大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2016年05月10日(火)
@sunamajiri たまたま自分は、死の不安~現存在の歴史性あたりの流れを経験上腑に落ちるかたちで読むことが出来たのですが、多くの人は自分自身の死や生活と何の関連があるのだろうか、と感じると思います。話題が逸れましたが…
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posted at 14:12:51
@sunamajiri ということであれば、確かにそのような気がします。それで気がついたのですが、主著の段階から、誰でもないまさにこの「わたし」の問題は捨象されていますね。初めから現存在はいわば公共性を前提されている。
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posted at 14:09:13
@sunamajiri 今のところ文脈を連結できる気がしません。ところでデカルトの件ですが、一言でいうとハイデガーの存在論においても、「我」の存在に関する考察は看過されたままになってしまっている、ということでしょうか。
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posted at 14:04:40
@sunamajiri といった疑問だったわけです。このイメージの問題は、生楽器音以前に、人間は音色というものを想像できていたかどうか、という疑問から派生したものです。自分がもう少し西欧哲学の各種概念に詳しければ、例えば本質存在と事実存在との関係に即して展開できるのでしょうが、
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posted at 14:02:08
@sunamajiri はい。ええとですね、件の備忘の文脈で魂の表象について持ち出したのは何故だったのかよく思い出せなくなっているのですが(笑)、元々は何かを語る人が、その何か(「力」であれば力)を感覚を伴ったイメージとして把持しながら語っているのか否か、
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posted at 13:59:22
カテゴリー誤謬は、たとえば twitter.com/sunamajiri/sta...のことで、二重の自我というのは twitter.com/sunamajiri/sta... のことなのだろうが、そこからesteiさんのいうような問題は派生するものなのだろうか? @estei_st
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posted at 02:53:15
はっきりいえば、プラトンとアリストテレスの被制作性を相対化できても、デカルトの二重の我(あるいはカテゴリー誤謬としての我)が、相対化できないという、頭の痛い問題があるのかもしれない。それはどう思います? @estei_st bit.ly/1s5OyFK
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posted at 02:49:48
そこ(カントとニーチェの被制作性批判)からはどうやら、esteiさんのいうような魂という規定自体が問われたかどうかも定かではない、という問題が実は潜んでそうだよね。@estei_st bit.ly/1s5OyFK
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posted at 02:49:25
それにしても、大雑把に取り纏めないと、見えてこないというのが困ったものだが、基礎存在論はほぼカントの被制作性の批判、そして基礎存在論を断念してそこからの転回は、ニーチェの被制作性への批判だよね。@estei_st bit.ly/1s5OyFK
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posted at 02:45:38