大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年06月08日(月)
神ではないという言表のようですよ。たとえば、西欧に固有の文化の問題というより、純粋直感=時間をもたない人はいない、ということでしょう。@kikuchi_8 「時間は一性」というのは「時間は全てを包括する実体=ト・ヘンだ」つまり「時間は神だ」、という言表でしょうか?
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posted at 01:52:48
しかしながら、時間が自己の非現前性で、意識という恒常性が現前するはずがない、というのがハイデガーの超越論的規定の仕方だとすると、言明の通用性というコギトの観念要請、つまり神の文化の問題にすぐに還元されてしまうが、そうした文化的な解釈は元の木阿弥なんでしょう。@kikuchi_8
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posted at 13:07:48
それは言い換えれば、単純に自然を変化として捉える自己の時間性のことで、恒常的な意識、つまりカントのように端的に、元来の魂の不滅のような論争問題、そうした恒常性の問題からの決定的な決裂であるのは、言うまでもないことなんでしょう。@kikuchi_8
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posted at 13:10:58
そういった統一性がおそらく一性ということでもありそうだが、その統一性の許で言明を企てるなら、時間は非現前的だというハイデガーの超越論の規定の仕方になるのは無理もない。意識が恒常や不滅であるわけがないのだから、それはいわば時間を自然に帰すことでもあるのだろう。@kikuchi_8
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posted at 13:14:17
ここで、物自体を忘れ、「自然の直感」なんてロマンチックで曖昧な言い方に「専念」するから、ショーペンハウアーは常に「われを忘れ」て、仏教に一性の某かを求めてしまう。twitter.com/Schopen_bot/st...
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posted at 13:21:17
なるへそ。bit.ly/1Guapw1 バタイユと日本というと、どうしても三島の憂国のリビドーを連想するんだが、憂国のように切腹しなくてもエッチで興奮できることを、日本のラカニアンは求めるのよね。あの興奮が忘れられないという。
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posted at 13:56:52
三島が憂国を銀座のバーのママに読ませたら、ポルノ小説として読まれちゃった、というのが全てなんだが、あれ以上に興奮する道がないという。死を先駆するからリビドーもマックスになるという憂国のテーゼは、死を先駆しなきゃ不感症になる、という日本のテーゼなのよね。
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posted at 13:58:39
つまり、死を先駆できず不感症になるというのは、端的にラカンでもバタイユでもフロイディアンでもなんでもいいが、ハイデガーに帰って読めてないからよね。不感症になるのは、文字通りハイデガーが読めない時なのだ。カントもポルノだがハイデガーはその極意。
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posted at 14:01:07
というのは、三島が天人五衰で構想では輪廻を、実作では輪廻の不可能性をサーガとして自決した点 twitter.com/sunamajiri/sta... で日本文学はフリーズしただけだが、もし輪廻があるなら最高の性感を得るのが人生の目標。しかし輪廻があるとすると不感症になるのだ。
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posted at 14:09:00
このカント的な魂の不滅という議論は、言い換えれば、意識が魂のように不滅なら、すぐにまた輪廻してしまい、死を先駆できないから、リビドーは不感症しか得られない、という程度の他愛ない問題。このことが日本では文学としてもっとも鋭く表出するのだ。
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posted at 14:10:13
端的よ、カントは魂の不滅で不感症になる人達を救うポルノ。何が端的かというのは、論争は意識という魂の不滅という問題しかないという点。ちなみに、それを度外視するのを不感症という。twitter.com/sunamajiri/sta... twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 14:31:17
端的端的。三島じゃないが、エッチしたくなっちゃうぐらい端的(^-^)/ twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 14:32:19
日本の近代化で、和魂洋才ではなく端的に西欧化は、大本教を介さないと無理なんでしょうね。戦前は大本教は弾圧されてたのに、戦後レジームからは大本教に政治家ほど戻りたがる。アメリカがカントを度外視した妙な経験論で薄弱だから、和魂の危機なんだろうな(爆)@lakudagoya
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posted at 18:03:00
たぶん、そんなところよ。その日本の諸学の危機は、さっき政治家ほど戦前は弾圧された大本教的なものに日本会議で拘泥するという話題 twitter.com/sunamajiri/sta... が出たけど、ヨーロッパの諸学によって、三島的に端的にリビドーが危機なんでしょう。@sayori27
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posted at 19:21:51
そういうことが、新たに気付きになってしまうような暗さの中にいるのだとすると、だからこそ、カントの派生的直感の分際で根源的直感のつもりになるという、もうほんとにアホらしい悟性しかないことになる。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 20:53:00
2015年06月09日(火)
それは柄谷行人にある唯一一貫した主張です。単純にデカルトにはハイデガーの世界内存在というドイツ語の外、つまり非時間的コギトがあったという主張です。しかし、彼は精神分析、すなわち分析家を神化させる転位に戻っています。bit.ly/1M7i69q @kikuchi_8
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posted at 01:05:47
カントで唯一論争的な霊魂の不滅という問題を、文化論にもちこむ、ということそのものが批判されているのです。先ほどのダヴォース論争でも、カッシーラーを単なる文化論であるとして、ハイデガーは斥けています。@kikuchi_8 「霊魂の問題」の立て方も文化的に相対的な面がある
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posted at 01:40:15
私はキリスト教徒でも仏教徒も断じてないが、これは信仰や陰謀論であるより、文化論や哲学という合理的な問題なのだから、時間が悟性のキリスト教神学固有の文化を全き止揚したというのは、寧ろ信仰を動揺させる問題ではないはずですよ。@kikuchi_8
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posted at 02:50:20
ありませんよ。ハイデガーのカント書と転回を話題にしているだけで、なおかつお分かりのように、私が書き手ではないのだから、時間を規定とする限り、私に実体的な無意識など実在しませんよ。つまり、単に読みを行っているだけです。@kikuchi_8 本当に無意識の前提など無いと言い切れるか
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posted at 03:08:00
それで超越論的規定とは、という話をしているのだけれど、そのことで二人とも、陰謀論を度外視する規定とは、という話題をしてるんだろうね。現象の背後を駆逐する規定とは、ということだが、単純に仏教にはいわば脆弱性がありそうね。@LitoSnowfield 定義がないと話が進まない
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posted at 13:14:18
2015年06月10日(水)
そうね。twitter.com/sunamajiri/sta... しかし、そこが肝心な点なのだ、要約するように試みると~ @LitoSnowfield 疑心暗鬼になってしまっている相手に動揺という言葉を持ち出しては逆効果ですね〜
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posted at 16:41:31
おそらく、それこそハイデガーの説を綜合できればだが、先ほどの点を看過するとメタボレーにならず、一気にドグマの話に転落するということだろう。なのであえて、カントは動揺している、そういうハイデガーには動揺がない、という一点だけを話題にするようにしている。@LitoSnowfield
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posted at 16:43:25
メタボレーなのかドグマなのか。私が気にしているのは、柄谷でも廣松でも西田でも井筒でも誰でもいいんだが、柄谷が指摘するように、なぜ日本人という非ドイツ人には、ハイデガーのようにカントの動揺を明らかにできないのか、そこにはどんなドグマがあるのか、という一点だけ。
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posted at 16:45:56
ハイデガーのカント書による転回、メタボレーというのは、単にドグマをドグマとして完全に露わにし、ドグマからの完全な離脱をすることなのだが、しかしカント書を読めていないと、メタボレーのつもりが一気に単なるドグマタイズになるらしくて、必ず仏教がでてくるのだ。@LitoSnowfield
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posted at 16:48:31
そこで仏教とは何か、という定議論になるのだが、そうではなく、「カントは動揺している、そういうハイデガーに動揺がない」というメタボレーというのは、仏教とは何か、といったような定義の問題を完全にドグマの側に貶めることなのではないか。そう思えているのだ。@LitoSnowfield
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posted at 16:56:54
実際、私達個々人はどちらかというと、ハイデガーのようにメタボレーして日常生活ができていて、日本のようなお布施に頼らない独特の仏教国家では、仏教は単なる葬式仏教で済んでいる。つまり定義の問題を回避する、メタボレーが生活になっているのだ。@LitoSnowfield
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posted at 16:58:46
しかしここで、ハイデガーのカント書によるメタボレー(つまりそれはメタボレーのキャノン=聖典になってるのだが)によらず、日常生活ではメタレベルの私達が、メタボレーを独自に定義しようとすると、絶対的にドグマタイズされるらしいのだ。そこが興味深い。@LitoSnowfield
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posted at 17:00:54
重要なのは、ドグマからメタボレーするためには、誰かがドグマを犠牲的にマックスで語ることが要請される。ハイデガーの場合、おそらくカント書が転回の明確な内的必然性で、それがハイデガー受容の根本問題。だから内的必然性と動揺(可能性)が二項対立なのだ。@LitoSnowfield
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posted at 17:06:39
ハイデガー受容史では、内的必然性の立証ができない、ということだけが唯一の論点になっていて、事実、カント書とその前史であるカント講義書を度外視すると、カントではなくハイデガーに動揺があることになってしまう。そのように受容されてきたのだ。@LitoSnowfield
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posted at 17:09:57
私は読むこととは何か、ということだけを厳密に考えているのだが、このカントに動揺があるのか、ハイデガーに動揺があるのか、というドグマの問題で、読みが明らかになる。@LitoSnowfield
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posted at 17:10:39
カント書で語られるのは、時間というドグマの超越論化、つまり超越論の時間規定化というメタボレーの内的必然性の論証の問題だが、そのことで彼以外に誰も規定を語ることを免れたのだ。それで私達は日常的にメタレベルで生活していても、何の違和感もないのだよ。@LitoSnowfield
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posted at 17:13:22
動揺という用語は、ハイデガーのカント講義書に多用されるハイデガーの気分論のジャーゴン。ちなみに、柄谷行人は、それを精神分析の抵抗という語彙で代補することで、ハイデガーの問題を克服できると考えているのだが、たぶんできない。@LitoSnowfield
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posted at 17:20:35
それよりも明晰に、丸山文隆が、カント講義書とカント書の決定的な亀裂を言い当てている。たとえば、カント講義書では、カントのドグマが淡々と列挙され、それがその都度、カントの動揺という名称で呼称される。そういうメタボレーの途上性なのだが、たとえば~、@LitoSnowfield
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posted at 17:23:26
~たとえば、このカント講義書のページの辺になってくると、カントのドグマは動揺というメタボレー語で呼称されていない。それはなぜか、時間の規定性そのもの、つまりカント書のメタボレーを先取りしているからなのだ。@LitoSnowfield pic.twitter.com/cReygjV8eM
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posted at 17:25:48
こうしたメタボレー(端的にカントを〈動揺〉と呼称することが、メタボレーという名前の内実だが)を、柄谷行人のトランスクリティークのように、精神分析の〈抵抗〉に言い換えることはできない。精神分析の転位はメタボレーではないという証明なのだが。@LitoSnowfield
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posted at 17:28:55
精神分析には転位があるが、ハイデガーのメタボレーや気分論には転位がない。被投性テーゼでは宇宙の外部視点がない。世界内存在の外部に柄谷行人が超越論とするような、神の視点がない。そういうことが重要なのだ。それ以外はドグマであることに変わりがない。@LitoSnowfield
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posted at 17:30:20
これは文字通り、このぐらい下らないQED twitter.com/alfalfafafa/st... なのだが、それは精神分析の幾何学などというものが、いかにくだらないか、言い換えると、柄谷の精神分析が幾何学的に実体論だ、というQEDだからだろう。@LitoSnowfield
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posted at 17:44:46
私は廣松は度外視しているはずだが、柄谷に宿っているそうしたもの、何らかな物象化論の幾何学のようなもの、それはハイデガーが行った、今語られたようなカントのメタボレーに根本的に対立するものだ、という霊感がある。ただそれだけの話題だ。@LitoSnowfield
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posted at 17:59:10
このように、「動揺」というのは私の語彙でないばかりか、丸山文隆が指摘するカント講義書とカント書の間の亀裂、それを明確化するハイデガーのジャーゴンなのだ。単純に、動揺=ドグマ、メタボレー=動揺を幾何学した上で、幾何学に戻らないこと、といったらよいか。@LitoSnowfield
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posted at 18:01:00
一般論だが、読めていないものに対して、ジャーゴンを単語的に抜き取るというのは、私が極力しないことなのだ。文は単語=名詞ではない。そのように名詞と受け取られかねない用法はしない、という時間の規定を破るとき、何か誤謬が起きるからなのだが。@LitoSnowfield
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posted at 18:03:52
最近、LINEではトラウマとリビドーの連環の話題、ツイッターではハイデガーのカント書という供犠の話に、引き裂かれてるのだが、やはり過去には戻れないこと、という超越論性、つまり時間規定であるときに、リビドーの話ばかりさせられている気がしてきた。
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posted at 18:30:00