大本薫 Kaoru Ohmoto
- いいね数 11,694/13,358
- フォロー 2,831 フォロワー 2,653 ツイート 290,630
- 現在地 東京 LA NY 茅ヶ崎 鹿児島
- Web http://www.sunamajiri.com/
- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年04月12日(土)
2014年04月13日(日)
イアン・ハッキングの日本語版への序文も89年と牧歌的だが、デカルトの懐疑のように、言語が私秘的な観念の17世紀から、言語が公共的な意味になった時点を問い、「人工知能論者」は言語を17世紀の観念論で捉えている、という論考になっている。bit.ly/1iF6o60
タグ:
posted at 03:46:53
17世紀の言語=観念というコギトの問題からの言語論的転回は、英米の言語哲学からみても、どうしてもドイツロマンはである必然性があるが、カントではだめで、ヘーゲルにそれを求めるヘルダー、というチョムスキーの言語学史観を紹介しているようだ。bit.ly/1iF6o60
タグ:
posted at 03:56:53
17世紀の言語=観念というコギトの問題からの言語論的転回は、英米の言語哲学からみても、どうしてもドイツロマン派である必然性があるが、カントではだめで、ヘーゲルにそれを求めるヘルダー、というチョムスキーの言語学史観を紹介しているようだ。bit.ly/1iF6o60
タグ:
posted at 03:59:04
つまり、コギトでは言語が観念のままで、意味にならない。言語が意味に転回するとは、共同体のことだ、というのがこの転回の命題なわけだが、イアン・ハッキングは70年台初頭のイギリスでの言語哲学離れ・ドイツ哲学への傾倒、70年台後半の人工知能論者の17世紀への逆行を論じている。
タグ:
posted at 04:33:13
続)もちろんイアン・ハッキングに依らずとも、言語論的転回とは、言語が後天的な自分にだけ通用する観念であること(それゆえ他人の言語=観念への懐疑論と成ること)から、先天的に言語に意味があると見做すことへの変化のことで、共同体が非切断的・継続的にあると見做すことだ。
タグ:
posted at 06:40:30
続)ところで、ハイデガーは延長と志向性を批判して、延長的な客体つまり超越を非延長的な存在者と呼び、空間的な志向を、内-世界で「隔たることで、隔たりがないこと」である現存在と呼んだりするようだが、そもそも延長~志向は、17世紀に言語が観念のままであることから派生したに過ぎない。
タグ:
posted at 06:50:35
続)言語が観念であることから共同的先天的な意味であることへの転回は、イアン・ハッキングのいうとおり、ドイツロマン派によるのだとして、ヘルダーリンを論じる前のハイデガーが、非延長・非志向、つまり現存在が世界と合一であることを観念化し、ヘルダーリンで転回するという点が興味深い。
タグ:
posted at 07:02:16
Shinya Watanabe 渡辺真也 @curatorshinya
「ものごと」が「もの」と「こと」とに分離して日本語の「ことば」が誕生する以前の日本には、心的なことと外的なこととは一致する、という易経の影響があったのではないか?そして不思議なことに、これは仏教の「無差別智」という同時発生の考え方とも共鳴している。
タグ:
posted at 21:00:57
Shinya Watanabe 渡辺真也 @curatorshinya
そして仏教における平等性智の考え方は、ヴィトゲンシュタインの言うプライベートランゲージは存在し得ないということと同じことを言っている様に思える。
タグ:
posted at 21:01:52
デカルトのように言葉が観念であることで生み出される深淵や超越によって孤絶した心、事物を延長の数学と凍りつく日本人のようのようなものを乗り越える力が、どうやらルター語では詩作にあるという問題は普遍的なようですね。@Shin_Kishida 言葉に心を奪われるという状態は転回した状態
タグ:
posted at 21:04:20
ハイデガーによると、デカルトがコギト(言語を観念とすること=プライベートランゲージ)で覆ったのは、そういった自然のことだそうですからね。@Shin_Kishida ギリシャにワープ(移動)して祭り(祭典)に参加したり、神の宿る自然に触れるような感覚です。
タグ:
posted at 21:22:40
それは解説者が近視眼的なだけで、むしろより一般的には転回が知見です。プライベートランゲージ(コギトとなる言語の観念化)こそ存在しない、日本でもむしろ当たり前twitter.com/curatorshinya/... です。@Shin_Kishida 小説など読んでられない気持ち
タグ:
posted at 21:31:51
渡辺さんが倭語の「ものごと」の分節twitter.com/curatorshinya/... を話してましたが、きのう紹介したイアン・ハッキングの英米言語哲学の反省twitter.com/sunamajiri/sta... も、プライベートランゲージ=コギトの不在のことです。@Shin_Kishida
タグ:
posted at 21:33:06
全然学習してないですよ。当たり前というだけです。言語を観念と捉えたら、他人の心は分からなくなる。だから観念=論が要請される。しかし、言語は意味=共同体に転回しているのだから、観念論が不要というだけです。その乗り越えが詩ですよ。@Shin_Kishida よく学習されていますね
タグ:
posted at 21:44:18
受験生に「神」は観念ではないから、とハイデガーtwitter.com/sunamajiri/sta... のように教えると、中には「じゃあ神って何ですか?天皇ですか?」と躓く子がいるんです。各自の観念で文が読めなくなる、というのはそういうことです。@Shin_Kishida
タグ:
posted at 22:09:26
2014年04月14日(月)
ハイイメージ論2か。神が人間に自然を組み込むのは労働でなく遊びだろ、というマルクス批判だったっけ。吉本の遊びは世代タイミング的に柄谷は真似できないよね。それでデリダがハイデガーのズッコケのように、柄谷もずっこける。bit.ly/1kob7x4 @TKDOMO
タグ:
posted at 20:45:47
お腹が空いてきたのだが、じつは労働より遊びだ、遊びは言葉遊びより音楽だ、音楽はアフリカだとなるのだが、そんなこといってると今度はお腹が空いてくる、という円環運動があってね。まあそれ自体労働というより遊びみたいなものだが。だいたいライプニッツがデカルトを狭義に解釈するからいけない。
タグ:
posted at 20:58:26
この労働から遊びへの転回というのを失ったら日本も終わりだな。超越論的転回、言語論的転回、解釈学的転回の次はコミュニケーション論的転回だ、なんてアホなこと言ってる人がいるんだが、ちゃうねん、労働の遊びへの転回でいいねん、とかいうのが日本の吉本だからな。吉本興業じゃない方(^-^)/
タグ:
posted at 21:13:49
2014年04月15日(火)
ハイデガーの「存在と時間」の挫折というのは、そういう本来的な言い方をしようとすると、できなくなる、ということに尽きるのだ。実存カテゴリーを分節して、延長カテゴリーの言い方をしないように、言語実験しているようなものだが、できるわけがない。しかしそのようにカテゴリーというのは必然的。
タグ:
posted at 01:27:09
その点で、小説批評が原点になる日本の評論が、階級制の生得性が現代日本にはない、とルカーチを批判するのは、これだけブラック化した日本からは、当然リアルじゃないね。合田氏が吉本のルカーチ批判に触れていたが。bit.ly/1kWpADr @tubupoko
タグ:
posted at 19:29:50
現象学も、フッサールのコギト解釈を批判する『存在と時間』の和訳文なんて、まるで頭の悪い人の書く日本語にみえるからな。ほんとに出来の悪い読み手が読むと発狂するかも。twitter.com/sunamajiri/sta... @Oygnino 進学組の子らに早速ツけてみましょう
タグ:
posted at 21:44:42
そうでもないよ。いわば慎重なだけだよ。世界が身近に感じるなんて現代の常識だが、それはデカルトの延長に脚が生えて近づいてきたのではなく、現存在が能動的に配慮している、というのが本来の言い方だとかね。bit.ly/RlDbHv @Oygnino
タグ:
posted at 22:06:25