み替える達人だったといえると思います。両者の生きた時期は重なっていますが、互いの哲学をどう評価していたのか、等。思いつくままに(すみません)。
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posted at 22:57:08
@sunamajiri ひょっとするとハイデガーも同様のことを考えていたのではないか?つまり被投のうえでの企投、新たな価値を創造する、といったことの当時の表現がナチスへの期待だった、等。
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posted at 22:54:50
@sunamajiri 思い出しました、高橋巌さんのシュタイナーを読んでいて思いついたことをひとつ…シュタイナー哲学のキモは、それまでのドイツ観念論を継承しつつ、理性による存在の認識を超え、意思は(これまでにない)新たな存在を想像する力を持つ、というところにあると思いました。
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posted at 22:49:52
実は前半読みやすい高田珠樹が、このあたりになると読みづらくなる。前半な文意で換言できていたのが、後半になると用語の新訳だけで、読みづらい、それでもその箇所は訳注で、こんな感じ。@estei_st さん pic.twitter.com/kk6Dwo2JsM
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posted at 21:26:52
ハイデガーが悪文のお手本のようになるといえば、@estei_st さんの twitter.com/estei_st/statu... を拝読。例のナチ絶賛のように読まれる74節に至る箇所についてだった。@LitoSnowfield
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posted at 21:05:27
それで判るように、ハイデガーは書き手として最悪なのだ。書き手というのは無規定な自我を無規定なままに振る舞う態度のことなのだが、ハイデガーは態度決定というこというために、歴史の規定は時間という全体である、という態度表明をするから書き手として最悪なのだ。@LitoSnowfield
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posted at 08:50:50
無規定でしかない(書き手という)自我になりたいために、形而上学に走ってるね。図式化=概念の規定は全体である、という超越論性を、彼は神のことだと短絡しているようだね。それで自我という仮象になってしまう。彼の言う書き手というのはそういう意味だろう。@LitoSnowfield
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posted at 08:46:02
そうそう、柄谷行人は全体=神という形而上学だね。それに対して全体=時間というハイデガーは、書き手などにならず、普通に有限者が安らかに死ねる、という話をしているのだが、それを受け付けず、柄谷は書き手として死後も不滅でありたい、という欲望の権化なのだろう。@LitoSnowfield
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posted at 08:42:40
時間が一性だから、神の視点でなく有限者の視点が得られる、というハイデガーのような単独者論を、柄谷行人は有していないということになる。柄谷にとって一なる全体はあくまでカントの図式論の言う規則に対する時間規定ではなく、単なる形而上学的な神のことなのだろう。@LitoSnowfield
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posted at 08:27:50
柄谷といえば取り柄は乱読なのだが、彼は読み手として誠実ではないというだけなのだろう。全体より単独者だというのだが、そこには、一性は神のことで、そんなものは存在しないのだから、時間は部分のことだ、という誤読が介在しているように見える。@LitoSnowfield
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posted at 08:24:36
おそらく、時間が一なる全体(一性=トヘン)だから規定だ、というハイデガーの論述を読めていないか、まさか一なる全体の話ではないと、柄谷行人は高を括ってるね。だから読めない、つまり自我という仮象の探求を彼はするね。彼の言う単独者は書き手になることだしね。@LitoSnowfield
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posted at 08:22:44
アーリアとセムという二元論に走るあたりで、内田樹に反知性主義といわれてしまいそうだが、柄谷行人は。セムというより、コギトを実体的に読む仏教の間違いか何かだろう。仮象=無規定=部分と、現象=規定=全体ということを、彼は度外視してしまう。@LitoSnowfield
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posted at 08:02:52
そのハイデガーの親切を読めない柄谷行人が、ハイデガーをデカルトの自我に固執するアーリア人、カントをセム的と一面化させて、トランスクリティーク(ハイデガーに対する超越論的批判)するのよ。@LitoSnowfield
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posted at 08:00:49
しかし、自我という無規定性を、人間などという一般的な概念で規定するな、というのは、一般と個別の脱弁証法のような営みをするユダヤ教のラビのようだ。無規定=仮象を、人間という仮象ではなく、時間という規定=現象に解消するという、カント書が、極めてヘブライズム的に見えるのは事実だと思う。
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posted at 07:28:50
もっとも、カント書ですら、カントの超越論的仮象が、デカルトの自我の無規定性だと、明記的になっているわけではない。そこにカントの動揺ならぬハイデガーの動揺があるのかどうかは、研究者の意見が分かれるところだろう。しかしカント書では、超越論的規定性を言明している。
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posted at 07:25:20
デカルトの自我という無規定性=仮象は何なのか、それは時間という規定だ、という原理の発見というのは、ハードプロブレム(心身問題)という仮象が終結して、有限者がやっと安らかに死ぬことが出来る、ということだから、我々の感覚としてはごく自明なことなのに。@LitoSnowfield
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posted at 07:22:17
この西欧文明の自分探しの原理的終結、時間を歴史の規定にすること、というハイデガーのカント書の暴力(有限者の回復)のインパクトはものすごいね。直後の第二次大戦というより、戦後、非西欧人が反動で自分探しして、ついに原理的に飽和してしまったから。@LitoSnowfield
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posted at 07:19:41
有限者であることを取り戻すためには、自我という無規定ではなく時間を規定として歴史化すればいい。そうすれば無規定な自分探しなどというど壺に落ちることはない。言い換えると、人間や当為を一般論で規定するな、ということだが、やっと一人前になるという趣旨ね。@LitoSnowfield
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posted at 06:48:31
そうそう。自我という無規定より時間という規定だというハイデガーのカント書の有限者の回復というのは、一言で言うと、自分探しなどするな、というようなことだからね(^-^)/ @LitoSnowfield 冒頭文ナイス〜(*^o^)v togetter.com/li/856740
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posted at 06:44:07