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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2015年04月29日(水)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月29日

思考が先決かという誤謬の「当のもの」に直接論究するハイデガーからカントが読める人と、迂回して軽薄な思惟に陥る者、という格差しか有意に思えないほどだが、ハイデガーは全集以前には当のものをはぐらかす当人と目されていた。@J_J_Kant pic.twitter.com/EVJ1A2qMPX

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posted at 15:34:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月29日

考えるより前から分かっているという悟性がどこからくるのか、というのが西欧人の理性的な営みだとすれば、そこから何も触発されず、思惟すれば我があると思考停止して、自己言及の物語しかすることがない、そりゃタライも流れ去ってしまいますよ(笑)。@J_J_Kant たらいと一緒に赤子を流す

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posted at 14:17:41

中嶋 哲史 @J_J_Kant

15年4月29日

@sunamajiri そいう理性の絶対化・形骸化を批判して合理主義も数ある物語の一つにすぎないとしたのがポストモダンでしょうけど、今度はたらいと一緒に赤子を流すで理性を一切否定した結果、何がなんだか分からなくなってしまったというのがイマココでは(^^)

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posted at 13:51:11

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月29日

近代の合理性というのは、理性を経験と混同する誇大妄想から自由になった、ということに近似しているので、彼らが何かを絶対視した途端、その誇大妄想という形骸しかなくなってしまう。教育におけるロマン主義的なタブララサ(白紙)という短絡も、誇大妄想の一例でしょうね。@J_J_Kant

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posted at 04:08:13

2015年04月28日(火)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月28日

真反対というか、カントの言うコペルニクス的転回自体、新カント派から柄谷のトランスクリティークの書き出しに至るまで転倒してそうだが、唯一ハイデガーだけが真意に肉薄できてるのだろう。しかしそれを今までは受容し損なってる、文学もそれで終焉なる仮死状態。@LitoSnowfield

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posted at 20:51:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月28日

つまり、ハイデガーの言う実存とか不安とかっていうのは、自分の存在を打ち消せないとか、無がないこととか、そういうことなのだ。そんな容易く他者に絡め取られて無に帰すことが出来るほど、存在はヤワではない。@LitoSnowfield ハイデガーを理解?するには文学ドップリ体験がないと

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posted at 20:38:58

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月28日

相手次第の自分なんて気遣いではない。相手にどう思われようが、自分は現象的に存在している。相手なんて仮象から自由に、死んでも不滅でありそうなほど、というのがアリストテレス霊魂論からカントを解釈したハイデガーの言う気遣いで、相手はどうでもいい。@LitoSnowfield

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posted at 20:32:29

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月28日

国語教科書に頻出の鷲田が携帯の身体論とかやるのだが、スマフォ時代の通知スルーは、現象学的に何なのかという話題。現象学なので、他者承認のような相手がどうのというのはいわば超越してる。ハイデガーの気遣いというのも、相手が気になることではない。@LitoSnowfield

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posted at 20:22:31

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月28日

ハイデガー bit.ly/1EawtbV はカントが何に表明的かと問うていくが、第二版は言い訳ばかりで表明的ではない。有限的派生的直感は被投性としてのみ表明的だが、カント自身は退却してしまっている。@LitoSnowfield

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posted at 19:22:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月28日

2つの直感とは、カントが第二版(B71)で付加した、神は根源的直感だが有限な人間の直感は派生的直感だ、というくだり。しかし表明的ではなく説明的。bit.ly/1dnNANy @LitoSnowfield pic.twitter.com/F4o2WaZhhf

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posted at 19:18:39

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月28日

デカルトでは思惟に神要請するだけだが、カントでは一者直感がたしかにあるのだ。しかし一者直感からカントは第二版で退却して曖昧化してしまうという動揺があるので、ハイデガーは動揺しないのだ。カント解釈ではカントの直感は2つに分けられている。@LitoSnowfield

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posted at 16:45:31

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月28日

カントの一者直感=感性の超越論性=時間からの退却を主題化したハイデガーのカント解釈講義~カント書は、つねに人間は神の造り手か、という命題をめぐっているので、それは美学などという退却した問題にはない。端的に、そんなものは学校にはない。@LitoSnowfield

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posted at 16:42:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月28日

そこにあるのはつねに、超越論的感性論を度外視すると、人間に神をも創造する無限な能力を措定してしまい、学校論理学をも絶対化されてしまうという西欧では旧来の問題。それは生的でないのと同様、美的でもないから、美学的にも大問題だが美学はどうでもいい。@LitoSnowfield

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posted at 16:38:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月28日

一者=直感=感性という超越論的感性論を、超越論的論理学でライプニッツへ退却させる、ハイデガーがカント解釈からカント書で論点とするカントの動揺=思惟というのは端的に、経験できないものとしての理性の超越論性を、経験できるものと混同させてしまうのだろう。@LitoSnowfield

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posted at 16:35:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月28日

カント書は、カントの感性論からの退却、ライプニッツ~ヴォルフへの、バウムガルテン美学による後退、を批判する書だが、学校学問への美の退却でもあるから、美学的にも大問題。生の美は学校論理学にはないからだ。@LitoSnowfield pic.twitter.com/eMoH4c4mYx

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posted at 16:22:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月28日

カントの問題というのはハイデガーから見れば単純で、理性とは経験できない、経験の反対語のことだし、一者とは全体性で、有限な要請による神ではなく、自己触発させる時間の無限的全体の一者性にすぎず、そうした感性や直感は、たとえば今では単なる美学問題とされる。@LitoSnowfield

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posted at 16:08:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月28日

岩城はハイデガーのカント書から、カントの感性論、つまり美学を再興してるわけだが、簡単にいうと、カントは純粋理性批判第一版で、感性論(全体としての一者はコギトによる神要請ではなく、想像力を触発する時間の一者性だ)というものの、第二版で動揺してしまう。@LitoSnowfield

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posted at 16:06:05

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月28日

日本で有数のカント書論の一つ『誤謬論 カント純粋理性批判への感性論的アフローチ』bit.ly/1J6lmRi の岩城見一は京都国立近代美術館館長。というのは、バウムガルテン美学がカントの発端の一つなわけだしね。@LitoSnowfield 美学の先生なのですか〜

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posted at 16:02:00

2015年04月27日(月)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月27日

そうしたドイツ人の議論を迂回していると、何を煙に巻かれるのか、というのは意外と単純。理性や合理性を経験主義のことと日本人が即断したがるのだけれど、まさにそこが論点の誤謬で、彼らにとっては理性というのは、経験できないことの総称なのだから、煙にまかれてしまう。@J_J_Kant

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posted at 13:07:29

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月27日

カントも霊魂の不滅、死後の話ばかり純粋理性批判で表明的になるのは看過できないのだけれど、そういう経験できないこと、つまり理性を批判しようとしているのだから、そっちにいったら単なるロマン主義。ハイデガーは専ら、そうしたカントの動揺を見事に整理しきってますけどね。@J_J_Kant

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posted at 13:04:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月27日

大きく脱線するが、現象学と儒学は似ていて、国学はそれを解体できないという話を前にしてけれど、同じ学校嫌いならハイデガーのような仕方で学校学問を嫌うなら合理性もあるのだろうが、儒学を見限った国学ではロマン主義すぎて、国力が落ちるだけだと私は思う。@J_J_Kant

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posted at 12:41:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月27日

気色が悪いのは、立花隆は臨死体験とか死後の魂の不滅とか、そういったものの実在ではなく、逆にそういったことが実在しないことを、科学的に確かめられないから、安寧ではないという表情である点。なんでそんなことが科学の問題なんだ? 学がないというのはそういうことなんだが。@J_J_Kant

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posted at 12:24:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月27日

立花隆の番組の末尾で、立花は死後の世界がないことを、科学的に探求していたつもりが、取材先でそんなものは科学の問題ではないと嘲笑され、頭抱えてたんだが、明治以後儒学も忘れ、それほど学問に疎くなった。情けない。video.fc2.com/content/201504... @J_J_Kant

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posted at 12:19:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月27日

私がやはり一番興味深いのは、今でこそ全集化でナトルプ報告以上にハイデガーのカント講義が書誌的に受容されているけど、西田が書誌的にそれらを読まずに、同じような洞察に到達している、という点ですね。ハイデガーの破綻の内的必然性より、そっちの内的必然性のほうが面白い。@ecila808

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posted at 01:23:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月27日

新カント派が誤謬したような学校論理学への遡行ではなく、カント以上にカントを語るというハイデガーのカント書は、直前のカント解釈講義で極めてクリアだけれど、その前哨戦のこの講義も学校論理学の被覆性の話しかしない。www.amazon.co.jp/review/R3RPJIF... @ecila808

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posted at 01:18:58

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月27日

いや、そんな難問ではないでしょう。ト・ヘン(一者)を神ではなく、時間という全体の一者性から、触発されるものとしただけだから。ライプニッツ~ヴォルフの学校論理学が被覆するんだろうが、ハイデガーも西田も共通の問題意識を持っているのが痛快ですね。@ecila808

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posted at 01:16:00

哲学少女 @ecila808

15年4月27日

えて、AがAであるという自己同一が分断、断絶によって成り立つことを思考する。AがAであるのは一方には他者との関わりにおいてであり、他方には場との関わりにおいてであり、実体的措定は媒介の中でのみ成り立つ。自己同一は自己と本来言えないものが自己として立ち現れることであり、そこに自己の

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posted at 00:56:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年4月27日

まさに、ハイデガーの問ですな。「存在一般の意味への問」が破綻する「内的必然性」ということをみんな問題にするけれど、それ以前に、端折って言えば、ハイデガーはカントに学的論理化を見ていないという。@ecila808 我々の生にそもそも学的論理化は必要なのかという問いは意義がある。

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posted at 00:55:23

哲学少女 @ecila808

15年4月27日

「赤きもの赤しといはであげつらひ五十路あまりの年を経にけり」と詠んでいる。これをどう解釈するか。服部はこれを西田の根本思考として、また赤(共産主義)とも関係付けて解釈している。私なりに展開すると、A=Aを我々は学問的にも日常的、政治的にも当たり前としているしかし西田は弁証法的に考

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posted at 00:51:33

哲学少女 @ecila808

15年4月27日

我々の生にそもそも学的論理化は必要なのかという問いは意義がある。我々は自覚的であり、人間による人間の前学問的自己理解(必然的に自己のいる世界の理解)を離れて人間というものはない。この意味で万人は哲学的である。この人間的生があえて哲学をすることは一個の特集事である。西田も

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posted at 00:45:52

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