大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年04月29日(火)
そうそう、全て実存。ドイツロマン派音楽がそうではないとやった反動。@Hachi_Astroboy それだと結局、「ロック」も「フォーク」も解る人にしか解らないと思えてくるのですが @noburin2828
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posted at 11:16:08
実存範疇なので、一般化ではなく、実存していない(一般の)事柄を分類するキーワードで綜合しても、わからない実存だ、ということです。@noburin2828 一般化して平均化してみても、ジャズなんて説明した気になるだけでわかりゃしないのに(笑)
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posted at 10:58:52
ジャズって実存主義だ、とかいう人が大時代にいたけど、ジャズって一般範疇でないね。それでは単なる実存だ。明らかにジャズのアンチって、実存範疇でおまえらにわかるかよ、とやる。それをロックのように俺たちにも分かるぜベイビー、なんてやられると、ほんとに萎える。@noburin2828
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posted at 09:24:57
この「自分しか知らないはずだ」というのが、西欧では古来から唯一のテーゼでね。そんなことはあり得ないから、なんでだろ?とずっとやってるわけなのだが。それを「自分には知らないことがある?」という人達に向けて、自分だけが知ってるというポーズは、単に下品。@LitoSnowfield
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posted at 02:11:05
2014年04月28日(月)
あいつらの学部にとっては学部生の教科書ぐらいなのだろうからね。お門違いは見当外れをしかねないというだけ。能動性はそんなむずいことじゃないよ。知覚を知識にするのは何かの機能か?いやちがうだろう、というほどの意味だよ。@TKDOMO pic.twitter.com/jFeHnulxhm
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posted at 16:19:58
ところで、この純粋な能動性は本当にアポステオリなのか?というテアイテトス以来の知識モデルの話、ハイデガーを分析哲学に無理なく融合するシューネーデルバッハ、わかりやすくて笑えるのだが、例の労働と遊び、こういう出方をしてた。bit.ly/1hGqITD @TKDOMO
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posted at 12:57:20
2014年04月26日(土)
彼らは太古からキョドらないためにはどうしたらいいか?ということしか考えとらん。近代になると、ある理由から、一時期そうでなかったことになってしまい、近代化が巻き起こるのだが、どう反駁しようとそれも終焉。みんなキョドり始めてるからね。それは沈黙ですらない。@LitoSnowfield
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posted at 00:58:22
2014年04月24日(木)
近代化なんて、お目出度い脳内の神で意気投合した西欧文明というだけなのだから、引け目を感じず科学技術でも何でも思う存分やればいいのに、人間関係だ組織だと気を取られて、どんどん衰退。そんなもん右傾化でもない。どんどん西欧を乗っ取れ。@mimi_smpc000
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posted at 07:41:03
ということで、明日以降は、実存範疇としての真理と、言語論的転回としての真理の問題を、相克させて考えてみることにする。当分楽しめそうな予感がしている。さて、おなかがすいたのでご飯に行ってくるのであった。(^-^)/
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posted at 01:38:25
加藤篤子によると、シューネデルバッハはアウシュヴィッツ問題から、真理命題としてのハイデガーの存在真理は、ウィットゲンシュタインの沈黙たりえない、とするようだが、斎藤元基のハイデガーの真理問題は、実存範疇だったように思える。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 01:34:14
43節aの「カントは現存在を客体と捉えている」というハイデガーの批判とは、この箇所(細谷等訳)。ちなみにデカルトの延長について論じていた19~21節にあった訳文のしわ寄せ問題は、このカント批判の当りでは、あまり気にならない。 pic.twitter.com/rBJz6oPV9x
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posted at 01:18:51
加藤篤子氏の「ハイデガーの認識論」glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/1095... ウィットゲンシュタインの言論的転回からは、ハイデガーの認識論である、カントのデカルト批判への批判は、存在を真理とする言明であり、沈黙を意味しない、というシューネデルバッハのハイデガー批判。
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posted at 01:03:24
2014年04月23日(水)
居眠りしながらの方が却って出来るのは、世界内存在とジャズのアドリブぐらいだからな。超越論とかドイツロマン主義音楽の方は、しっかり目ん玉ひんむいてないと、間違える(間違いがありかねない代物)(^-^)/ @LitoSnowfield
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posted at 03:52:36
2014年04月21日(月)
職場の愚痴とか、人間関係を哲学する連中は分からん。科学的認識に入れるかという問いなのに、それうっちゃって人間関係しか問題にしない。科学信仰だから、人間関係の悩みしかなくなるってことか?
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posted at 18:45:04
2014年04月20日(日)
それにしても、他人を猿まねしてどこが悪い、という問題提起が大したこと無いと思えない所が実に危ういな。そこにあるのは、他人は意見で、自己はその他人の意見を表出として捉える「意見の個人化」だという理屈なのだが、そんなことはどうでもいい話だ。なんでそんなに個人になることに努力するんだ?
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posted at 21:08:06
ハイデガリアンといったが、中田光雄氏は仏国文学博士。とはいえ広義にハイデガーの圏内=直接影響を受けた世代であり、文中の「現代思惟は脱-人間主義的転回によって近代的主観を経験的現実に直近の世界-内-存在へと換え~」の言い方には、さすがの私も一瞬往生した。(苦笑)
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posted at 04:10:58
要するに、デカルト~ニュートン~カント~ヘルダーで、宇宙から言語までが起源を問えない可能性論に「転回」していたはずなのに、中田光雄の用語では「現代思惟」は、言語論から宇宙論まで起源論に戻ってしまい、ある種の可能性を喪失した、ということになる。
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posted at 04:02:29
確かに、イアン・ハッキングも中田光雄も、コンピューターサイエンスへの動揺が、時代がかっているのだが、言語の起源論化(意味より成立)や宇宙論どころか、幾何学の起源論に至っては、現象学の最大の問いなので、柄谷行人のように起源論も可能性論もないまぜにするより誠実だ。
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posted at 03:57:51
(続)イアン・ハッキングは、人工知能論で言語が意味以前に戻され、17世紀の問題に復古したとするチョムスキーを紹介していたが、中田光雄は「意味の発生=起源論、意味の成立=可能性論」とし、デカルト~カントで封殺された起源論が、今や宇宙論でも主流で、その際たるものが幾何学の起源とする。
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posted at 03:48:32
その箇所、たまたま先週言及したイアン・ハッキングと同じこと言っている。カント~ヘルダーで言語起源論が不可能となり、そのことで言語が観念(私的言語)から意味になった、というウィットゲンシュタインの問題。twitter.com/sunamajiri/sta... (続)
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posted at 03:44:22
中田光雄『現代思想と“幾何学の起源”―超越論的主観から超越論的客観へ』。時代がかった著者だ。叙述が牧歌的を通り越して、昔懐かしいハイデガリアンの書き方そのものになっていて、彼らの突き当たる問題が、すぐ「表出」してしまう。bit.ly/1r7xOGg
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posted at 03:44:04
2014年04月19日(土)
ちなみに、ent-ferungというハイデガーの造語的分離動詞で四人の訳者が苦労しまくっていて、いま一番よいといった高田も「阻=遠」だが、この単語以外で命題を捉えることに成功している。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 20:48:56
「可能性としての~」というのは、柄谷行人の「~の可能性の中心」ではないが、本来哲学がそうであるべきものとして、たとえば今日届いた新刊書では「可能性としてのカント」「可能性としてのフッサール」から捉えると、科学的対象である超越論的主観からの転回が、という話になったりする。
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posted at 20:34:57
いわば、やっていることは、ハイデガーの訳文の受容によりニヒリズムに屈折した日本文学という系譜学を研究していることになるのだが、このように訳文に「可能性としてのハイデガー」が全く感じられない。とくに去年でたばかりの岩波文庫版熊野新訳が、かなり悲惨である。
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posted at 20:33:15
なので、この段落冒頭を日本語にすると「現存在は隔てを創出するが故に世界=内=存在である。それゆえ、手許存在までの隔てを決して渡り切ることができない。仮に現存在が自らを手許存在と見做すと、自身までの隔たりが不明になる。よって単なる距離として見出すことに、現存在は関わらない」で十分。
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posted at 20:30:49
(続)そこに高田訳だけ「手許にあるものと自分との間」というように、現存在が自分を手許存在と見なすことで錯覚してしまう距離、という批判対象が訳出されている。その他の訳者は、この重要命題の日本語訳に成功していない。
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posted at 20:30:34
297段落は、デカルト認識論批判の絶頂箇所だが、それだけに延長カテゴリーを禁忌とした訳文が造られなければならない。そこにあるのは、現存在は隔てを生むが、隔てられた手許存在は現存在ではないから、現存在を隔ててみる単なる空間は、空間ではないという命題なのだが(続)
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posted at 20:30:15
熊野新訳では「手もとにあるものの現存在自身からの距離」、細谷訳「現存在から用具的存在者の距たり」、高田新訳「手許に在るものと自分とのあいだにある遠さ」。高田訳だけが、自分を手許存在とみなす場合、というこの段落の命題を訳出できたことになる。
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posted at 20:29:59
数日にわたって、延長カテゴリーを禁じる297段落付近の和訳の仕方を、辻村、細谷、熊野新訳から考えてきたのだが、高田新訳だけ「現存在が隔てた手許存在に自分も含む場合」という命題が明示されている。bit.ly/1qYCAYc
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posted at 20:29:34
やはり当初立ち読みで直感したように高田新訳が一番「和訳文が練れている」。ハイデガーの和訳は、訳語解釈に拘るあまり、注解でしか命題を取り出せないような訳文になっている。商業翻訳では下訳レベルなのだが、訳者は原文のせいにするだろう。しかし解釈学としてのハイデガーを解釈できていない。
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posted at 20:28:51