大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年04月14日(月)
この労働から遊びへの転回というのを失ったら日本も終わりだな。超越論的転回、言語論的転回、解釈学的転回の次はコミュニケーション論的転回だ、なんてアホなこと言ってる人がいるんだが、ちゃうねん、労働の遊びへの転回でいいねん、とかいうのが日本の吉本だからな。吉本興業じゃない方(^-^)/
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posted at 21:13:49
お腹が空いてきたのだが、じつは労働より遊びだ、遊びは言葉遊びより音楽だ、音楽はアフリカだとなるのだが、そんなこといってると今度はお腹が空いてくる、という円環運動があってね。まあそれ自体労働というより遊びみたいなものだが。だいたいライプニッツがデカルトを狭義に解釈するからいけない。
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posted at 20:58:26
ハイイメージ論2か。神が人間に自然を組み込むのは労働でなく遊びだろ、というマルクス批判だったっけ。吉本の遊びは世代タイミング的に柄谷は真似できないよね。それでデリダがハイデガーのズッコケのように、柄谷もずっこける。bit.ly/1kob7x4 @TKDOMO
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posted at 20:45:47
2014年04月13日(日)
受験生に「神」は観念ではないから、とハイデガーtwitter.com/sunamajiri/sta... のように教えると、中には「じゃあ神って何ですか?天皇ですか?」と躓く子がいるんです。各自の観念で文が読めなくなる、というのはそういうことです。@Shin_Kishida
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posted at 22:09:26
全然学習してないですよ。当たり前というだけです。言語を観念と捉えたら、他人の心は分からなくなる。だから観念=論が要請される。しかし、言語は意味=共同体に転回しているのだから、観念論が不要というだけです。その乗り越えが詩ですよ。@Shin_Kishida よく学習されていますね
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posted at 21:44:18
渡辺さんが倭語の「ものごと」の分節twitter.com/curatorshinya/... を話してましたが、きのう紹介したイアン・ハッキングの英米言語哲学の反省twitter.com/sunamajiri/sta... も、プライベートランゲージ=コギトの不在のことです。@Shin_Kishida
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posted at 21:33:06
それは解説者が近視眼的なだけで、むしろより一般的には転回が知見です。プライベートランゲージ(コギトとなる言語の観念化)こそ存在しない、日本でもむしろ当たり前twitter.com/curatorshinya/... です。@Shin_Kishida 小説など読んでられない気持ち
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posted at 21:31:51
ハイデガーによると、デカルトがコギト(言語を観念とすること=プライベートランゲージ)で覆ったのは、そういった自然のことだそうですからね。@Shin_Kishida ギリシャにワープ(移動)して祭り(祭典)に参加したり、神の宿る自然に触れるような感覚です。
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posted at 21:22:40
デカルトのように言葉が観念であることで生み出される深淵や超越によって孤絶した心、事物を延長の数学と凍りつく日本人のようのようなものを乗り越える力が、どうやらルター語では詩作にあるという問題は普遍的なようですね。@Shin_Kishida 言葉に心を奪われるという状態は転回した状態
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posted at 21:04:20
Shinya Watanabe 渡辺真也 @curatorshinya
そして仏教における平等性智の考え方は、ヴィトゲンシュタインの言うプライベートランゲージは存在し得ないということと同じことを言っている様に思える。
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posted at 21:01:52
Shinya Watanabe 渡辺真也 @curatorshinya
「ものごと」が「もの」と「こと」とに分離して日本語の「ことば」が誕生する以前の日本には、心的なことと外的なこととは一致する、という易経の影響があったのではないか?そして不思議なことに、これは仏教の「無差別智」という同時発生の考え方とも共鳴している。
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posted at 21:00:57
続)言語が観念であることから共同的先天的な意味であることへの転回は、イアン・ハッキングのいうとおり、ドイツロマン派によるのだとして、ヘルダーリンを論じる前のハイデガーが、非延長・非志向、つまり現存在が世界と合一であることを観念化し、ヘルダーリンで転回するという点が興味深い。
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posted at 07:02:16
続)ところで、ハイデガーは延長と志向性を批判して、延長的な客体つまり超越を非延長的な存在者と呼び、空間的な志向を、内-世界で「隔たることで、隔たりがないこと」である現存在と呼んだりするようだが、そもそも延長~志向は、17世紀に言語が観念のままであることから派生したに過ぎない。
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posted at 06:50:35
続)もちろんイアン・ハッキングに依らずとも、言語論的転回とは、言語が後天的な自分にだけ通用する観念であること(それゆえ他人の言語=観念への懐疑論と成ること)から、先天的に言語に意味があると見做すことへの変化のことで、共同体が非切断的・継続的にあると見做すことだ。
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posted at 06:40:30
つまり、コギトでは言語が観念のままで、意味にならない。言語が意味に転回するとは、共同体のことだ、というのがこの転回の命題なわけだが、イアン・ハッキングは70年台初頭のイギリスでの言語哲学離れ・ドイツ哲学への傾倒、70年台後半の人工知能論者の17世紀への逆行を論じている。
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posted at 04:33:13
17世紀の言語=観念というコギトの問題からの言語論的転回は、英米の言語哲学からみても、どうしてもドイツロマン派である必然性があるが、カントではだめで、ヘーゲルにそれを求めるヘルダー、というチョムスキーの言語学史観を紹介しているようだ。bit.ly/1iF6o60
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posted at 03:59:04
17世紀の言語=観念というコギトの問題からの言語論的転回は、英米の言語哲学からみても、どうしてもドイツロマンはである必然性があるが、カントではだめで、ヘーゲルにそれを求めるヘルダー、というチョムスキーの言語学史観を紹介しているようだ。bit.ly/1iF6o60
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posted at 03:56:53
イアン・ハッキングの日本語版への序文も89年と牧歌的だが、デカルトの懐疑のように、言語が私秘的な観念の17世紀から、言語が公共的な意味になった時点を問い、「人工知能論者」は言語を17世紀の観念論で捉えている、という論考になっている。bit.ly/1iF6o60
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posted at 03:46:53
2014年04月12日(土)
2014年04月11日(金)
メルロ=ポンティのコギト論は、フッサールのコギタチオから、スピノザの汎神論を捉えハイデガーに批判的なように見えるのだが、ハイデガーの場合は、コギトをスピノザのコギタンスで捉えて、フッサールが〔コギト=実体〕と捉えていないと批判しているように読めるね。@LitoSnowfield
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posted at 23:16:02
デカルト以降、コギト批判しかないのだが、ハイデガーの場合、スピノザのようにego sum cogitans(國分によると方法による描写)と捉え、(斎藤が指摘するように)方法を分節しようとしているようなのだが、メルロの場合、当初は方法が未分化に見えるね。@LitoSnowfield
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posted at 21:26:03
メルロ『知覚の現象学』は序文の通り、ハイデガー主著の挫折を、フッサール批判の失敗と捉えるのだが、スピノザのcotigansの描写を批判するのが『知覚の現象学』であるなら、ハイデガー『寄与』の転回を予見していない、ということになりかねないからね。@LitoSnowfield
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posted at 21:09:28
・・と、人は、そうしたハイデガーを批判するものとして、メルロ=ポンティー『知覚の現象学』のコギト論のスピノザ批判に当たるのだろう。それが、死んだ神に対する最後の神を説いたハイデガー『寄与』が死後刊行される前に受容された意味に、立ち返るのであった。@LitoSnowfield
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posted at 19:20:52
しかし、つねに逆説を要する循環なのだが、仏教徒だからかスピノザの方法がデカルトのコギトを物と描写したからかしらないが、ニーチェの死んだ神も、ハイデガー寄与の最後の神も、どこか欺く神のようにみえて、デカルト~カントの感覚批判に差し戻したくなるものなのだ。@LitoSnowfield
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posted at 19:00:58
そやね、大きな物語って文字通り神のことだけど、ニーチェのように神の死なんていうと、ハイデガーの寄与のように最後の神といわなければならなくなるほど、終わりようがないね。@LitoSnowfield それは“大いなる物語は終わった”とどうような早計ですね〜
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posted at 18:44:44
ところが、この新しい経典、近代的理性という仮定を存在忘却と総括し批判するハイデガーを、しっかりと受容できた形跡がないのが、そうした日本語訳文の動揺なのだ。自然を実体=神と名付けることである、感覚批判や感性が近代的理性であるはずがないからね。@LitoSnowfield
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posted at 18:37:09
ハイデガーの存在忘却という問題設定が面白いのは、デカルトがコギトとその延長である自然を、神と同義の実体と見做し、そうした認識を鈍らせる感覚(欺く神)の批判が、カントに至って近代的理性のように命題化されてしまった、という誤謬を批判することだからね。@LitoSnowfield
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posted at 18:23:44
古神道なんて到来文化の結晶twitter.com/sunamajiri/sta... らしいからね。しかしそうした系譜の切断によって、近代的理性の肝心な命題(コギトを神と同様の実体とするのは存在忘却なのか)を素通りできるはずがない。@LitoSnowfield 仏教もそうですが神道からの影響
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posted at 18:15:38
仏教国ならフォアゾクラティカー~キリスト教の厄介な問題は素通りできるのかね。デカルトはコギト(とその延長の自然)を、カントは物自体を、「実体」という神を表す術語で呼称することを近代的理性と仮定しただけだが、そうした存在忘却は理性でも何でもないからね。@LitoSnowfield
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posted at 18:04:53
仏教国だからなのか知らんが、そんなことないコギトはカントが理性にしたじゃないか、と別なものにみえてしまうのか、こういう話題に反応してこないでしょ? だから日本の思想なんて英語で書かれても、ほとんど接点がない。w @LitoSnowfield しょぎょうむじょ〜 <読者が非実体化
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posted at 04:20:55
ギリギリセーフだけどね。それだけハイデガーは日本語を動揺させるのだろうね。一歩間違えば(読み手が)非実体化するぞww (^-^)/ @LitoSnowfield 複数の訳出で相違…反転…があるというのは興味深いですね〜
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posted at 00:36:20
でしょ? ひとつ間違うと正反対になるでしょそれ。これで事物とか物自体が実体だとか言い出すのだが、そもそもデカルトが延長を実体だといったことになるので、何も変わっていないのです。ハイデガーはそれを批判することを、まず存在了解と呼ぼうとしてそうですね。@LitoSnowfield
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posted at 00:00:57