大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年04月03日(木)
それだけに強烈に有、存在だけが遺された。虚無的な死後の世界に逝き怨念を残すのではなく、完全に無に帰したことで有を遺す、その可能性は絶大だろう。斎藤は第Ⅲ部で、いよいよ従来のハイデガー観では捉えきれない問題に着手するらしい、楽しみだ。 pic.twitter.com/EPnGxwyrfD
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posted at 07:34:58
ここでは、虚無的であることと、意志的であること、あるいは神の死のような作為的であることや、被制作的であることが、すべて同列視されている。こうした反省を一回しか遂行しないこと。生前には「黙理」という論理しかありえず、それは死後に語るしかないこと。そういうことが語られている。
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posted at 07:22:07
つまり、お分かりのように無に帰したのだから、有だけが遺されたのだ。ツァルトゥストラは、相続者が珠を投げるのを見届けるまで、それでも大地に留まることを許せという。しかしこれでは虚無的だ。ハイデガーは無に帰して有になる。そういう反省が『寄与』という死後刊行物なのだ。
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posted at 07:16:37
斎藤博論第Ⅱ部の結論部を要約すれば、ツァルトゥストラの『死の自由』を、意志として受け止めた『存在と時間』を、一回的に反省すると、作為的な「神の死」から、虚無ではない無としての有、へ転回する、のだという。こうしてハイデガーは死後の世界ではなく、無に帰した。
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posted at 07:09:24
もちろん、『寄与』を死後公開としたハイデガー自身、その一回性しか「無い」ことを心得た上だ。しかも死んだんだから作為的と思えない。その作為性を反省し、虚無から無に転回して、有るを見出すというのが『寄与』なのだそうだが、ここではもはや形式も遂行もない。
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posted at 07:09:02
さて、斎藤博論第Ⅱ部の感想をば。『寄与』が高すぎて買えないのだが、読まないでも十分にハイデガーの一回性=反省=転回の内実を分からせる論述になっていた。というのも、そもそも私達から見ると、西欧哲学の問題は、単なる出来レースのようにしか見えない。折り合いの付け方にしか関心はない。
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posted at 07:08:00
2014年04月01日(火)
斎藤博論第Ⅱ部 存在と時間の解釈学的転回 面白かった。結論部はハイデガーが全集の最後の公刊を遺言し、第二主著といわれる『寄与』の本有化における転回の内実。bit.ly/1dJSQKG 斎藤第六章第6節⑵ 後半 『寄与』の詩的跳躍による意志的創造から解釈への転回
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posted at 19:13:11
斎藤博論。ハイデガー『寄与』の6つの接合肢「響鳴」「遊投」「跳躍」「基づけ」「将来的な者たち」「最後の神」のうち「跳躍」で示唆される「ニーチェの超人とは異なる最後の神」につけられた注釈、「上掲訳書」となってるが、注釈中にみつからん。 pic.twitter.com/bTOLpBuArO
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posted at 15:27:45