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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2015年10月11日(日)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月11日

じつは、ちょっと唐突で語弊があるかもだが、以前から私は、アメリカの奴隷制に、仏教の虚無性が利用されてる、とずっと言っていたからね。bit.ly/1VLoGf2 現世利益・来世利益・現世本覚というのはいずれも心情的に諦めだし、虚無的なのよね。@inja650rr

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posted at 06:44:53

2015年10月10日(土)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月10日

ハイデガーが時間を規定に置くというのは、恒常性、点性、今時間、ゼノンのパラドックスに陥る弁証法、時間は空間の止揚であるという幾何学を葬り、実存範疇から更に時間の様態を範疇化するような語だが、生命のホメオタシス(恒常性)や円環という話ではない。単に自由の話に聴こえる。

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posted at 04:17:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月10日

結論めくと、おそらく縁起とは西欧的には、語るべき根源規定を語らないことで、それがシュレディンガーの猫ではないが、何か不確定性と見えてしまう、というようなことがあるのかもしれない。しかしそれは単に無記ということに過ぎず、おそらく規定の根源性は不可避のように感じられた。

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posted at 03:58:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月10日

なので、単なる霊感だが、こうした幾多のバイアスによって、不確定性をいわば実体化するような誤読が、どこかに介在しているように思えてしまった。唯一言えるのは、仏教は無記だが、西欧では規定をいわば有記とするのだ。語り得るものは規定だけ、というハイデガーはその点で正しいのだ。

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posted at 03:54:03

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月10日

この前も話したが、仏の空が八百万を劣位に置くという、いわゆる本地垂迹説が、日本で八百万が仏の上位に立つ反本地垂迹に、いわばバイアスがかかるという問題も見逃せないのかもしれない。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 03:49:39

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月10日

ちなみにエルヴィン・シュレディンガーは、ショーペンハウアーから、仏教というより、ヒンドゥー教のヴェーダーンタ哲学に生涯に渡り囚われた人だ。量子学を批判したのはそのためと見ることもできようが、それも私の専門外だ。

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posted at 03:46:14

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月10日

ただし一点だけ気になっていることがあるが、それを上手く言う自信がない。というのは、物理学の用語は、物理的領域の閉包性の表現でしかないので、適切な翻訳に手間取るはずだからだ。気になったのは、ここ twitter.com/inja650rr/stat... で量子論を実在論と規定している点だ。

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posted at 03:43:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月10日

それが、周囲の隠者話法に対する印象に聴こえるのだが、当の隠者氏が、それをシュレディンガーの猫で喩えたのは適切と思えた。bit.ly/1FWI1D7

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posted at 03:38:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月10日

このように、西欧的には規定の表明性があるために、メタボレー(何か具体的なことをいう自由という問題)を規定しやすいのに対して、恐らく仏教の縁起という規定では、因果なのか時間なのかも不確定になり、自由を規定できない不自由が表明されてるように見えてしまうということがあるのかも知れない。

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posted at 03:38:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月10日

そして、ハイデガー『存在と時間』では、ヘーゲルでは時間は点であるが、点とは時間という問いであるとして、答えを出さなかったことが主著の破綻とされるが、『カント書』で時間とは根源規定である、と表明=存在論したのだ。したがって、カントは不徹底だから単なる認識論に見えてしまう。

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posted at 03:31:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月10日

一方、プラトンに対して規定の根源は時間に対する霊魂としたのがアリストテレスとすれば、カントはデカルトの要請を受けて、時間の一性の根源性に気づきながらも、自我や主観という領域性を根源とし、霊魂を潜勢に実体化したために、自由や平和の問題を派生したのだろう。

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posted at 03:30:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月10日

隠者氏とは、無記という規定で一致しているのだが、有と無を空にメタ化するものは縁起だという問題は、西欧で言えば根源規定の問題だ。西欧で言う存在論とは、言明的という意味だが、仏教では縁起を言語の規則の根源規定だとは明言しないので、何のことなのか不確定であるように見えかねない。

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posted at 03:30:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月10日

いわば隠者話法が自己完結や日和見に聴こえるという声を聴くのだが、単なるスーパーフィロソフィ^とも厨二哲学とも思えない。そう思っていたら、隠者君がそれをシュレディンガーの猫と仏教的縁起で例示していたのを拝見した。bit.ly/1FWI1D7

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posted at 03:30:04

2015年10月09日(金)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月9日

ほんとうに、音楽教育で綜合 twitter.com/sunamajiri/sta... というのが、ジャズでは文字通り、分析(アナリゼ)として解体されるように、ドイツ哲学、つまりカントの綜合ほどの足枷(あるいは翼)も他にはない。哲学の世界ではハイデガーが解体してくれるまでは。

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posted at 13:45:44

2015年10月07日(水)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月7日

漠然とした先理解(存在了解や被投性)があるから、思惟は騙す神を想定してしまいがちだが、それを捨象するのが本来の思惟の原因(動機)だ、という程度のことです。なぜなら神を仮定した思惟では、岩戸隠れではないが、顕現する今が存在せず、単なる神話世界だ、といったような。@BeTakada

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posted at 01:57:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月7日

どうでしょう。現象がなぜ時間かといえば、思惟が第一原因=因果律を仮象として捨象するからなのでしょう。しかし事象的というのは、レアリタースの総体、宇宙の総体を漠然と存在了解、先理解するようなことなのでしょう。@BeTakada 時間を伴わない事象はあると反証できる可能性は極めて低い

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posted at 01:27:41

2015年10月06日(火)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月6日

静態的な自我のようなものではなく、時間と呼ぶ・規定するべきだ、というのは、まぎれもなく普遍的な「自我現象」なのでしょうね。@BeTakada 何の変哲もない事が普遍ですね。自我現象とは可能性の間口を拡げた良い表現であると改めて思います。@inja650rr @J_J_Kant

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posted at 00:34:51

2015年10月05日(月)

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月5日

「自我と呼ぶとどうなるか」という圏域から、「自我と呼ばないためにはどうするか」という地平への移行は、こうやって一文にすると何の変哲もないことだからね。@BeTakada @inja650rr @J_J_Kant

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posted at 19:06:30

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月5日

まさにそれが現象学ですものね。たとえば自我と呼べば非我のようになるようなことを解消する規定のやり直しの学でしょうからね。@BeTakada 不用意なネーミングといよりも、それこそ学としての入口が開かれた気がしました。ストンと落ちた感じです。@inja650rr @J_J_Kant

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posted at 15:54:00

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月5日

いやー、そもそも厳密な術語を規定する過程を現象として問題にする学問のようだから、不用意なネーミングは厳禁で、単にゾルゲとか気分なんだろうけどね。自我と呼ぶと死力になることのことなのだろうから。@BeTakada 自我現象、良い表現ですね。@inja650rr @J_J_Kant

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posted at 15:13:40

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月5日

ハイデガー以後は自我は自我と呼ばれず、単に気分とか、気遣い(ゾルゲ)と呼ばれるのだ。それは心理的な現象でも論理的な現象でもなく、純粋に自我現象なのだ。極めて不合理な一点が自我、そしてハイデガーがいうように最も合理的な一点が時間という。@inja650rr @J_J_Kant

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posted at 04:13:37

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月5日

近代的自我はデカルト的といえるのだが、カント以後、論理学と物理学で概念化できる限界が生じたことで、自我はハイデガーの言う、概念化できずモヤモヤとした気分(あるいは気遣い)になったといえる。先自我といってもいいかもしれない。@inja650rr @J_J_Kant

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posted at 04:11:05

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月5日

そうね、近代的自我は、いつの間にか、カント以来の論理学と心理学で概念化できないものを孕んでしまった。しかし、概念化できるものだけが実在しているというのでは、ハイデガーの言うような事実性も見えてこない。それを概念にもたらす方法がないからだ。@inja650rr @J_J_Kant

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posted at 04:06:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月5日

近代が終わり現代思想に移行するというのは、論理学と心理学で割り切れずモヤモヤとすることを自覚させる形式的告示 twitter.com/sunamajiri/sta... が着手点になるのだ。@inja650rr @J_J_Kant

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posted at 03:58:49

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月5日

でしょ? たとえばハイデガーまでをも仏教に無理やり捻じ曲げると、因果を超えた時間を超えて因果に回帰する話に飛び火し、メビウスの輪のようになるのです。それを親切とは普通言わない。twitter.com/Izutsu_bot/sta... @BeTakada @LitoSnowfield

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posted at 00:51:17

2015年10月04日(日)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

神を第一原因のように因果律に隠れたものとして語るのか、現れたものとして語るのか、語りにはその二通りしかないが、行為(当為)できないというのは、現れたものとする語りの親切心が、見抜けない場合だからね。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield

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posted at 20:46:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

しかし、カント書に付録のダヴォース討論でカッシーラーは納得しない。時間は神話的なもので、神が第一原因だと思っているのだろう。神は隠れていて、まだ顕になっていない、と信じ込んでいる。しかし、顕になる神というのは、純粋化された問い、というのがハイデガーの結論。@inja650rr

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posted at 20:27:14

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

ちなみに、『存在と時間』を補完する第二の主著と呼ばれる『カント書(カントと形而上学の問題)』は、さらに答えない。より純粋な問いを言い当てるだけなのだ。問いが先鋭化されるというのは、無限後退のような問いが解消するという意味なのだ。@inja650rr

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posted at 20:25:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

これが『存在と時間』で、問いが一点に集中し、答えが保留される最後の部分。高田訳なので、どうしても避けられない一点を除き、読みやすいはず。どんな解説書よりも、どんな論文よりも、ハイデガーの語り自体が一番親切なのだ。bit.ly/1VwJ979 @inja650rr

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posted at 20:22:58

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

(続き)ハイデガーの『存在と時間』の結末は、問いが一点に収斂するというもので、それは何も(時間が存在という答えなのかに)答えていない、という意味で破綻として読まれてしまう。しかし問が無限遡行する弁証法が破綻的だという結論として読まれるべきなのだ。@inja650rr

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posted at 20:19:37

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

日本でも神話は神のお隠れの話だ。ハイデガー以後問題にされているのは、神話からの解脱という話なのだろう。神話では神はお隠れしている。その神話世界に戻ってしまうのか、神を顕現させる今の自由とするのか、ということが問われているのだろう(続く)。@inja650rr

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posted at 20:16:53

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

そう言ってもよいわけだけど、それをもっと(ハイデガー的に)親切に言い直すと、因果律を時間と思うと、神は第一原因という過去にお隠れになってしまうが、時間は因果律ではなく自由のことだと理解できると、単に顕れる、というようなことだね。@inja650rr

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posted at 19:34:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

これは霊感なのだがね、因果律では第一原因(神)が想定され(神は過去にある)、弁証法でも今が止揚になるしかないとすれば、ハイデガーの言う今というのは、神の出現のことだからね。全智の視点になると、全能になるという。無宗教というのはそういうことなんだろうきっと。@inja650rr

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posted at 19:05:19

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

合田正人が出たので、柄谷行人(のトラクリ以後)に戻ると、現象学を退けるのは、その意味で正しい。しかし、ハイデガーを超越論的現象学としてのみ捉え、時間規定を齎す超越論的構想力(カント書)を退けるのは、単に弁証法的で、ハイデガーの言い方で言うと「時間に堕ちること」であり正しくない。

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posted at 17:56:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

もう一度、誰もが言いたがらない嫌なことを言うと、ハイデガーの根拠律から見ると、フッサールは単なるユダヤ教のラビの口承トーラーにみえ、それはスコラ的普遍論争の手前にみえるのだ。時間は無限でないこと、という規定であるしかない。無限に解釈できるのではなく、一回的な転回があるのみなのだ。

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posted at 17:52:01

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

このように、解釈学は系譜学を転回する。それは比喩を比喩として受け取ることで、律法や格律といった言葉の規約(規定性)を、意味として受け取らない(ラビのように一般論として再規定しない)ことだ。脱根拠律というのは、おそらく無限後退だろう。

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posted at 17:48:11

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

そこで要衝になるのが、無時間による存在を無限に解釈するフッサールの現象学に対して、時間の有限性というハイデガーの現象学なのだろう。だからこそ、継起関係を因果律に布置することになる系譜学も、現象学からみると仮象のようなものなのだ。口承トーラーにはなれても明記トーラーとなれないのだ。

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posted at 17:43:54

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

ここでは、解釈学と系譜学が対立するのだが、合田正人がマルレーヌザラデル(ハイデガーを律法者とみなす態度)をフーコーの視点を欠く、というのはそのことで、ハイデガーはフッサール的な口承トーラー(ラビ性)に対して存在論を布置することで系譜学に陥ることを免れているのだろう。

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posted at 17:39:30

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

しかし、しかし方法的懐疑としての形式的告示により解釈学的転回をするハイデガーでは、口承トーラーとしてのユダヤ教に対する律法という普遍論争の問題も、単に克服の問題、つまり律法でしかない。個別者はヘブル的一般論、単独者はスコラ的普遍論から派生するが、ハイデガーはそこから転回している。

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posted at 17:28:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

誰も言わないから言ってやると、フッサールの無時間論(ニュートンへ逆行するヘーゲルや、アインシュタインしか批判できないベルクソンの亜流だ)twitter.com/sunamajiri/sta... は、ハイデガーから見ると、一般論を無限に解釈し続けるユダヤ教のラビの口承トーラーのようだ。

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posted at 17:24:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

冒頭に戻れば、ハイデガーの時間の明証性という定言命法を反ユダヤ主義、つまり律法を収奪するもの、と捉えるのは陰謀論だ。しかしシオニストやラビのような一般論者にも、キリスト教の普遍論者にも、そのことが理解できないだけだ。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 16:50:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

このように錯綜的になるのは、経典が散逸的 twitter.com/sunamajiri/sta... というのと同じように、非本来的なお喋りには、存在を証明するなかれ時間を明証しろ、という定言命法が読み取りづらい、ということを物語っているに過ぎない。

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posted at 16:47:24

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

対象は客観が構成する物自体で、ラカン的には性的ですらあることになるというのは、存在者の全体に企投しているからで、世界内存在のように全体における存在者、つまり自由ではない。それはデカルトの延長を齎す格律の誤謬であって、デカルトから律法に回帰すべきというハイデガーはおそらく正しい。

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posted at 16:38:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

日本で科学的記述というと、武谷にしろ大森にしろ、カントに対する弁証法の問題、つまりハイデガーによると、空間を時間に止揚する点性という虚構のお喋りに頽落している。これはおそらく、柄谷の場所論でもそうだが、時間を圏域、存在者の全体(客体)として、被投できないからだろう。

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posted at 16:25:19

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

この詩、あるいは比喩を比喩とする律法が、存在ではなく時間の明証だというのは、私が特筆するほどのことでもない。分析哲学は形而上学に逆行し、弁証法はカントをニュートンの虚点、あるいは死力、あるいはライプニッツ動力学に戻してしまうが、それによっては科学を記述する方法がないという問題だ。

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posted at 16:20:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

おそらく、ハイデガーの威力は、新約どころか、デカルトの格律を、非本来的なお喋り(語りならざるお喋り)、頽落として布置できたことだ。それは旧約の律法ほどの威力が生じた、ということなのだろう。したがって、ハイデガーだけが形而上学と対峙しているのだ。

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posted at 16:16:31

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

存在を証明するなかれ、時間を明証しろ、ということがデカルトの格律の不備として露わにされるとき、ハイデガーは旧約、あるいは律法に触れずとも、律法そのものを言表している、というマルレーヌ・ザラデルの指摘は、合田のいうフーコーより正しいのだろう。

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posted at 16:11:45

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

翻ると、当然だがハイデガーはデカルトの格律を、非本来的なお喋りの原因とすることで、凌駕している。それは端的に、自我という圏域や場所、さらには止揚としての時間に頽落させる空間、カントを弁証法として受け取らせる非本来的な格律より、時間を根源規定として重視すべきだ、ということである。

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posted at 16:09:25

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

レヴィナスの弟子でレヴィナスとデリダの解体者であるマルレーヌ・ザラデルには、合田正人が適切に批判するように確かにフーコーの視点が欠けているのだろうが、しかし重要なのはザラデルが指摘したこの点だ。ハイデガーは(非本来的な)新約(というお喋り)で旧約の律法そのものを取り戻している。

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posted at 16:04:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

テクストクリティーク上、詳述すべきだとも思えないが、分析哲学が神学や否定神学の単なる範疇であるのは、そのためなのだろう。ハイデガーによる分析哲学の分派というのは、大した問題ではない。陰謀論という程度だ。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 15:53:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

律法は極めて単純で、存在は証明するな、時間は明証である、というだけの話なので、それ以外はハイデガーの言い方をすれば、非本来的な弁証法であるか、存在の証明であることしかできない。

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posted at 15:50:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

したがって、こうした陰謀論 twitter.com/ytb_at_twt/sta... は、単純に形而上学への逆行なのだが、重要なのはライプニッツ~フレーゲへの逆行というより、フレーゲ~フッサールの無時間的なもの、非明証性への分析的逆行なのだろう。

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posted at 15:49:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

ハイデガーを陰謀論で反ユダヤ主義の述語に還元すると、残るされるのは、存在の証明という、デカルトの格律への単純な違反だろう。つまり形而上学である。ハイデガーは意外と単純で、存在を証明するな、時間を明証しろというのを、デカルトのように真理の格律として語らず、律法を語っているのだろう。

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posted at 15:47:42

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

今のは注釈が必要で、あえて、デカルトの格律と、ハイデガーの非格律のような語りとを対比したのは、フォロワーさんにデカルトの格律を、律法として語る人がいるからだ。

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posted at 15:44:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

ハイデガーを擁護できないのは、それをデカルトのように格律として明示的に語らない点だけだろう。彼が言っているのは、存在は証明するなかれ、時間を明証しろ、という単純な格律であるだけだが、それを格律として明示的に語らない。そこがデカルトとの大きな違いなのだろう。

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posted at 15:42:49

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

ハイデガーの、存在を証明する者は「工作機械(Machenschaft)」だ、という述語を、単純に「反ユダヤ主義」と受け取ることが、形而上学ならぬ陰謀論ということだろう。 pic.twitter.com/CoIx0lhMvD

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posted at 15:41:24

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月4日

たしかに、ハイデガーの黒ノート問題を、陰謀論として捉えれば、そういう形而上学になってしまうからね。twitter.com/ytb_at_twt/sta...

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posted at 15:39:05

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