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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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Favolog ホーム » @sunamajiri » 2016年05月11日
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2016年05月11日(水)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

そうであるよりは、twitter.com/ursprungbot/st... というように、ハイデガー的なパースペクティブでしか、現勢という事態としての芸術の生起は、把捉できないということなのでしょう。制作でも被制作でもないという。@estei_st

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posted at 23:26:36

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

ところで、たまたまTLに流れてきたのだが、こうした現勢という事態、あるいは芸術の生起を、このショーペンハウアー的な意味に解すると、文字通り潜勢としてのヨーロッパ文化になりかねない。彼らは制作してしまう。twitter.com/Schopen_bot/st... @estei_st

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posted at 23:25:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

私は二元論=潜勢に対して、現勢と用語化してるのだが、その定立はそういう先措定のことです。身体としての魂は、表象なくしては思考しない。bit.ly/1CdgQ4Z @estei_st pic.twitter.com/uFCqnhk0h0

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posted at 23:07:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

つまり、二元論者は魂を身体と定立しないのだが、身体=魂はそれだけでは思考できない。そのことと、本質存在が現実存在を齎すのではない。このことは考えあわされる前に、等根源の規定性だとされている、ないしは、そうしたいのでしょう。@estei_st

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posted at 23:00:39

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

もっと大雑把に言うと、カントでは時間が永遠とか絶対時間に退却してしまうが、そのことで逆に、思考する魂の恒常不変、等しい物性、同一性が暴露されてしまっている。それなら時間の本来性の地平からは、被制作性暴露というより、同一性暴露になるという。@estei_st

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posted at 22:59:45

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

もっと大雑把に言うと、カントでは時間が永遠とか絶対時間に退却してしまうが、そのことで逆に、思考する魂の恒常不変、等しい物性、同一性が暴露されてしまっている。ぞれなら時間の本来性の地平からは、被制作性暴露というより、同一性暴露になるという。@estei_st

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posted at 04:20:00

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

確かに、木田元もハイデガーも言いたいように、カントはデカルトの被制作性を統覚とするために、非本来的時間に退却している。それにもかかわらず、デカルトにはない思考する魂の問題を開示しているというのだから、魂=思考が表象による、というesteiさんの思考も中々鋭い。@estei_st

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posted at 04:15:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

これが木田元的ハイデガー(被制作的暴露)では方法化しない。木田元が何を図式から捨象しているのか。その全体図がハイデガーにはあるか、ということだが、「表象なくして魂(つまり身体的頭脳)は思考しない」というアリストテレス霊魂論の、カント的模索にあるのは疑い得ない。@estei_st

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posted at 04:11:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

木田元的ハイデガー観では、ハイデガーは被制作性暴露しかしていないことになる。それに対して、デカルトは被制作性暴露をしない。対するハイデガーのデカルトは、延長的我への反省では、アリストテレス的被制作性の魂という根源規定への転倒、実体化だという。この堂々巡り。@estei_st

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posted at 04:04:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

逆に言えば、それ(非公共的なデカルトの我)がハイデガーに分かっていたのか、という疑問が残る。その点で単に被制作性暴露という手法では、デカルトの方法に及ばない(デカルトはその暴露をしない)のかもしれない。デカルトの方法を徹底しようとして不徹底化したのか、という問。@estei_st

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posted at 03:57:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

ただ、カントの被制作性によりアリストテレスの被制作性が完全暴露されると、恒常不変、等しい物(同一性)の、永遠(性)の回帰となったり、被制作性の外の同一性の生起を問うている。これがesteiさんのいう、非公共性としての魂の問題でないとは、私には分からない。@estei_st

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posted at 03:42:59

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

ポストカント書期のカントの被制作性によるアリストテレスの被制作性の暴露のあと、1930年台はハイデガーのニーチェの被制作性の暴露期だが、この頃のテクストが錯綜していて、どこから読み始めてどこから読み終えてよいのかも、正直素人には分からない代物と化している。@estei_st

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posted at 03:40:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

ハイデガーの基礎存在論は、カントの被制作性の暴露でしかないが、GA26補論で要請した転回後のニーチェへのアプローチ(おそらくメタ存在論)は、全集でもテクストが分裂・錯綜し、明らかにハイデガーが動揺していますよね(全集では完成稿と原稿が併置されている)。@estei_st

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posted at 03:37:51

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

デカルトの我だけが公共的な我と非公共的な我の二重性を具現していて、ハイデガーの基礎存在論の我(現存在)でも、それが生起しないというのは面白いですね。@estei_st 誰でもないまさにこの「わたし」の問題は捨象されていますね。初めから現存在はいわば公共性を前提されている。

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posted at 03:32:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

このように、公共性とは被制作性のことであり、ハイデガーはそれをいかに相対化したか。それがデカルト~ハイデガーを被制作性と一括りにする木田元的なハイデガー観で十分なのか、というのが興味ありますね。twitter.com/sunamajiri/sta... @estei_st

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posted at 03:25:42

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

それが、ハイデガーがカントではニーチェの被制作性すら見破れない、という木田元的ハイデガー観でしょう。たしかに、デカルト以後の公共性では、魂より死が公共的だが、被制作性もまたそこでいう公共性のことだから。@estei_st bit.ly/1TP4STP

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posted at 03:19:19

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