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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2014年04月09日(水)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月9日

そうそう、時系列的には、日本でハイデガーがポスト60年代に沈思黙考されるブームになったのはよいのだが、脱落組を大量に生んでしまい、科学的信念とカルトの見分けがつかなくなる時代に拍車がかかっていったんだろうね。小保方さんの科学的信念は、末路なのかな?@marumovich

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posted at 18:52:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月9日

小保方さんは一見瑣末に非論理的なのだろうけど、日本人の陥る科学的非論理性の寵児だからね。おそらく何かが欠けている。デカルトの循環論から生まれたのが近代科学だけど、循環を転回にしてしまうような論理性がないと、科学も非科学を語り始めるんだろうね。@marumovich

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posted at 19:01:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月9日

イケノブさんが生命科学に絶大な関心をよせるのも、ハイデガーの焼きがまわってるようにしかみえないな。たしかに経済的には脱成長では日本は没落どころじゃないわけだが、だからといってハイデガーのテクネーが救世主なんて、そんなご都合主義があるわけがない。

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posted at 19:55:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月9日

みんな小保方さんの会見で「説得力」というのね。twitter.com/tsuda/status/4... twitter.com/jai_an/status/... 記者会見ちら観したら記者が「マナーではなくマター」といっていたが、スピノザによると説得はマターではなく、マナーの要請なのよね。

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posted at 23:42:39

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月9日

その点で、スピノザよりハイデガーによるデカルトの哲学原理批判は、説得を前提とせず何者も要請しないから、マナーであるよりマターと思えるね。うちの母が浄土真宗で引け目を感じていたのだが、これはなるほどだな。(^-^)/ twitter.com/jai_an/status/...

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posted at 23:44:28

2014年04月10日(木)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月10日

ハイデガーの講義が読みやすいのは説教だからだな。それは、古代の形而上学で無とは「形作られていない素材」という命題だが、神学が「無から生じるものは被造物」としために、科学は被造物しか扱わなくなった等々。@LitoSnowfield pic.twitter.com/ZEfgnM8tzs

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posted at 03:37:42

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月10日

「無」を問わない科学は、何も問うていない(存在という動態の忘却)のと同じだ、というような説教なのだが、無が虚無になることから、無が有になることへの転回が、斎藤によると『寄与』らしいからな。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield

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posted at 03:42:18

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月10日

直感的にダメだろうね。いかにも日本の仏教徒が好みそうな、事実的なキリスト教への先鋭化された批判にみえるのだが、ミイラ取りがミイラになるなこれは。@LitoSnowfield 先程の“空即是色”ではないけれど仏教な方面で理解?しようとするとトラップに嵌りそうな文章ですね〜

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posted at 03:59:03

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月10日

「デカルト以降、ニュートンが絶対空間を予め想定したが、そこに現前する事物は延長であるに過ぎない。そうではなく、道具全体性として差し当たり出会われる事物が、古代ギリシャの事物とともにあった場所性を回復する。」と非現前性を命題化しているのだが~ @LitoSnowfield

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posted at 04:37:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月10日

~こうした近代科学の命題すら、読み取れないのではないか? 興味深いのは熊野新訳は旧訳の「客体」を「目の前にあること」と眼前存在性とすることで、旧訳では「出没」とされていることを、明確に「現前」と訳出し、そのことで非現前性のことであると訳出できている点。@LitoSnowfield

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posted at 04:40:24

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月10日

さすが彗眼ですね、そうなのです新訳のほうが正しいのだが、非常に読みづらい。旧訳は肝心なことを隠蔽するが日本語として読みやすい。このことはかなり重大な問題に思える。@LitoSnowfield 新訳は…当然に原文の悪さ?も引き継いでいますが…文章の流れが緩くて少し間延びしたように感

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posted at 04:52:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月10日

そうです。デカルトがコギトを神と同義の「実体」と名付け、事物をコギトの延長としてしまったことで、空間は世界より先立って数学的な空間としてあることになったが、そうした延長からは世界に出会えない。延長は被造世界を前提としているからだ、という批判です。@LitoSnowfield

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posted at 05:09:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月10日

その点、斎藤氏の博論は、方法を分節化し、そこから、非現前性の命題として転回を読み取る、というのは頭がスッキリするので、経文を読むよりは遥かにましだ。ハイデガーも講義になると説教モードになって滔滔と喋るみたいだが、元カトリックはほんとに困ったもんだ。@LitoSnowfield

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posted at 05:30:43

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月10日

歎異抄にだって、経文を読まなきゃ往生できないなんて、そんなあほなと読まれてるわけだが、近代を取り入れるにあたって、経文読まなければ往生できないんだから、気の毒なのだ(^-^)/ @LitoSnowfield ああ〜書き込みと同様な色即是空な方向

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posted at 05:48:01

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月10日

むひひ、ここの訳文の違いは絶妙すぎて最高。今度は旧訳が不用意に現前といってしまってるが新訳が打ち消している。288段落冒頭。味わい尽くしてみてww(^-^)/ bit.ly/1i2TQsx @LitoSnowfield

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posted at 08:36:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月10日

288冒頭「〔方面〕は空間の中に予め現前しているのではなく、不断の目配りをする世界-内-存在が手許存在を〔場所〕に割り当てる中に生じる。」「方面は空間に予めあるのではなく、その都度時間的に場所の中に見出すのが不断の目配り」なわけねw @LitoSnowfield

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posted at 08:45:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月10日

ハイデガー主著が一回的な用語の未整理-現象によって未完に陥るデカルト批判と対比しても、スピノザ~ドゥルーズのジャーゴンを整理する半田さんのヌースの方が、遥かにわかりやすいデカルト哲学原理批判。twitter.com/kohsen/status/... @LitoSnowfield

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posted at 15:03:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月10日

これだけ、特定の共同体を説得するために聞き手に神要請をし、事物をコギトの延長にし、認識を鈍らせる感覚の批判だけに陥ってしまったデカルト~カントは罪深いということだろうね。火あぶりの刑でいいな(^-^)/ @LitoSnowfield

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posted at 15:42:19

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月10日

コギト(と延長)をデカルトが自己原因である実体と捉えたかどうか、というのがハイデガーにとっては存在忘却かどうか、だからね。twitter.com/sunamajiri/sta... 半田さんの「延長は実体ではない」というのはハイデガーによれば存在忘却なのだ。@LitoSnowfield

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posted at 23:33:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月10日

半田さんはたしか「延長ではない奥行きの幅の無さ」が「時間の実体化」で「それが量子力学をも捉えるヌースだ」という、シュタイナーではないが、オカルトになっているのだが、ハイデガーによると、デカルトが延長を実体と捉えたことこそが存在忘却なのだ。@LitoSnowfield

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posted at 23:44:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月10日

おそらく、カントのアプリオリ問題も、このデカルトは延長を実体としていないはずだ、と間違ってしまった(存在忘却)ということでしょう。デカルトはコギトとコギトからの延長を、神と同じ実体とした、という一点しか問題となりようがない、ということです。@LitoSnowfield

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posted at 23:52:19

2014年04月11日(金)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

でしょ? ひとつ間違うと正反対になるでしょそれ。これで事物とか物自体が実体だとか言い出すのだが、そもそもデカルトが延長を実体だといったことになるので、何も変わっていないのです。ハイデガーはそれを批判することを、まず存在了解と呼ぼうとしてそうですね。@LitoSnowfield

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posted at 00:00:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

ギリギリセーフだけどね。それだけハイデガーは日本語を動揺させるのだろうね。一歩間違えば(読み手が)非実体化するぞww (^-^)/ @LitoSnowfield 複数の訳出で相違…反転…があるというのは興味深いですね〜

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posted at 00:36:20

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

仏教国だからなのか知らんが、そんなことないコギトはカントが理性にしたじゃないか、と別なものにみえてしまうのか、こういう話題に反応してこないでしょ? だから日本の思想なんて英語で書かれても、ほとんど接点がない。w @LitoSnowfield しょぎょうむじょ〜 <読者が非実体化

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posted at 04:20:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

仏教国ならフォアゾクラティカー~キリスト教の厄介な問題は素通りできるのかね。デカルトはコギト(とその延長の自然)を、カントは物自体を、「実体」という神を表す術語で呼称することを近代的理性と仮定しただけだが、そうした存在忘却は理性でも何でもないからね。@LitoSnowfield

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posted at 18:04:53

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

古神道なんて到来文化の結晶twitter.com/sunamajiri/sta... らしいからね。しかしそうした系譜の切断によって、近代的理性の肝心な命題(コギトを神と同様の実体とするのは存在忘却なのか)を素通りできるはずがない。@LitoSnowfield 仏教もそうですが神道からの影響

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posted at 18:15:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

ハイデガーの存在忘却という問題設定が面白いのは、デカルトがコギトとその延長である自然を、神と同義の実体と見做し、そうした認識を鈍らせる感覚(欺く神)の批判が、カントに至って近代的理性のように命題化されてしまった、という誤謬を批判することだからね。@LitoSnowfield

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posted at 18:23:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

ところが、この新しい経典、近代的理性という仮定を存在忘却と総括し批判するハイデガーを、しっかりと受容できた形跡がないのが、そうした日本語訳文の動揺なのだ。自然を実体=神と名付けることである、感覚批判や感性が近代的理性であるはずがないからね。@LitoSnowfield

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posted at 18:37:09

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

そやね、大きな物語って文字通り神のことだけど、ニーチェのように神の死なんていうと、ハイデガーの寄与のように最後の神といわなければならなくなるほど、終わりようがないね。@LitoSnowfield それは“大いなる物語は終わった”とどうような早計ですね〜

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posted at 18:44:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

しかし、つねに逆説を要する循環なのだが、仏教徒だからかスピノザの方法がデカルトのコギトを物と描写したからかしらないが、ニーチェの死んだ神も、ハイデガー寄与の最後の神も、どこか欺く神のようにみえて、デカルト~カントの感覚批判に差し戻したくなるものなのだ。@LitoSnowfield

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posted at 19:00:58

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

・・と、人は、そうしたハイデガーを批判するものとして、メルロ=ポンティー『知覚の現象学』のコギト論のスピノザ批判に当たるのだろう。それが、死んだ神に対する最後の神を説いたハイデガー『寄与』が死後刊行される前に受容された意味に、立ち返るのであった。@LitoSnowfield

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posted at 19:20:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

メルロ『知覚の現象学』は序文の通り、ハイデガー主著の挫折を、フッサール批判の失敗と捉えるのだが、スピノザのcotigansの描写を批判するのが『知覚の現象学』であるなら、ハイデガー『寄与』の転回を予見していない、ということになりかねないからね。@LitoSnowfield

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posted at 21:09:28

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

デカルト以降、コギト批判しかないのだが、ハイデガーの場合、スピノザのようにego sum cogitans(國分によると方法による描写)と捉え、(斎藤が指摘するように)方法を分節しようとしているようなのだが、メルロの場合、当初は方法が未分化に見えるね。@LitoSnowfield

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posted at 21:26:03

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年4月11日

メルロ=ポンティのコギト論は、フッサールのコギタチオから、スピノザの汎神論を捉えハイデガーに批判的なように見えるのだが、ハイデガーの場合は、コギトをスピノザのコギタンスで捉えて、フッサールが〔コギト=実体〕と捉えていないと批判しているように読めるね。@LitoSnowfield

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posted at 23:16:02

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