大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2016年05月09日(月)
ところで、木田元的な図式性(被制作性かどうか)で明らかにならないのが、このesteiさんの疑問 bit.ly/1s5OyFK
でしょうかね。ハイデガーが事実存在に対する本質存在の問(存在者とは何か)から被制作性が生まれた、というのですから。@estei
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posted at 06:13:17
木田元ハイデガーは、こっちのスレへ。twitter.com/sunamajiri/sta... @estei twitter.com/estei_st/statu...
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posted at 05:01:12
というか、ハイデガーにそれがあるんだけどね。トヘン=自然を一纏めにすると、自然の外部、超自然という視点を生んでしまうが、そうした被制作性を解体しようとしているわけだから。ただそうした「がある」というのは、日本語の語感では「自然だ」というのが木田元の指摘。@pucatavaco
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posted at 04:54:48
自然は萌え出る事実存在として一者なのであり、超自然的な神が自然を材料に本質存在を制作するのではない。この萌えるということ。ハイデガーによる西欧批判・哲学批判が、この萌えという一点に収斂されていくというのは、ハイデガー解説者としての木田元の天才的な日本語的な感性かも知れない。
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posted at 02:11:37
「がある」(事実存在)ではなく、「である」(本質存在)の優位が、プラトン以後に起こった西欧文明の異質さだ、というのがハイデガーが徹底させる哲学批判なのだが、独仏語より洗練した英語でも事実存在は「there is」というしかない。それに対して日本語の語感がどんなに優れていることか。
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posted at 02:09:12