大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年10月17日(土)
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posted at xx:xx:xx
言い直すと、超越論が形而上学でないのは、無規定性から規定性に転回してるからで、超越論が無限後退に見えてしまう人は、無規定性に陥っていることになり、超越論的規定から超越論を見ている人は、端的に方法が見えるというだけなんだけどね。@BeTakada @inja650rr
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posted at 02:43:37
2015年10月13日(火)
(続き)それをアリストテレスが霊魂というも、時間を間違ったため、デカルト以後もヘーゲルで関係論に頽落した。それでハイデガーが表明の根源は時間だというのでしょう。ちなみにハイデガーでは真理とは単に同一律のことです。bit.ly/1LIGTPo @inja650rr
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posted at 23:49:17
そのチャットは端的に、構造主義や関係論でたどり着く深層は、まだまだ上辺で、他人が無責任に認識論をしている段階に過ぎず、根源とは、表明する当人の確信する真理のことなんでしょうね。他人がとやかく言えないということですね。(続く)@inja650rr
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posted at 23:47:52
隠者君は、頽落というのもネガティブに捉えるようだね。日常のお喋りが頽落なのはポジティブなことなのよ。そうしたお喋りに引き換え、従来の形而上学、時間を空間的な点として無化するあまり、第一原因の存在証明に陥るような従来の形而上学が、くだらんと言われてるだけだよ。@inja650rr
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posted at 22:58:21
それが点ということなのでしょう。ハイデガーは時間の点性は幻想だと言っているんです。点はゼロだけど、時間は空間的にはゼロではないという。まあ、アリストテレス以来、時間が点時間と規定され、それゆえアリストテレスの形而上学が間違って伝わったという話なわけで。@inja650rr
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posted at 22:51:54
このように、関係論は何も語らない。関係論は規定性に担保された空論なのだ。それに対して、無規定性そのものから、根源の所在に言及することを、本来の語りというのだ。仏教が関係論ゆえに黙し、その沈黙が存在証明を招くのはそのためで、存在論はそうした頽落を気遣うのである。
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posted at 09:34:48
このように、転移によって恣意的に深層を表層に齎す関係論は、仏教の場合のように、無記の規定の所在を確認できない。よって神への信仰に頽落してしまう。それに対して有記である存在論が、神の存在証明とならないのは、根源の所在論そのものとなるからだ。
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posted at 09:14:43
彼らのいう転移が恣意的なのは、文字通りカントが確定した神の視点、根源的直感・第一原因を、生産的構想力と混同するからだろう。しかし、それは恣意的な混同だ。おそらく転移が生産的構想力とならないのは、単に根源的直感を疎外のことである派生的直感と混同しているからなのだろう。
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posted at 09:12:47
精神分析や構造主義、つまり関係論が恣意的に付加するものというのは、神の視点である。関係には規定が必要だが、その関係としての構造を規定する根拠を、第一原因に置くこと。この精神分析のオイディプス的循環は、付加された恣意性である。
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posted at 09:01:40
これは当然、因果律と時間の大差である。原因と結果という両端、つまり第一原因から終末論に到る、コトバの深層や因果律の内部性が解体されてしまい、根源の所在である時間が、直接関係性を規定し、一義的なコトバの発露、おそらくは言挙げを齎す。この宇宙観の違いはあまりにも大きい。
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posted at 08:57:01
この存在論(有記)と、仏教のような無記の違いは極めて大きい。しかし結局同じことを言っている。仏教では五蘊を空に関係づける規定によって黙する無記が語られるのだが、存在証明を退ける存在論(コトバの発露)では、コトバは顕在的であるので、その深層ではなく根源の所在が時間に規定されるのだ。
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posted at 08:53:12
規定と根源の違いは、関係性は規定できるが、根源は規定できないということだ。それが色蘊を空に関係づける縁起という規定が、無記であることの規定になるといったようなことなのだが、存在論=有記が関係論ではないのは、関係の規定ではなく、時間という根源に言及するからに他ならない。
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posted at 08:51:20
昨晩、規定と根源の違いが、関係としての縁起と、無関係としての時間の違いだ、とツイート twitter.com/sunamajiri/sta... したが、その最たるものが深層表層という関係に、コトバを還元する間違いなのだ。
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posted at 08:49:07
構造主義も精神分析もポスト構造主義も、コトバの自然な発露に、何か恣意性を付け加える。それが取り出す深層には、コトバ=存在という自然なコトバの発露がない。精神分析自体が屈折そのものなのだ。コトバは深層的に秘められていると前提する彼らが、猜疑心に囚われているだけなのだろう。
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posted at 08:48:45
日本では、コトバは黙して秘めた心のことで、それを共有することが滞る、というのはフロイトのような神の仲裁では、おそらく解決しない(柄谷が言うように抵抗にあうだけだ)。黙するのは無記だからにすぎないのであって、それを顕在化させることに、本来のコトバの営みがあるわけではないからだ。
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posted at 08:15:55
ハイデガーのお喋りは、いわば親切心 twitter.com/sunamajiri/sta... なのだが、世界で戦後思想となったフロイトに、こうした親切心はなく、彼には神に取って代わるという野望 twitter.com/sunamajiri/sta... しかないのは、明白なのである。
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posted at 08:11:24
ハイデガーというと、頽落や非本来的なお喋りを、単なる疎外に重ね合わせる人を見掛けるが、他人によって抜き差しならぬコトバを共有できるようになること、つまり端的に同意に到ること、それが本来の黙すること、無記ということだが、沈黙とはむしろハイデガーのようにお喋りなのだ。
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posted at 08:03:10
そうした、神による仲裁、神による裁定、というフロイト派の戦後 twitter.com/sunamajiri/sta... も、そろそろ終わろうとしている。そのことで秘め事されてしまったコトバ、偽りだらけになってしまったコトバが、空気を察してぬくぬくと発露しはじめている。それは実に快いことだ。
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posted at 07:52:25
そういう、自然なコトバの生成、つまり存在であることが、自然にツイッターでは現象してしまう。それが他人に見られている、という空気感のことでもあり、秘めたる自分にたどり着ける、ということでもある。それがカップルだと、他人に見られて、自分を偽らなくなる、というのが神話的なレベルだ。
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posted at 07:40:23
以前、中嶋先生が、法律のいう明文が、コトバを秘める日本人には文化的に馴染まないことを話題 twitter.com/sunamajiri/sta... にしていたが、コトバというのは契約のコトバがそうであるように、心に秘めることが出来ず、思わず顕在化することなのだ。
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posted at 07:38:04
それは、なにか秘めたるものを前提としたコミュニケーションということでも、同調圧力を前提とした空気感でもない。だから精神分析が取り出すようなコトバでもない。もっとコトバそのものが必然的にあるようなこと。それがハイデガーの主題だし、それがツイッターにはあるのだ。
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posted at 07:31:11
最近の私のツイッター利用は、ハイデガーを読むためにあるようなものだが、それもツイッターだから自然に読めてしまうところがある。ハイデガーの存在論とは、コトバが自然に生まれることだが、それがツイッターにはあるからだろう。精神分析のカウンセリングや、学術論文にはそれがない。
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posted at 07:28:46
2015年10月12日(月)
戦後ハイデガー憎悪が高まったが、ハイデガーなんて他愛ないのよ。フロイト悪党だぞ。一見、日本の精神医学が現存在分析から、アメリカ的精神分析に移行して、DSM的になったというけど、あれも悪徳商法だしね。@virusyana ココロの治療と称してどんどん悪化させたという。今もそうだ!!
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posted at 20:00:56
ハイデガーのテクストでは、点性は幾何学的交点という眼前性ではなく、時間という問いの一点性だ、無記が実存的でないのは存在論できるからだ、ということにすぎないのだけれど。そのどの場所にいるかは、そこを基準にするべき。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada
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posted at 19:22:15
逆に今私が来ている所は、存在論は存在証明の対立概念 twitter.com/sunamajiri/sta... なのだから、関係や構造では存在証明に逆行する眼前性となり実存的ではないという場所。まあそういった場所は、ハイデガーのテクストに即したほうが正確無比なんだけどね。@BeTakada
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posted at 19:18:12
それ重要。関係は縁起だが、縁起では無記の規定(不文律)になり眼前的だが、規定に対する根源である時間は、言挙げ=存在論を語らせるからだ。おそらく規定と根源は対立的なのだ。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada という所にいて
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posted at 19:10:37
日本で仏教が檀家仏教に頽落したのも、反本地垂迹、釈迦の律を隠蔽して、支配のために仏教が歪められたからでしょうね。だから何よりも、律=法がない。twitter.com/sunamajiri/sta... @Hachi_Astroboy 葬式仏教
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posted at 17:34:32
カントが明確化させたのように、人は神になれないからね。だから後一歩なのです。しかし、ギリシャに囚われるな、と東洋にあと一歩までコトバを単純化させたハイデガーを誤解すると、その奈落が待ってるのです。単なる規約であるコトバに動揺するからなんですけどね。@inja650rr
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posted at 17:30:57
そのとおりです。根底にいけばすぐに東西などなくなる。そういう上辺から深層というのが重要で、デカルトではまだ中世西欧の問題に囚れている。ハイデガーはギリシャに囚われるなというが、それは東洋に囚われるな、ということへあと一歩です。@inja650rr 西洋と東洋どちらが優れているかは
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posted at 16:59:29
嫌ってるというより回心したんでしょう。かつて座学は確かに被支配だったが、今や座学は虚無から空に昇華したからでしょう。@Hachi_Astroboy 仏教を嫌ってるのは存じてますが、仏教は座学ではなく宗教ですよ。解脱を求めようとする事自体が解脱に囚われているというのは指摘のある所。
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posted at 16:55:21
自然科学的秩序(物理化学法則)と社会科学的秩序(法、道徳、倫理)を混同してはなるまい。前者は(おそらく)人間の意思とは無関係に存在し、人間はそれを変えることはできないが、社会科学的秩序は人間の意思による合意に基づくもので、不合理があればいつでも変えられるものだ。
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posted at 13:37:24
シュレディンガーはヒンドゥー教を信仰していたかどうかは私にもわかりませんが、ヴェーダ経典に興味を示していたという事は確かな様です。
現時点での私の考えは、西洋と東洋どちらが優れているかは問題にすべきではないという事であります。 twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 12:13:54
仏教を嫌ってるのは存じてますが、仏教は座学ではなく宗教ですよ。解脱を求めようとする事自体が解脱に囚われているというのは指摘のある所。 RT @sunamajiri 自由は仏教徒が思い込むように心の問題ではない、という格律は、おそらくデカルト的な格律に対する最大の命題になるのだろう
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posted at 08:52:51
ハイデガーは文化としての仏教に言及しているわけではないと思うのだが(むしろ言及しているとすれば原理としての仏教だろう)、文化というカント的な概念を濫用してしまうことで、覆われてしまうことに言及しようとしている。@inja650rr
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posted at 08:01:53
なので、単純に仏教を文化人類学的文化とか、宗教学的文化とか、歴史学的文化というと、ハイデガー的にいえば、覆われてしまうものがある。覆われるというのは静態化するということなので、我々の自由を生み出す原理とはならない、という言及をしていることになる。@inja650rr
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posted at 07:54:52
それを現代の言い方で言うと、ステレオタイプでは、歴史を生み出さない、という風に言い換えてもいいのだろう。そういえば、インドにおいて依然としてカースト制が強固なのも、興味深いのだが。@inja650rr
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posted at 07:53:14
結局これは、被支配対支配という二元構造のことで、自由とは支配のことである、という命題に行き着くのだと思うが、ハイデガーは人類学も歴史学も覆うという。さっきの言い方で言うと静態的で、自由つまり歴史や支配という動性を生成しないからなのだろう。@inja650rr
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posted at 07:51:29
(承前)柄谷行人のトラクリも冒頭でデカルトとは広義の文化人類学者だと宣言して、ハイデガーを批判していくのだ。しかし、それは非西欧人というアイデンティティーや、アーリアに対するセムという陰謀論の原型問題のようになってしまう。内田樹が反知性主義というのもこの問題。@inja650rr
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posted at 07:48:14
広義ではね。現代哲学では狭義の文化人類学のイデオロギー性を批判することを土台にしてるので錯綜的なのだが。というのは、文化人類学というのはステレオタイプの温床になるからなんだけど。この問題は錯綜していて、たとえば~(続く) @inja650rr
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posted at 07:47:00
全くそのとおりですね。だからこそ仏教用語に孕まれた特有の問題を度外視しては、日本の権力問題というのは、おそらく語ることすらできないのでしょう。@inja650rr ~さらにその教えが日本の権力者に要請され180度転回し、
はたまた仏教徒の力が強まると末法思想によりさらに180~
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posted at 07:30:20
@sunamajiri はい!権力者が宗教を利用しているようにみえます。
御釈迦様の自由思想は大乗仏教で中国に伝来した際に180度転回し
さらにその教えが日本の権力者に要請され180度転回し、
はたまた仏教徒の力が強まると末法思想によりさらに180ってな具合だと思います
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posted at 07:26:28
そうそう。とにかくインドほどカーストな土壌はないからね。結局のところ、さっきの心の自由が奴隷 twitter.com/sunamajiri/sta... というのも、その婆羅門の問題だからねー。逆説すると、それこそ支配者が利用したがるよね。@inja650rr
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posted at 07:22:17
まあ、それは術語としての転回VS転倒というよりは、本地垂迹に対する反本地垂迹という日本の仏教受容独特のものがありそうですよね。twitter.com/sunamajiri/sta... だから日本では仏教が形而上学になってしまったというのはたしかにありそうですね。@inja650rr
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posted at 07:03:51
ハイデガーでは存在論とは、単に言明に齎すことで、神の存在証明の反対概念だが、一方、言語論的転回というのも、コトバはモノ(あるいは存在証明)ではなく、単に規約(社会的な決まり事)だという程度のことでしょう。これは却って、日本人の素朴な感覚に馴染みやすい。@inja650rr
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posted at 06:19:04
そうそう、結局これを平たく言い直せば、受動であるよりは能動、あるいは発動であるということなんですよね。形式的な自由では、この發動に至らない。だから自由は形式ではなく実存的な發動だ、という。まあ言ってみればコトバ遊びであるのですけどね。あるいは言語論的転回。@inja650rr
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posted at 06:05:28
@sunamajiri 人間の実存という心の中から外へと湧き上がる「動」こそが本来的な自由というものだと思います。
そしてもし各々に心に動きが無ければ、形式的に自由が与えられても人は迷い、心は思い込みというものに乗っ取られ社会の傀儡と化してしまう物だと思います。
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posted at 06:02:44
心のなかの自由も動的であるはずなのです。まとめに注記したが、カントの平和というのは、大地は無限で開拓者は無限の富を神から約束されているという信仰を語った経験論を、自由の精神としたアメリカの形而上学(思い込み)を批判する概念であり、思い込みが大敵なのです。@inja650rr
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posted at 05:52:10
ツイートまとめ(^-^)/ 心のなかの自由では奴隷ということだ、というドイツ哲学のデカルト批判。それがドイツで音楽を発展させたこと。
www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p...
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posted at 05:16:32
現代においては快楽原則に対する現実原則といった、フロイト~ラカン的なヘーゲル解釈が台頭してくるのも、このためなのだろう。心には自由はないが、現実には自由がある。しかしそれを規定しているのはヘーゲルではない。だからこそラカニアンでは限界があるのだ。
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posted at 05:06:31
霊魂なるモノ(実際にはコトバの根源規定)が動的(時間的)であるために、自由というコトがうまれている、という単純なコトバの意味が、ここで確認されているのだ。したがって、心や主観に自由があるという格律の解釈は、要請と通用問題からは、単なる誤謬として退けられることになるのだろう。
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posted at 05:05:07
自由な精神という言い方では静態的で、もっとも不自由ということなのだ。動的になることができること、おそらくカントの言い方では動力学的になることができるもの、つまり霊魂こそが最も自由なのだ。ハイデガーのいうとおり、霊魂とは動態的自由という意味だ。
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posted at 05:01:25
ハイデガー哲学が、静態を非本来的とし、動態、つまり動詞である述部を純粋化し、その動態であることに、アリストテレス以来の霊魂という根源規定を重ねあわせるのはそのためだ。つまり動態こそ霊魂なのだ。それは心で思い込むような静的なものではない。
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posted at 04:56:40
言い換えると、自由というのは端的に心のなかに静態化してしまう精神を、動態に解き放つ行為そのものにあるのだ。だから、自由は思い込みであることが出来ない。特に音楽では、思い込みだけでは、何一つ音楽にならないのだ。音楽というのは自由そのものを体現する行為なのだ。
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posted at 04:54:02
おそらく、心のなかの自由では、現実の動態としての自由にならない。それを体現するのが音楽家なのだ。デカルトの格律に対して、心のなかには何も自由はない、という格律を打ち立てたドイツ哲学から、近代の音楽が発展したのを忘れてはならない。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 04:52:21
さて、お分かりのように、自由というのも静態ではない。音楽家が一番よく知っているのだが、それを言葉にすれば魂は動態の中に宿っているのだ。つまり、自由とは動態であることなのだ。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 04:49:36
自由は仏教徒が思い込むように心の問題ではない、という格律は、おそらくデカルト的な格律に対する最大の命題になるのだろう。心や精神の自由では自由ではない。twitter.com/sekilalazowie/... @utubyou009 pic.twitter.com/cEwGXtLBad
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posted at 04:23:43
自由は心や精神の自由なのか、心や精神の自由では奴隷制なのか、という単純な問題なのだが、これが根が深いのだ。仏教徒はえてして全て心のなかにある、というのだが、それが現代では奴隷制という意味に匹敵しているからなのだろう。@utubyou009
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posted at 04:19:40
Anti-buddist氏は、カントを勉強し直すために、去年ツイッターをやめてしまったのだが、単純化すれば、精神の自由をいう仏教徒は、アメリカの奴隷制の餌食にされかねない、そういうことを一貫して言っていた。twitter.com/sunamajiri/sta... @utubyou009
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posted at 04:16:35
「精神の自由、自由という思い込みこそ、奴隷になることだ」というのは、デカルトのように格律を語らないドイツ哲学の格律のようなものなのだろう。それを去年anti-buddistさんが、経験論と仏教こそ、現代に蘇った奴隷制だと非難する格律にしていたのだ。@utubyou009
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posted at 04:10:30
随分古いのをRTいただいたけど、まさにそれ。精神の自由、自由と思い込むことは、実は奴隷になることだ、というドイツ哲学の格律のようなものかもしれない。twitter.com/sunamajiri/sta... @utubyou009 pic.twitter.com/I9eJWYjCNn
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posted at 04:03:30