大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年08月29日(水)

知ってる筈だ、知らないことはない筈だ、というのは、自分はいるのは明確だという意識と同じことだけど、この他人も自分のような自我とは限らないt.co/WJrBxpOd というのが東洋的なら、そこからは西欧の弁証法が、知らないことの開示や伝授と錯覚されてしまう。
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posted at 13:50:55

弁証法という、知らないことがある筈がないという書き方でさえ、読み進めれば自分の知らないことを啓蒙される、という日本的な読みt.co/ukMmxkD4 というのも、勿論、この「自我がない」という東洋哲学の裏返し(^-^)/ t.co/WJrBxpOd
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posted at 13:49:13

東洋哲学では他人が自分と同じように我(意識)を持っているかって、西洋哲学より深く考察されていたりするのよね。そもそも「自我がある」ということ自体を自明でないとしてたりするのよ? 「無我の境地」なんてね? 詳しくは無我説で調べるといいかも♪
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posted at 12:43:55

Hegel Japan ヘーゲル・ヤパン @GWF_Hegel_Japan
人間を自然一般および動物から区別するのは、自己意識という同一性である。動物は、自分が自我であること、すなわち自己のうちにおける純粋な統一であることを理解する点まで達していないのである。
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posted at 12:04:35

近代以降の日本の雰囲気というのは、この「知られていないことがあるはずだ」という陳腐な啓蒙主義なのだが、そんなもので何かが発見できたりするわけではない。したがって教育も、知られていないことをdiscloseしているわけではない、というのを分からせるだけだ。
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posted at 11:17:33

知らないことを開示する順序性のテクストして弁証法を捉える場合、単に弁証法が読めていないわけだが、そこにあるのはただ知らないことがあるという前提を基に、知られていないことを作りたいという意志だけだ。こうした順序性と正反対の言語形式として弁証法が読めるかだけが問題だ。
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posted at 11:12:52

日本ではもはや現象学という弁証法が、国民文学の代補となるほど国語に濃厚なのは、どうやら弁証法が一つの順序性であり、知らないことの自覚を伝達するテクストとして、誤読されているからに思えてならない。しかし、弁証法的に、知らないことという領域は存在しない。それは弁証法ではない。
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posted at 11:03:15

もし弁証法が、知らないことの自覚や開示、あるいは読者を自覚させる伝達なら、その時系列は、小説のサスペンス効果のように徐々に何かを明らかにしていることになるが、そうした順序性というのは、本来は弁証法にではなく、幾何学的な様式にしか含まれていないはずだ。
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posted at 11:00:07

どうも幾何学以降の弁証法を、まるで啓蒙されることが何かあるかのように、知らないことを知ることが出来るテクストとして読むのが、日本では根強いのかも知れないが、それなら自分で弁証法してみるといい。弁証法の主体(書き手)は、知らないことがあるという前提に弁証法ができるわけではない。
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posted at 10:56:59

どんな弁証法も、知らないことの発見や情報の開示、あるいは啓蒙として読まれたり、書かれたりが可能なテクストの形式ではない。大体、知らないことがあるという前提そのものが、弁証法を不可能にするだけなので、そのように前提する思い込みの人には、弁証法は読解できない。
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posted at 10:47:16


あらあら、世界は表象でなく現象じゃないと主観がどっか逝っちゃうのかとww(^-^)/ @Schopen_bot 世界に属するすべてのものはただ主観に対して存在するにすぎない。世界は表象である。
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posted at 06:54:15

もともとクラシック音楽って全体的にもっと軽かった気がするしねー(^-^)/ @LitoSnowfield テクニカルに軽くなる傾向があるようですね〜(*^o^)> なので…今のクラッシクファンは昔のスタイルを全否定な感じもあるようです
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posted at 06:50:48

最近の西欧のクラシック奏者の音のとり方はよりリズミックに軽妙になってきてるらしいですね。バッハなんかもどんどん前のめりに演奏する。日本人はどんどん溜めちゃうけどww @LitoSnowfield ドイツとかフランスのクラッシクな世界も…どぉ〜〜んとした雰囲気もあるなぁ〜〜
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posted at 06:47:10

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あ…先日にJazzなレッスンを受けて嬉しかったことの一つに(*^o^)b 久しぶりにJazzな香りのする方とお話できたことでした(笑) これは言葉で表現するのは難しいのですが、Jazzな世界にドップリな方には独特な広々としたような雰囲気?…体臭?…みたいなモノがあるのです。
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posted at 06:27:14
2012年08月28日(火)

"『英米系の公共哲学で問題になる「自由主義」「自由至上主義」「共同体主義」「共和主義」などの用語は、リバタリアンを除けばフランス語にも対応する表現があるが、その意味するところはかなりずれている。アメリカの..." t.co/YtOfkFR4
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posted at 19:24:59

ジャズって、オリジナルであることに対する抵抗、そしてその実存みたいなところがあるのにね。別にクリエーターではないんだから、もっと気楽にやればいいのに(^-^)/ t.co/VK3DZ0Sy
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posted at 10:44:56

弁証法の人が兼ね合いのように捉えず、何かを実体的に捉えてしまったり、というのは精神病ですが、楽器のレッスンだけでなく、子供たちへの読解の授業でもその兼ね合いに気づかせることは、それほど難しくないんです。誰でもできます。難しそうに構える必要はないんです。(^-^)/
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posted at 07:52:23

そうです、文でも弁証法をつかめず、なにかがあると思ってしまうのも、一項のみに志向が行ってるときです。読解で子供に教えるのもその練習法だけなんで、簡単です(^-^)/ @LitoSnowfield あ…一つのみに偏ってしまうということは、単語に躓いている状態ですね〜
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posted at 07:41:18

楽器メソッドの古典では、低い音からはじめて、倍音は初級を卒業してからというボトムアップだったのだけれど、倍音の方がより自然現象なので、最近では、倍音も初歩から出させてその兼ね合いで、低音域のバランスをつかませるとかね、なんでも最近は相対性です。@LitoSnowfield
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posted at 07:37:12

そうなんです、楽器練習で出来ないというのは、大抵の場合、バランスさせる相対的な第二の点を意識化できていないときなんです。まあ物事すべてそれですが。@LitoSnowfield 本当に…“自転車”ですね〜〜(・o・)> 出来るようになると…一変に感得出来てしまう…なところとか
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posted at 07:30:38

ふつう集中力というと、何か一つの点に集中するみたいにイメージしてしまうんですが、物事はつねに相対性なので、何かとの兼ね合いのバランスを掴む、その第二の意識の矛先が何か、というのを常に知るのが、楽器でも上達なのよねー。現象学用語でいう志向性(^-^)/@LitoSnowfield
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posted at 07:25:48

なので、何か目掛けて吹くというより、スマイルアンブッシャーとの兼ね合いとか、タンギングもトゥと発音するという意識であるよりは、息圧との兼ね合いを掴むとか。楽器の感覚だけでなく、音楽自体バランス感覚で成り立ってる芸術といえますからねー。(^-^)/ @LitoSnowfield
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posted at 07:23:16

言い得て妙で、実際、音楽に限らず、何か上達するというのは、一つの事柄に意識を集中するというより、何か他の事柄との相対的なバランスを掴む、ということなのかもねー。文字通り自転車に乗れるようになる感覚もそれだし。(^-^)/ @LitoSnowfield あ〜練習法も読解だったのかも
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posted at 07:20:45
2012年08月27日(月)

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とはいっても、個人的に弁証法大好きなので子供たちに付き合ってられるが、罪悪感を覚える。なので現前とか地平とかでてきたら、文の中の函数と捉えるゲームと思わせ、面白がせる。ww (^-^)/
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posted at 04:58:32

現象学ジャーゴンや弁証法的修辞を国語教育に盛り込むのは、弊害しか生まない。そんなものを入試問題に出す大学は進学すべきじゃないし、私に子供がいたら進学させないww (^-^)/
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posted at 04:47:18


日本近代文学が国民文学でなくなった後に、文芸批評から、弁証法や現象学が台頭したわけだが、そんなもの誰も読まないから、国語の教科書と大学入試問題が市場になってしまった。国民が入試でだけ触れる文章、それが弁証法や現象学、そんな異常な国語教育は、西欧ではなされていない。
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posted at 04:44:33

少なくとも子供(の国語力)に必要なのは、弁証法ではない。それだけは確か。ちょっと前まで国語で評論なんてなかった。論説というのは新聞記事だった。それが現象学の浸透とともに高校国語の主流になったのだが、ゆとり教育以上に弊害が大きいように見える。
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posted at 04:41:29