大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年10月22日(木)
戦後日本では深層とか仏教思想とか帰依の問題に干上がるのだが、ハイデガーが批判している文脈が今不明瞭に感じるのは、戦後の英米化でハイデガー的非形式が形式のように見えてしまうからなのだ。大橋先生もこう書いておられる。@inja650rr pic.twitter.com/aDDwnrSmZt
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posted at 23:58:39
先日のシンポでゲストの大橋先生が、ハイデガーが批判した戦前の新カント派についてスピーチしたが、戦前まで日本で判明だったものが、戦後の英米化で判明でなくなった、という趣旨を明言してる文を発見した。repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/bitstre... @inja650rr
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posted at 23:53:30
ハイデガーの形式批判、あるいは非形式的予感である形式的告示というのは、端的に判明であることなのだが、それが非常に文脈的に読み取りづらいという問題は、ハイデガーの書き方というより、受容の問題。とくに日本の戦前には文脈的に判明だった受容が戦後に分断している問題。@inja650rr
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posted at 23:47:30
@sunamajiri おっしゃる通りです。私は御釈迦様を愛していますが帰依はしていません。何故なら御釈迦様自身が超権力というものにすがる事で現存在が頽落に堕ちる事を悟っていたように思うからです。
後半部分は全く持って仰る通りです。
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posted at 23:45:21
ハイデガーが告示を形式的に語るから分かりづらいのだが、気分や形式的告示や予感であるというのは、数学や形式論理学のように形式的に目的を求めず、非形式的な予感のまま当為や実践、つまり目的を遂げることで、取り越し苦労はやめよう、といったような判明な意識のこと。@inja650rr
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posted at 23:44:29
釈迦への帰依は君のように形式的にしか語れない超権威のようなものだ。それが無記や境地が無限後退の形式だからだ。私が問題にするハイデガーは無記ではなく、言表の当為の形式、つまり実践を問題にしているのだ。実践というのは帰依と正反対の解体。帰依を問題にしてはならない。@inja650rr
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posted at 23:39:56
@sunamajiri モヤモヤした命題は前提が分からない以上数学的に解を求めるということは出来ないということですね。
モヤモヤしたした形而上の世界についてついつい考えたくなってしまうこと。
それが「形式的告示」という理解でよろしいものでしょうか?
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posted at 16:29:54
観測問題も時間を点時間と規定する心理問題のようになっていて、当然それは実際の観測ではないから、小澤の方程式のように観測上解決されてしまうという。さらに、量子力学の情報性という話になるのだが、しかしそれでも、いわば非点的な時間規定という現象は記述されないという。
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posted at 06:59:20
ちなみに、物理学者は存在論的と思い込み、それが哲学者には認識論的である twitter.com/sunamajiri/sta... というのは、要するに一言で言えば、両者ともヘーゲリアン的に規定されたお喋りをしていて、ハイデガリアン的に規定されていない、というだけに見えるのであった。
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posted at 06:53:27
その点で、やはり一番気になるのは、その無記を帰納できるという形式的推論だね。たしかに、仏教は師を解体しない教えである点で権威的だが、それを形式的にしか語れないというのは頽落そのもの、しかしそうであるとは思えない。@inja650rr 御釈迦様の無記の言い伝えが帰納的に正しければ、
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posted at 04:23:48
問題は、それを打ち消す推論に頽落することです。ハイデガーの場合は、そうした推論に陥る形式論理学のようなものを、形而上学として解体する厳密性を要請しているだけなのだが、しかしそれは端的に実践ということです。憶測と実践ほど遠く掛け離れたものはない。@inja650rr
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posted at 03:51:33
引き寄せて言えば、無記(形而上学を退けること)というのは、帰納や演繹という推論の問題、つまり形式上の問題ではないのです。もっというと、形式が形而上学なので、それは予感するぐらいが関の山ということです。しかし予感を形式的に打ち消すことが出来ないのです。@inja650rr
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posted at 03:33:14
ただし、それは帰納的という形式的な問題ではなく、ハイデガーがニコマコス倫理学に遡っていうように、形式的告示=形式を予感する実践、あるいは気分という問題なのでしょう。@inja650rr 御釈迦様の無記の言い伝えが帰納的に正しければ、また彼の教えも無限後退を終わらせたと思います。
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posted at 03:29:34
まったくそのとおりでしょう。ハイデガーが問うているのは、それを実践的にどのように共有するか、という部分のようなものなので、ハイデガーを形而上学と捉えるのは、もっとも劣悪な誤読の一つです。@inja650rr その内の漏神通とは形而上学の回避だったように僕は思うのです。
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posted at 03:26:53
カントで範疇論が頓挫するため、ヘーゲル的な形式論理学は時間を超越範疇にしてしまうが、ハイデガーの実存範疇からは、時間性は超越範疇ではなく、あくまでも根源規定として語られることになる。超越範疇は実践を形式化できない。超越論的根源規定だけが実践を問題にしている。
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posted at 03:20:31
実践的でないこととしての形式は範疇化される。カントでは範疇論は図式論で疑問にふされるが、それでも実践的には不十分だ(根源化されない)。ハイデガーの場合、形式一般を告示(予示)とすることで、実存範疇が語られるのだが、GA61では、生の範疇化(頽落)という具体的な由来が語られている。
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posted at 03:08:13
ところで、GA61『アリストテレスの現象学的解釈』講義は、範疇は超越範疇といえども実践的ではなく、根源のみが実践的だ、という議論になっている。途中で大学だけが哲学の場だというのは、それを根源と規定するには安定した場が必要だからだ。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 03:01:35
それは端的に、実践(フロネーシス)の良心(目的)への時間的な一致という形式のことなのだが、形式性とはこのように時間的であり、原因と結果のような二元論は、だからこそ形式的には時間的であるとは、言えないのである。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 02:57:05
私たちはつい二元論を形式的に捉えてしまうため、実践や行為が萎縮してしまう。ハイデガーの形式的告示というのは、二元論は形式でない、という予感のことなのだが、そのことで行為の目的が形式化される。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 02:53:11
この実践の良心への一元化(形式化)という当たり前のことが、形式的に理解できないのは、二元論を形式的に捉えているからで、形式的告示とは二元論(良心とそれに反する意識といった)を形式と捉えないことなのだ。twitter.com/sunamajiri/sta... @inja650rr
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posted at 02:35:13
実践的行為、つまり当為が目的となる、というのが方法的懐疑なのだが、現象学的還元で様相性を払拭するだけでも、純粋自我という無限後退が回避できず不十分なので、形式的告示とすることで、意識と良心という二元論の一致、という倫理学の根本問題が解決したことになるのだ。@inja650rr
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posted at 02:30:38
ニコマコス倫理学的実践性をハイデガーが取り入れて、それを現象学的還元より強力な形式的告示とする、というのは斎藤元紀氏が大好きな話だが、要するにニコマコス倫理学というのは、政治は数学的に話せないという一点なのだ。@inja650rr pic.twitter.com/PlMU0d4LqC
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posted at 02:13:15
ハイデガーで何が問題かというと、範疇や形式といった理論知に対する実践知(フロネーシス)を、ハイデガーだけが完全に拡張できてしまった、という一点なのだ。twitter.com/sunamajiri/sta... @inja650rr
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posted at 02:09:04
うちのコロンビア大など、アイヴィーリーグは、学部一年生にみっちりニコマコス倫理学をやらせるのだが、簡単にいえば、範疇や形式は先入観のようなもので、それに対する実践的な事柄にしか、言語化できることがない、ということなのだ。@inja650rr
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posted at 02:06:35
重要なのは、形式(論理学)に対する、形式的告示(予示)の実践性。形式的だと無限後退するのだが、後者の実践には無限後退などないので、それをどう言い表すのか、ということだけが焦点になっている。初期ハイデガーが批判する新カント派までは、その問題が残存していたのだ。@inja650rr
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posted at 01:59:10
逆説すると、超越論的規定がないと、超越範疇の等価交換という無限後退が発生してしまう。しかしそうした形式的な矛盾は実践的には何も役に立たない、それが少なくとも中世までの神学の問題なので、ハイデガーは、超越論的規定を問うことで、無限後退を完全に終わらせてしまった。@inja650rr
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posted at 01:51:50
超越範疇はたかが同語反復的(無限後退)なものなので、そのうちの根源(超越論的規定というのだが)を規定してしまう。そうすると同語反復の問題が終結して、意味が発生する、そういうことをやろうとしている。それが方法的懐疑のハイデガー的な徹底なのだ。@inja650rr
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posted at 01:47:35
中世神学では述部は真とか一とか等価交換で同語反復的なのだが、実践的にはそれに収まらない意味がある。その意味を取り出すためには、意味は形式的な論理学ではなく、実践的な予感に告示(予示)されている、という方法的懐疑の、ニコマコス倫理学的な徹底が図られている。@inja650rr
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posted at 01:44:22
デカルトに引き寄せれば、ハイデガーが追求しているのは、懐疑の徹底の一点ね。それをアリストテレスのニコマコス倫理学の実践性=形式的告示という方法的懐疑に確定する作業が初期ハイデガー。形式的告示とは、形式(論理学)ではない、実践的予感のこと。@inja650rr @BeTakada
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posted at 01:40:38
2015年10月20日(火)
先日の『始まりのハイデガー』シンポジウムについて、レジュメが論文として提出された第一部の神崎繁氏 twitter.com/sunamajiri/sta... … については、形式的告示を制圧できるのか、という問として考えることが出来たのだが、第二部については録音しかないため、また後日。
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posted at 15:29:11
問題は、それを神崎繁氏のいうように「始まりの制圧」 bit.ly/1OPs9DD として語れるか、である。初期ハイデガーはカイロスを本来的とも非本来的とも振幅的に語る。それが形式性なのだが、その始まり(形式的告示)が制圧されるわけではないからだ。
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posted at 15:16:56
これはいうまでもなく、神崎繁氏が、初期ハイデガーが言及を回避したストア派、つまりゼノンのパラドックスのことであり、点とは無であり、だから時間は弁証法的な交点としては無であり、時間は眼前ではなく根源の規定だ、と表明的になるべき問題なのだ。点は語れず、語れるものを形式的告示するのだ。
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posted at 15:14:15
ハイデガーのテクストに引き寄せれば、それが『存在と時間』で、空間と時間を止揚あるいは幾何学的交点とする弁証法を形式的告示として、点性を「時間とは何か」と問うことへ一点化させることであり、その問いに「時間とは根源規定である」という形式を与えるのが『カント書』の叙述といえるのだろう。
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posted at 15:11:20
ハイデガーには形式的告示(二元論を自明的形式としない自覚)があるので、結論もありきなのだ。形式を告示させる二元論は、一元論を自動的に形式化してしまう。その自動化された形式が、規定的時間という公理なのであって、それ以外の根源的規定は恣意的で非形式的な根源であるに過ぎない。
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posted at 15:08:14
二元論を形式的自明性と捉えるのか、自覚的に二元論を形式の告示に過ぎず、現象学的還元ができるのか、というのは大違いである。二元論的形式性を得るためには、一元論的形式性が規定されなければならないが、自明性からはそれが明らかにならない。
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posted at 15:05:31
新約文学(心身・主客へ分裂する葛藤、つまり哲学のサブカテゴリーである心理学的素朴実在論)というのは、二元論を形式化=歴史化するための、文学的営為である。それに対してハイデガーは、二元論は形式ではなく形式の告示だと捉えることで、本来の形式性である一元論を回復しているのだ。
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posted at 15:00:18
二元論を形式と捉えるのか、形式的告示として捉えるのか。この差分が問題になっているだけなのだが、しかし前者では一元論の形式性に到ることが出来ないのである。ハイデガーの規定的時間という問題は、この二元論は形式の告示に過ぎず、一元論が形式だという命題を、新約的な歴史から回復している。
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posted at 14:57:14
マルレーヌ・ザラデル的なハイデガーに引き寄せて言うと、ハイデガーは一元論的な旧約文学に言及せずに、二元論的な新約を形式的告示とすることで、一元論的旧約の非歴史性、つまり(契約の)形式に言及していることになるのだ。
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posted at 14:46:53
アメリカの脱構築派でユダヤ文学者のハロルド・ブルームでは、このことでハイデガーを脱構築しフロイトを(唯一の)形式性とするのだが、単純に二元論性を形式性と勘違いしているだけで、形式性は一元論的にしかない、とハイデガーは言っていることになる。
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posted at 14:42:06
ハムレットのような分裂型葛藤は英米文学的な脱構築派、たとえばハロルド・ブルームなどがハイデガーを批判する際に引き合いに出すのだが、明らかに振幅型葛藤(一元論)を形式性として規定できるか、というハイデガーの方が重要なのだ。一元論を形式化しない二元論は形式的告示ではない。
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posted at 14:38:16
もっと簡単に言うと、主客や心身のように二元論を規定として前提すると、分裂的な葛藤(シンポで神崎繁氏は、ハムレットのような独白と表現していた)になってしまうが、それを形式の告示とハイデガーのように前提すると、一元論(振幅的葛藤する時間の規定性)を形式化できる、ということなのだ。
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posted at 14:32:15
この「制圧」とは、振幅的葛藤(一元論)による、分裂的葛藤(心身・主客二元論)の制圧のことだ。ハイデガーは分裂的葛藤(二元論)を形式的告示することで、振幅的葛藤(一元論)の形式性を、規定的時間として述定しようとしているのだ。 pic.twitter.com/fOcRsIc0Ou
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posted at 14:29:08
これ(規定的時間)は、レヴィナスの弟子でデリダのハイデガー理解を骨抜きにしたマルレーヌ・ザラデル twitter.com/sunamajiri/sta... ではないが、歴史=キリストの新約を制圧し、旧約の一元論性を回復する、唯一の方法なのだろう。それが神崎繁氏が表題化する「制圧」だ。
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posted at 14:23:21
神崎繁先生は、このセム~ストア派~スピノザ、つまり一元論の回避を「ハイデガーにおける不在の現前」、つまり潜勢的二元論(=形式的告示)と指摘しているのだが、それならばなおのこと初期問題を解決する時間規定は一元論(=現勢的形式)なのである。
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posted at 14:19:06
ここで、ギリシャ古典哲学者の神崎繁先生が、初期ハイデガーが回避したものは、ストア派であるばかりか、セム的一元論だと、ハイデガーの形式的告示(フッサールのエポケーに相当する方法的懐疑)に疑問を呈したのは、極めて鋭い。 pic.twitter.com/CiWccDy8Zf
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posted at 14:11:11
要するにこういうことだ。初期ハイデガーには、カイロス(好機)が本来・非本来に分裂する形式的告示があるのだが、それはストア派やスピノザを回避することで可能になっているのであり、存在と時間~カント書での時間の規定化とは、ストア派~セム的な一元論を歴史的に扱わない、という態度なのだ。
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posted at 14:09:21
私は最近、ハイデガーのカント書の時間規定を話題にするとき、カントまでを潜勢的霊魂規定(心身二元論)、ハイデガーからを現勢的霊魂規定(一元論)と術語化しているが、神崎繁先生は「分裂型葛藤」と「振幅型葛藤」(一元論)という術語を使う。 pic.twitter.com/qd9ozrcPkt
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posted at 14:05:17
先日のシンポは、第一部第二部とも、書籍『始まりのハイデガー』を、大御所が批判的に論評するという形になったのだが、まず第一部の神崎繁先生は、古典哲学からハイデガーのストア派~セム回避の意味を問うていた。bit.ly/1OPs9DD
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posted at 13:58:22
先日の「始まりのハイデガーシンポ」のことについて、考えている。twitter.com/sunamajiri/sta... 初期ハイデガー(つまり『存在と時間』において解消するハイデガー)はセムや旧約への言及を回避するのだが、それはこれによって、新約的な歴史性が完全に払拭出来たのかという論点。
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posted at 13:53:45