大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年04月01日(火)
斎藤博論。ハイデガー『寄与』の6つの接合肢「響鳴」「遊投」「跳躍」「基づけ」「将来的な者たち」「最後の神」のうち「跳躍」で示唆される「ニーチェの超人とは異なる最後の神」につけられた注釈、「上掲訳書」となってるが、注釈中にみつからん。 pic.twitter.com/bTOLpBuArO
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posted at 15:27:45
斎藤博論第Ⅱ部 存在と時間の解釈学的転回 面白かった。結論部はハイデガーが全集の最後の公刊を遺言し、第二主著といわれる『寄与』の本有化における転回の内実。bit.ly/1dJSQKG 斎藤第六章第6節⑵ 後半 『寄与』の詩的跳躍による意志的創造から解釈への転回
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posted at 19:13:11
2014年04月03日(木)
さて、斎藤博論第Ⅱ部の感想をば。『寄与』が高すぎて買えないのだが、読まないでも十分にハイデガーの一回性=反省=転回の内実を分からせる論述になっていた。というのも、そもそも私達から見ると、西欧哲学の問題は、単なる出来レースのようにしか見えない。折り合いの付け方にしか関心はない。
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posted at 07:08:00
もちろん、『寄与』を死後公開としたハイデガー自身、その一回性しか「無い」ことを心得た上だ。しかも死んだんだから作為的と思えない。その作為性を反省し、虚無から無に転回して、有るを見出すというのが『寄与』なのだそうだが、ここではもはや形式も遂行もない。
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posted at 07:09:02
斎藤博論第Ⅱ部の結論部を要約すれば、ツァルトゥストラの『死の自由』を、意志として受け止めた『存在と時間』を、一回的に反省すると、作為的な「神の死」から、虚無ではない無としての有、へ転回する、のだという。こうしてハイデガーは死後の世界ではなく、無に帰した。
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posted at 07:09:24
つまり、お分かりのように無に帰したのだから、有だけが遺されたのだ。ツァルトゥストラは、相続者が珠を投げるのを見届けるまで、それでも大地に留まることを許せという。しかしこれでは虚無的だ。ハイデガーは無に帰して有になる。そういう反省が『寄与』という死後刊行物なのだ。
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posted at 07:16:37
ここでは、虚無的であることと、意志的であること、あるいは神の死のような作為的であることや、被制作的であることが、すべて同列視されている。こうした反省を一回しか遂行しないこと。生前には「黙理」という論理しかありえず、それは死後に語るしかないこと。そういうことが語られている。
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posted at 07:22:07
それだけに強烈に有、存在だけが遺された。虚無的な死後の世界に逝き怨念を残すのではなく、完全に無に帰したことで有を遺す、その可能性は絶大だろう。斎藤は第Ⅲ部で、いよいよ従来のハイデガー観では捉えきれない問題に着手するらしい、楽しみだ。 pic.twitter.com/EPnGxwyrfD
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posted at 07:34:58
2014年04月04日(金)
この点は、國分博論のスピノザの方法で、一番特徴だっていたところ。スピノザはcogito, ergo sumを(教会を)説得するための第一原理(大前提)を省略した三段論法であり、ego sum cogitansと書き換えている。これを國分氏は描写という。
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posted at 02:20:54
デカルトの延長を世界性から批判する『存在と時間』第19節の冒頭の一文。ハイデガーの原文も「デカルトはres cogitansとしてのego cogitoをres corporeaから区別する」となっているが、従来の和訳は「デカルトは我思うを物から区別した」と省略している。
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posted at 02:26:15
これに対して、去年出版された岩波文庫の熊野新訳ではres cogitansを省略せず「デカルトは思考するものとしての私は考えるを物体的なものから区別する」という、冗長な日本語にしている。従来の訳文より熊野訳が冗長なのだが、原文に忠実。なぜ従来はこれを省略できたのか?
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posted at 02:29:51
日本語生成だけみているが、20節、「被造的存在者」と一旦は訳語を当てたのに、細谷等訳、熊野訳とも「ens creatumという意味での世界の内部」、辻村訳だけが「造られて有る世界」。どれも原文に忠実なあまり日本語して咀嚼されていない。www.sunamajiri.com/temp/201404040...
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posted at 08:30:10
デカルトの延長は、コギトを神と同じ自己原因と見做すことで、被造世界を前提としている、という趣旨なのだが、「ens creatumという意味での世界の内部」という訳文にする必然性がない。アプリオリな世界ではない、その都度の世界ということが言いたいだけなのだから、被造世界で十分だ。
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posted at 08:30:24
20節意訳すればこれで十分。「デカルトが延長を存在論とする拠り所は実体性だ。実体とは他を必要としないことだ。他を必要としないのだから最も完全な存在者である。デカルトはそれを神と言う。神とは自己原因を指す存在論的名称に過ぎないが、それに拠って存在論的解釈が可能だ。(続く)
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posted at 08:33:27
(続き)神以外の存在者は、制作され維持される必要がある。創りだされるか否かだけが理解しうる地平だ。神以外は全て被造物である。その隔たりが無限である。にも関わらず我々は両者共、存在者と呼ぶ。それゆえ、我々は存在に無限を含意する。こうして我々は被造物を実体と呼称できてしまう。(続く)
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posted at 08:34:05
神が先か人が先かというアプリオリ問題は、本質のない下らない話だが、「ens creatumという意味での世界の内部」(細谷等訳、熊野訳)「造られて有る世界」(辻村訳)という訳文が、必ずしも原文の忠実訳でもない。仏教徒なのか知らないが訳者がこの命題を理解して訳しているのか疑われる。
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posted at 08:48:50
現存在の解釈学から存在の解釈学への転回。斎藤第Ⅱ部、ハイデガーの実存カテゴリー(実存論となるための概念)である本来性、被投性、日常性、事実性、世界性という『存在と時間』のジャーゴンが、『寄与』によって、全て使用済み(もう使わなくて済むこと)にできていた。
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posted at 18:35:21
なぜ、実存カテゴリーを使用済み(もう使わなくても済むこと)に出来たかも、斎藤博論ではわかりやすい。決意性とか死への先駆を、ニーチェの『死の自由』の被制作性による意志性と、同定することで、『寄与』ではヘルダーリンによって、眩しくて見えない光=非現前性に、反省=転回できたからだ。
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posted at 18:35:44
よって、斎藤博論第Ⅱ部とは、一般カテゴリーから実存カテゴリーに転倒した初期からのハイデガーの用語法を、整理夢のように忘れ去るための論証たり得ていた。私達はもはや、ハイデガーのジャーゴンである本来性や決意性、被投性や事実性、存在性という用語を一々訳さずに頽落できるようになったのだ。
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posted at 18:37:09
そうそう。被制作性批判としても、実存カテゴリーなんてものは、もう賞味期限切れということだろう。日本なんか被造世界twitter.com/sunamajiri/sta... ではなくその都度の世界だって、空気読むとか普通に理解しているぞ。@LitoSnowfield
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posted at 18:53:43
そうそう、空気読めない人向けの本を空気読める人が読むと・・・という。つまり空気読める人がハイデガー読むと、おそらく空気がなくなるなwww(^-^)/ @LitoSnowfield ほ〜面白いレビューですね〜
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posted at 19:08:54
被制作性から世界、世界から日常性を・・・etcという、一般カテゴリーから実存カテゴリーに転倒する「枝分かれ方法」はエレガントではない。だからあの汚い文になる。真空ならまだよいが、とにかく文が汚い。@LitoSnowfield
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posted at 19:11:28
この図はライプニッツのデカルト批判を論じた本にある図だが、二項対立からの派生は、解析的すぎて幾何学的ではない。これをやめるのがハイデガーが参照するヘルダーリンが、ヘーゲルと耽溺していたスピノザだ。@LitoSnowfield pic.twitter.com/UcV01IGmXr
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posted at 19:12:20
次の段落259(以下熊野訳の段落数)の冒頭の一文は、訳文が飛び跳ねているが、それは原文にある汚さゆえ。汚さというのは、定義対象でない不用意な用語法が混入し、訳文がその不要な用語を直訳するか迷うため。www.sunamajiri.com/temp/201404040...
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posted at 19:52:26
もはや、ハイデガーの駄文は、リライトしながら読むしかないほどだが、段落259の冒頭の一文は「延長が優勢な属性となる実体は、無限の神、有限のコギトと延長、という3つの実体の共通項を見出してこそ、存在論的な対象となる。」程度の意味。(続く)
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posted at 19:55:07
(続き)ここで「属性」という用語を、翻訳対象とするべきかどうかで各訳者が苦労して、日本語が破綻してしまっているが。よりリライトすれば「延長から存在論を考えると、無限の神、有限のコギトと延長という3つの実体の共通項が、問われなければならない」ということだ。
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posted at 19:56:07
このように、幾何学的ではない発生的定義は、やたらと不用意な用語の混入を招き汚い文になる。発生的定義を派生カテゴリーの側から述定する限界のような文例だ。しかし、延長は実体を無限と有限と捉える矛盾だ、という取るに足らない趣旨。これに日本人が一々一々躍らされることはない。
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posted at 19:59:04
ちなみに、細野等訳にある「延長を勝義的な固有性とする実体」の「勝義」は、辞書を引くと、「《(梵)paramārthaの訳》仏語。最もすぐれた道理。第一義。」と訳経僧の真諦を表す仏教語のようだが、ここで原文の属性という用語は、存在論の属性ということであり、定義対象ではない。
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posted at 20:07:17
ハイデガーの派生カテゴリー的な駄文なんかで小躍りするのは、ハイデガー以上に空気の読めないアスペルガーtwitter.com/sunamajiri/sta... ということだろうが、私達が動じるほどの文ではない。つまり、この駄文が読めるようになって空気が読めるようになるはずがない。
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posted at 20:16:04
原文見ると単語をぎこちなく置きながら文にしているのだが、私もそういう文の書き方をする時があるからよくわかる。しかし訳者が理解できていないか、理解していても忠実訳をするあまり、理解できていないことにする訳になるのか、もはや異常な文だね。@LitoSnowfield
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posted at 21:07:26
「自由な死」って、これのことだぞ。www.sunamajiri.com/temp/201404040... 私ですらツァルトゥストラは小学生の時、絵本代わりに読んでるんだが。これ知らずにルサンチマンとか、実存カテゴリー化による形式と遂行の一致点である死とか言っても始まらない。@LitoSnowfield
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posted at 21:52:46
斎藤博論の第Ⅱ部というのは、その「自由な死」を「存在と時間」では実存カテゴリーに形式化したが、それでは行き詰まり、死後刊行の『寄与』では、神の死である自由な死に作為性=被制作性を認め、転回という改心文学になっているという話だ。@LitoSnowfield
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posted at 22:09:01
ハイデガーというのは「あの世がなくても死ぬんですよ」と現世利益を説いているのは確かなんだろうが、それを単なる世渡りの啓発セミナーにしちゃうというのも、アジテーション怖がりカルトになる日本、恐るべし(^-^)/ @LitoSnowfield
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posted at 23:13:12