大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年04月16日(水)
日本の落ち目な一国経済が生物学的に謎らしいよ。彼は原発推進の話ばかりするが、3.11直後、脱原発といった柄谷行人を「ハイデガーのテクネーが分かっていない」と批判したブログは、いま検索したら見当たらない。削除したのか? bit.ly/1qEdYUK @cubapon
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posted at 00:13:20
現象学って悪文の手本ということだからねw 2人の訳者とも後半苦労してて、日本語の文章としてはゲシュタルト崩壊してて笑える。原文の方がましなのだろうが。「時間」という実存カテゴリーに「客体」も仲間入れさせると、すこしは文章になる。@LitoSnowfield まるでケムマキ文
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posted at 20:44:27
客観テストとかいうアホな手法の日本の国語では、悪文で読解テストするものなのだが、完全な悪文でなければテストできず、完全な悪文というのは現象学でないと不可能。この文、ただ「配慮的気づかい」と言いたい(名づけたい)だけなんでしょ? というのが分かれば良い。@LitoSnowfield
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posted at 20:56:16
隔る故に隔たりの無さが有ること、開離性(細谷等訳)は、英訳だとde-severance。de-はドイツ語が嵌り込む前綴り分離動詞ent-だそうだが、要は反対語で別なカテゴリーを作るということ。@LitoSnowfield pic.twitter.com/IAbJwy0xbb
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posted at 22:04:19
2014年04月17日(木)
・・・と、すこし気分転換したところで、全ての言換えが延長カテゴリーになってしまう、ハイデガーの実存カテゴリーに戻ろっと。実存カテゴリーとは換言==翻訳(日本語・英語どころか、最も深刻に仏語に)できない出来ない分離動詞のようで、ずっと今週はそれを思考している。時間が止まりそうだ。
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posted at 06:00:56
(続)しかし、どうも後続世代の世界視線が吉本の手前の射程になっている。たとえば、ジャズをやるのは「日本人には伝統文化ではないが、楽器という道具に触発されるからだ」と、彼らはずっと弁解するのだが、私達にこういうのない。twitter.com/bassfukawa/sta... @TKDOMO
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posted at 19:44:32
面白いのは、柄谷・吉本両氏にとっても、倭語は先験的で、プライベートランゲージと設定されているのだが、戦国時代にやってきた宣教師には、日本人には理性があるようにみえ、アクィナスではなくアリストテレスを宣教した、という点。d.hatena.ne.jp/nikubeta/20140... @TKDOMO
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posted at 20:08:57
2014年04月18日(金)
認識は生においてその対象をもつ。ドイツ的思惟は、爾余のそれにまして、生の始源・原点に至ることを求め、認識そのものにおいてはじめて生を見出す。デカルトの「我思う、故に我在り」とは、「人は思惟する時にのみ、生を得る」という意味を持つ。思惟する生とはすなわち、「精神的生」だ!
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posted at 00:05:49
ハイデガーはなぜこういう幾何学を回避しているのか?ということばかり、最近読んでいたので、これオモロそうね。以前に「客観が下手な国語の出来ない日本人」といったら、「おまえは超越論がわかってないのか?」と批判されたのだが、もちろん超越論的客観性のことであった。
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posted at 00:29:30
ガルシアマルケス経由しないと、リアルがリアルにならないままだった日本の小説言語って、三島のニヒリズムが断末魔なのだろうが、ちょうど三島がニヒリズムについてツイートしていた。ww (^-^)/ twitter.com/MISHIMA_ESSAY/...
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posted at 17:09:28
表出が好きよね日本人。昨日も吉本隆明は言語を表出としか捉えないという話題twitter.com/sunamajiri/sta... で盛り上がったのだが。確かに気分しか無いが、言語がそれの表出というのは、日本式の思考法なのかしらね。@Shin_Kishida 気分を言語に現わしたら、
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posted at 17:34:39
2014年04月19日(土)
やはり当初立ち読みで直感したように高田新訳が一番「和訳文が練れている」。ハイデガーの和訳は、訳語解釈に拘るあまり、注解でしか命題を取り出せないような訳文になっている。商業翻訳では下訳レベルなのだが、訳者は原文のせいにするだろう。しかし解釈学としてのハイデガーを解釈できていない。
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posted at 20:28:51
数日にわたって、延長カテゴリーを禁じる297段落付近の和訳の仕方を、辻村、細谷、熊野新訳から考えてきたのだが、高田新訳だけ「現存在が隔てた手許存在に自分も含む場合」という命題が明示されている。bit.ly/1qYCAYc
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posted at 20:29:34
熊野新訳では「手もとにあるものの現存在自身からの距離」、細谷訳「現存在から用具的存在者の距たり」、高田新訳「手許に在るものと自分とのあいだにある遠さ」。高田訳だけが、自分を手許存在とみなす場合、というこの段落の命題を訳出できたことになる。
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posted at 20:29:59
297段落は、デカルト認識論批判の絶頂箇所だが、それだけに延長カテゴリーを禁忌とした訳文が造られなければならない。そこにあるのは、現存在は隔てを生むが、隔てられた手許存在は現存在ではないから、現存在を隔ててみる単なる空間は、空間ではないという命題なのだが(続)
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posted at 20:30:15
(続)そこに高田訳だけ「手許にあるものと自分との間」というように、現存在が自分を手許存在と見なすことで錯覚してしまう距離、という批判対象が訳出されている。その他の訳者は、この重要命題の日本語訳に成功していない。
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posted at 20:30:34
なので、この段落冒頭を日本語にすると「現存在は隔てを創出するが故に世界=内=存在である。それゆえ、手許存在までの隔てを決して渡り切ることができない。仮に現存在が自らを手許存在と見做すと、自身までの隔たりが不明になる。よって単なる距離として見出すことに、現存在は関わらない」で十分。
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posted at 20:30:49
いわば、やっていることは、ハイデガーの訳文の受容によりニヒリズムに屈折した日本文学という系譜学を研究していることになるのだが、このように訳文に「可能性としてのハイデガー」が全く感じられない。とくに去年でたばかりの岩波文庫版熊野新訳が、かなり悲惨である。
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posted at 20:33:15
「可能性としての~」というのは、柄谷行人の「~の可能性の中心」ではないが、本来哲学がそうであるべきものとして、たとえば今日届いた新刊書では「可能性としてのカント」「可能性としてのフッサール」から捉えると、科学的対象である超越論的主観からの転回が、という話になったりする。
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posted at 20:34:57
ちなみに、ent-ferungというハイデガーの造語的分離動詞で四人の訳者が苦労しまくっていて、いま一番よいといった高田も「阻=遠」だが、この単語以外で命題を捉えることに成功している。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 20:48:56