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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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2015年10月24日(土)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

ハイデガーの転回ほど誤解の破壊力が凄まじい物はないが、戦前は認識論の形而上学性を厳密に懐疑(超越論)するには、大学という場が必要だと言っていたのに対して、ナチズムで大学に失望し、文学(詩)にしかその厳密性はないと転回しただけで、転向はしていないだろう。@inja650rr

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posted at 22:03:03

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

たしかに、奴隷は奴隷解放どころか支配者になることを希望のように語るのだろうが、支配者は奴隷になれないことに、より絶望しているのだ。その絶望のほうがより深刻だ、ということに尽きるのだろう。@inja650rr

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posted at 21:58:05

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

西欧哲学をギリシャ以来の支配学と見なすのは、西欧を中世神学と見なすのと同じように被害妄想で、むしろ釈迦が乞食のようになる方法を模索したように、いわば無知の知も主知主義から主意主義、あるいは実践を厳密に方法として記述する方向に向かってるのだろう。@inja650rr

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posted at 21:55:42

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

大戦を挟んで、戦前は自我の認識論を形而上学と批判する超越論哲学、戦後はそこで得た時間という根源規定を所在究明する、セム哲学に移行していて、だからこそ一読して何の話をしているのか読み取りづらいというだけだが、それは端的に言い直されないとならない。@inja650rr

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posted at 21:51:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

これはいわば、支配者的な釈迦が、婆羅門をやめるようなことと、極めて酷似しているのだ。戦後のハイデガーは、根源を所在究明と言い換え、戦後思想はパニックに陥っているのだが、日本の仏僧が戦前からひたすらハイデガーを修行のように読むのはそのためだろう。@inja650rr

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posted at 21:45:25

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月24日

@sunamajiri そうですね、皆がもしかしたら、日本国が転回していることに気づいていないのかも知れないとも思ってしまう位です。

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posted at 21:38:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

ここで、奴隷は支配者になれるのかではなく、逆に支配者は奴隷になれるのか、と問いがいわば反転していることが凄いのだ。言ってみれば、ハイデガーにはそういう問い方があるのだ。この非暴力が暴力問題と言われるハイデガーの深刻な問題。@inja650rr

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posted at 21:38:36

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

つまり、非ユダヤ教徒はユダヤ教徒でないのか、ということが問題になっているのだ。これがセム問題と私が命名している問題なのだ。ハイデガーの戦後の受容というのは、アーリアはセムを語れるのか、という問題。支配者は被支配者になれるのか、と言い換えてもよい。@inja650rr

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posted at 21:34:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

これは、根源は所在究明なのかという戦後の問題なのだ。twitter.com/sunamajiri/sta... ハイデガーが根源は所在究明だと語るのは、フッサールが所在究明は根源ではないと、一般化したからだ。つまり、旧約は固有の民族に所在する問題か、という命題なのだが。@inja650rr

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posted at 21:32:29

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月24日

@sunamajiri 難しいですね。セム人的な形式的告示に合わせたということになるのでしょうか?

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posted at 21:28:25

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

これが、セムそのものに一切触れずに、セムとおなじようなことを遂行してしまった暴力問題、というハイデガーの深刻な問題といわれているのだ。セムというのはストア派的一元論と言い換えることもできるが、より一般的には旧約の、ありてあるというコトバの問題なのだ。@inja650rr

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posted at 21:26:11

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

ハイデガーが目指そうとした本来的存在史というのは、方法的懐疑が認識論になることを修正する存在論のことだが、これをやると新約の歴史性が吹っ飛んでしまい、そこで旧約という非歴史性、つまり時間性が現勢化=立ち現われてしまう、ということなのだが、それが未完化している。@inja650rr

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posted at 21:24:21

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

より重要なのは、方法的懐疑が存在証明(存在史といわれる)を退ける認識論に頽落したので、存在論が本来の存在史(歴史に対する時間)を取り戻す、より本来的な方法的懐疑になったということなのだ。いえばキリストの歴史性を解体して、キリストになる時間を取り戻した、という。@inja650rr

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posted at 21:21:29

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

それは、前歴史的な旧約に一切触れず、歴史的な新約だけを語るところを着手点とすることで、非歴史的つまり時間的な旧約(セム的な分化)を、語ってしまうということなのだ。twitter.com/sunamajiri/sta... @inja650rr

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posted at 21:18:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

そこは非常に重要。ここでセム的とは新約以前、前歴史的なこと、言い換えれば旧約のことなのだが、ハイデガーは前歴史的な旧約を意識的に排除することで、旧約と同じようなことを語ってしまったのだ。この歴史の排除のことを暴力的解釈と、ハイデガリアンはいうのだ。@inja650rr

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posted at 21:17:48

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月24日

@sunamajiri すいません少しご教授下さい。
アーリアのセム化とはどの様な事であり、
それはどの様な点で暴力的であるとお考えになりますか?

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posted at 21:13:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

そこで現代、ハイデガー研究で重要になってくるのが、ハイデガーがセム的なことに一切触れず、セムと同じような一元論をアーリア的に語ってしまった、つまりアーリアをセム化してしまった、という暴力的なやり口のことなのだ。twitter.com/sunamajiri/sta... @inja650rr

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posted at 21:11:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

ハイデガーは文化的差異ではなく根源だ、という厳密な話を端的にマルクス的な存在論を、単なる認識論とするために語っている気がするのだが、逆にハイデガーが批判されるのは、端的に支配・被支配という関係を隠蔽してしまうという一点だからなのだろう。@inja650rr

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posted at 21:08:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

ただし、ここでもこう逆説できるのだ。西洋も東洋も単に根源は同じ(人間の思考できることなどどこも同じ)で、文化的差異など重要ではないが、寧ろより根源的な差異というのは、支配者と被支配者(奴隷)という、現代では有耶無耶にされている差異だった、という点だけだろうね。@inja650rr

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posted at 21:05:25

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

托鉢を実践とする原始仏教の律を、原始社会の生きる糧の話に文化人類学して、日本史的に律宗排斥が給与制の根源だなんて話は、日本ぐらいでしか通用しない話だからね。そんなもの教科書的すぎて、ドクソグラフィカル(学説対立史)上の問題でもないと思うのだが。@inja650rr

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posted at 21:01:28

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月24日

@sunamajiri それは基本的人権の保証の観点からすると非常に合理的である反面
僧侶そのものが世間的な頽落に堕ちた瞬間であるとも言い換えられるのではないでしょうか?

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posted at 20:54:04

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

そう、だから、日本では托鉢という律を禁じ、国家が仏僧に給与を与えるようになったというのが、日本で律宗=実践的仏教が排除された問題だ。単なる日本史の問題だろう。ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B... @inja650rr 托鉢とは公務員がする者ではなく乞食のする者

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posted at 20:51:51

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月24日

@sunamajiri いえ、托鉢とは公務員がする者ではなく
乞食のする者でございます。

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posted at 20:49:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

そうそう、伝来した仏教の律である托鉢を、日本では公務員化して排除してしまった、という話でしょ? 日本で仏教(仏僧)はいわば公務員の起源のようなものだから、大した問題では無いよ。twitter.com/sunamajiri/sta... @inja650rr

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posted at 20:47:55

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月24日

@sunamajiri 以前にも、私は語りましたが、托鉢というものは非常に合理的な考え方であるように思います。
社会構造に呑まれる事もなく社会全体を俯瞰できるからです。

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posted at 20:43:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

もっと端的に、西欧の学問が近代化したのは、教会内神学内の証明の問題から、神の問題を明証性に開放するには、どうしたらいいかという方法論だからというだけで、それを食い扶持=職業にする大学教授に自尊心があるか、なんて問い方は無意味だよ。@inja650rr

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posted at 20:43:20

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

それは食い扶持の話だね。デカルトの場合、職業という問題は、そのとおりなのだが、現代語られるような自尊心を断ち切ることだけが方法というのを、仏教的に語ることには意味が無いよ。仏教に食い扶持の話なんかないでしょう。@inja650rr デカルトは少なくとも度外視していませんでした。

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posted at 20:40:04

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

小乗・大乗にしても、仏教が学問論を著そうとしていたわけでないのに、それを現代において学問的方法と受け取るのは危険だよ。学問が自尊心という執着を断ち切る方法だ、というのはそのとおりだろうが、執着を断ち切ったって学問なんかにはならないんだよ。@inja650rr

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posted at 20:36:38

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月24日

@sunamajiri デカルトは少なくとも度外視していませんでした。
当座の生活費の為に王女エリザベータと昵懇になりましたが、
それでも思索と発表は何れも匿名の隠者としてのものです。
それは自らに課した3つの道徳律に従ったものと考えられます。

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posted at 20:33:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

だからそのような仏教的な言い方は学問的あるいは学問論には有意味ではないよ。自尊心を懐疑することが方法=明証かというと、それも妥当なのだが、そんなことを問題にしているだけでは方法的懐疑や明証に至るわけがない、ということが問題なのだ。@inja650rr

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posted at 20:32:59

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

プライドの話でしょ? そんなことデカルトもハイデガーも度外視しているよ。彼らは単に学問的方法の話をしているので、学問は自尊心ではないというだけだ。その言い方になおすと、自尊心が執着だよ。学問的方法とは執着のことではないよ。@inja650rr 自尊心が両極端である事が苦しみの原因

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posted at 20:30:04

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月24日

@sunamajiri なるほど、一点ご指摘をお許し下さい。
「愛」その物が煩悩を意味します。
問題は煩悩の貪欲であり、欠如すると自殺したくなる。
過剰になると欲望を貪るという事です。

つまり自尊心が両極端である事が苦しみの原因であるという事です。

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posted at 20:27:01

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

違うだろう。そういう承認欲というのは、愛ではなく単なる煩悩だろう。だから用語は根源的に規定された定義でなければ、混同されてしまうというだけだ。愛を規定するとすれば、それは煩悩とは正反対という意味にしかならないよ。@inja650rr 愛情とは承認欲を齎す者ではないのですか?

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posted at 20:21:57

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月24日

@sunamajiri 愛情とは承認欲を齎す者ではないのですか?

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posted at 20:19:45

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

それは世間をヘーゲル的な承認の問題に混同し過ぎだよ。ハイデガーではそういうのは整理されていて、ヘーゲルも頽落した認識論の一種、あるいは独我論のように捉えられているのだから、愛というのは承認の問題ではないよ。@inja650rr

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posted at 20:18:49

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月24日

@sunamajiri 人は他者から「愛している」というコトバを一々受け取らないと生きられない存在であると世間一般に考えられています。

しかしそれはこの時代そのものが人間内部からの承認を得られない事に問題があるように思います。「自己承認」がもっと必要なのだと感じます。

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posted at 20:15:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

その意味で、意識的頽落か、不随意の頽落かというのも問題だろう。頽落をフリのようにすることである形式的告示というのは、潜勢のフリをして、現勢しているような真理のことなので、本来の随意的頽落は操作されないと思うが。@inja650rr

タグ:

posted at 20:15:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

それはそうだろうね。頽落というのは、潜勢(二元論)といってもよいのだが、この前からツイートしているように、二元論を形式と信じ込み、それを形式的告示として、現勢という真理に至れない頽落した判明でない意識というのは、操作されやすいよね。@inja650rr

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posted at 20:12:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

実存というのは、一々愛してるなどと言わずに愛があるようなことなのだから、愛ということを意識的に問題にすること自体も、どこか実存的でないように聴こえる。さっき寺山修司の詩がTLにあったが。www.evernote.com/l/AJ19eLNnNvVM... @inja650rr

タグ:

posted at 20:10:39

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月24日

@sunamajiri 愛というものは、実に「薬」のようであると思います。
常用すれば禁断症状を産みより大きな苦しみを産んでしまいます。
これを「執着」による苦しみと言います。
改善できるポイントは何か?という事を考えると、無明から転じて智慧が解脱には必要となるのかと考えます。

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posted at 20:05:25

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

愛が言表を超えてある、というのは、愛する釈迦を換骨奪胎して、解体してしまうようなことだ。それは語源の解体のことだ。具体的には、用語的仏教を解体し、西欧的な術語と同定する作業のことだ。恐らくそれが言表されざる愛という境地だろう。@inja650rr

タグ:

posted at 20:00:42

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

君は釈迦への愛は、帰依でも信仰でもなく哲学だというのだが、それが妥当するためには、西欧哲学的により積極的な言い方が要請されているのではないか。その積極性が、ここでは釈迦の解体や地平創造(自ら釈迦になること)なのだが、その境地に本当に至れているのか? @inja650rr

タグ:

posted at 19:56:14

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

脱構築的に言うと、それが君が言っている無明で、本来は釈迦への愛は無記としなければならないことなのではないか、と思うだ。無明は黙することという無記というのは、愛を語らない当為なのではないか? それが西欧では問題となる解体なのではないか? そう思えるのだ。@inja650rr

タグ:

posted at 19:53:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

言わんでもいいことを言わされてしまう、という葛藤が潜勢的当為だが、愛してると言わないでも愛があるのに、一々愛していると言わされてしまう、その潜勢性には、ハイデガーが懐疑的方法としたような地平創造がない。つまりコトバが生成されていない、という事態になりかねない。@inja650rr

タグ:

posted at 19:51:31

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

現勢的実践=当為というのは、一々愛していると言わないでも愛があることで、言表すべきは愛しているという表明ではなく、日常会話だということなのだが、その点で気になっているのが君が「釈迦を愛している」と一々表明することだ。それは地平創造ではないということなのだろう。@inja650rr

タグ:

posted at 19:42:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

整理すると、ハイデガーの方法は、デカルト的懐疑が二元論的な認識論になるのを、古代の霊魂規定を潜勢させてるからだ、と言い当てるためにはどうするか、という方法論なのだ。この方法論が無くても、一元論的実践=当為が生まれるのではないか。その地平創造をしてみてほしい。@inja650rr

タグ:

posted at 19:37:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

潜勢というのは、心身に分裂する二元論のことなのだが、デカルトの方法では、西欧の霊魂という古代の規定は、二元論に潜勢してしまうからこそ、ハイデガーはそれを頽落した認識論としただけなのだが、現勢的当為つまり言表的実践とするには、どうしたらいいかと考えるべきなのだ。@inja650rr

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posted at 19:35:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

つまりハイデガーは、当為的言表の現勢的言表という真理的一致という点で、拙い言い方を遂行しているのだ。これをより先鋭化・洗練した言い方に改定するには、もはや仏教的な術語のほうが有用、という問題が確かにあるのだと思う。@inja650rr

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posted at 19:32:45

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

要は、当為的言表を潜勢への頽落ではなく、現勢的言表という真理に、同一律的に一致させることでしかないのだから、それに苦労しているハイデガーは馬鹿だ、というのはある意味で正しいのだ。ハイデガー批判という積極性があるのだとすると、それははそこから生まれる。@inja650rr

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posted at 19:31:30

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

それは西欧的には、当為的実践を、潜勢的ではなく現勢的にできるかという命題なのだ。これで当為的な言表は、二元論的潜勢主義ではなく、現勢主義的に必要最小限のことだけが、言表されるようになる。一々愛してると言わないで済むようになるのかもしれない。@inja650rr

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posted at 19:30:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

方法的懐疑は二元論(ハードプロブレム)に陥るので明証が明証的でなくなってしまう。しかし仏教にこの問題がないのだが、しかし仏教だと、実践や当為が言表でなくなり、無言になってしまう。この両者のいいとこ取りをして接合する。これを先人がやろうとしてみんな頽落している。@inja650rr

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posted at 19:28:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

重要なのは、仏教のパースペクティブで、方法的懐疑を再方法化したほうが近道だという予感ね。たしかにそれは妥当だとは私も思う。仏教の無記や無明というのは、それを言い当てているからね。以下のような腑分けが必要な気がする。@inja650rr

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posted at 19:25:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

とはいえ逆説すると、仏教だけが無明とそうでないものを判別する方法で、西欧ではそこからやっと実践に至っただけということもできる。当為が言表することというのは、愛してると一々言明しないと愛がないことだから、我々から見ると単なる野暮なんだけどね。笑 @inja650rr

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posted at 19:22:33

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月24日

@sunamajiri むしろ、仏教と西欧哲学の相違点を探るための、基軸として仏教の教えを私は重視しています。

仏教的な概念を使わざるとも、説明が出来るよう望んでいるのです。

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posted at 19:17:26

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

君の仏教への拘りは薀蓄としては興味深いのだが、無明とそうでないことの違いしか明らかにできない教えなのだから、私が教えるとすると、もう仏教は捨てなさい、としかいうことが出来ない。私はとっくの昔に仏教など捨てている。@inja650rr

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posted at 19:14:32

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月24日

@sunamajiri 仏教というものは智慧の宗教と言われるように、無明(蒙)をひらく(啓)事こそが本筋であり、それが涅槃寂静の境地というものです。
その為の智慧が沢山含まれているのが仏教典となります。
つまり啓蒙思想であるとも僕は思うのです。

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posted at 19:11:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

仏教徒から見ると、西欧人のテクストが、すべて存在証明や心的実在という無限遡行=無明に映ってしまうというのならば、それ自体、仏教が無明であり、現代に有効な教えでないことを証明しているようなものだ。twitter.com/sunamajiri/sta... @inja650rr

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posted at 18:51:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

それが端的に、心的実在という存在証明や無限遡行になることに対して、心の外に超越する言表、つまり勇気の根源規定という西欧文明の問題なので、端的にそれが仏教には書かれていないだけ、という単純な問題だろう。その点で仏教は無明なのだ。現代において拘るべき教えではない。@inja650rr

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posted at 18:47:09

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

元(根源)は同じだが、仏教では経典の伝承問題が無明を生み出すのだとすると、西欧では解釈の根源だけが問題になり、それで実践という近代的な問題が作られているので、解釈の根源規定、つまり現勢的表明性を度外視すると、無明=形而上学になってしまう点も、忘れてはいけない。@inja650rr

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posted at 18:44:24

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

それでテクストを読むと無明だというのだろうが、確かに仏教ではテクストが無明だが、西欧では近代化が起こっていて、そこではテクストに厳密に現勢することだけが実践なので、テクスト外が無明に匹敵する深層や現象の背後という形而上学になってしまう、という点は注意が必要だ。@inja650rr

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posted at 18:40:38

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月24日

仰る通り!重要なのは経典(テクスト)そのものではなくそこに書かれている教えにこそあります。

しかしいつの日か経典そのものが信仰の対象となってしまった。

これでは苦しみから解脱するための仏教が無明の迷いを産んでしまうでしょう。 twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 15:39:42

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

方法とか明証というのは、端的に「証明しないこと」であるはずだが、それが西欧では、中世神学の神の存在証明への反動で、あらゆる方法として言い尽くされた、というだけなので、そこで方法をあれこれ憶測して、心的実在や唯識に煮詰まるというのは、日本の不幸ね。@inja650rr

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posted at 06:17:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

逆に言うと、仏教の方が凄いという思い込みは、西欧を中世神学と思い込み、そこから離脱する方法的懐疑や、ハイデガー的な形而上学批判を、中世神学と混同しているだけだから、仏教が特に凄いというのは、むしろ単なる先入観なのよね。重要なのは方法だけで。@inja650rr

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posted at 06:08:58

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月24日

なぜか日本では仏教哲学が西欧より優れていると思いたがるようだが、元(つまり根源)は同じだからね。西欧を中世神学(神の存在証明)と固定観念するのは、戦前の心的実在論批判という文脈が途絶えて、深層心理学や唯識という行き止まりで煮詰まっただけで、取るに足らない問題。@inja650rr

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posted at 05:54:28

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