大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年07月02日(水)
そうそう、松岡さんの言い方を借りると、取るに足らない対象では存在論なんかしない。美少女が相手だから存在論になり、その存在を失ったから、存在論が未完化したのだ。となる。うさたんの言い方をすると、美少女以外存在価値がないww(^-^)/ @LitoSnowfield
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posted at 14:09:09
存在の問いを放棄する未完や転回も、美少女アーレントを失った悲恋物語だから、オントロギッシュ(存在論的)だ、という話で、みょうに納得させられる書評だった。(^-^)/ 1000ya.isis.ne.jp/0916.html @LitoSnowfield
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posted at 13:50:18
2014年07月01日(火)
明治以来の独語訳出国語のせいなのか、現実と観念という語義が、反転しちゃうのかしらね、実在論だとおもうのかね、世界の中で日本だけ?(^-^)/ twitter.com/brighthelmer/s... 「その時々の支配権力が選択する方向が『現実的』、これに反対する反対派の方向は『観念的』
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posted at 23:26:20
まあ、アーレントとの熱愛がオントロギッシュにしたわけだから、存在と時間を未完にしちゃったのも、アーレントを忘れたかったから、なんて読みをするのが、意外と真っ当なんだろうなww (^-^)/ 1000ya.isis.ne.jp/0916.html
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posted at 22:41:19
松岡さんの「存在と時間」の書評も初めて読んだ。存在の問いなんて恋愛でなければ根源的にならないが、美少女アーレントとの熱愛の真っ只中で執筆し、世界劇場の役者に過ぎないオンティッシュから裸一貫のオントロギッシュへの通路を得た、というの爆笑。1000ya.isis.ne.jp/0916.html
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posted at 22:39:23
それにしても、WIKIの存在と時間の項目、はじめてみたがよく書くな。誰が共同的に書いてるんだ?とつい気になるが、この注釈bit.ly/1rbVmy7 と、たとえばbit.ly/1lvveGx の冒頭のように、各項目が問いの要約になっているのがよい。
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posted at 22:15:07
続)~65p 空間が形式であるのは時間がより「内感の所与に制限」(64p)されるからだが、カントにおいては、直感と表象が未決定であり、「存在論的機能である時間そのもの」が言及されたかは、(第二版の?)「感性論の削除」では解明されない。www.evernote.com/shard/s157/sh/...
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posted at 08:11:47
続)「 自ら創造したのではない人間」が、(有限な対象の知覚を)「前もって超出」するのは、カントによれば空間と時間が(知覚にとって)対象=現象ではないからだが、これをハイデガーは「端的に無ではない」こと、と二回繰り返す。
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posted at 07:22:59
【精読メモ】同56ー61p 演繹論の直前の空間と時間の先験性(空間と時間は対象=現象ではない)の件だが、ハイデガーはカントの言い方に拘らず「内的な動きを追う」と、それ(先験的な空間と時間)を「端的に無ではない」とする。www.evernote.com/shard/s157/sh/...
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posted at 07:12:57
つまり、認識を経験論のように有限とすると、そもそも認識という事態があり得ない。有限な人間が有限な対象認識が可能であるのは、いわば認識されるような有限性があるだけではないからだ、認識論は従って経験論であるより存在論だ、云々。
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posted at 04:46:18
いわば、「存在者=事物の受容に依存している有限な存在者=人間が、あらゆる受容に先立って、しかも存在者の創造者であることなしに、その存在者を」(52p)認識したら、それは認識ではないから、ということなんだが。
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posted at 04:40:31
ハイデガーの範疇語が明らかにするという問題があるが、認識の有限性を欠陥(前の節)のように受け止めず、有限性を認めれば、直ちに、それが有限的な経験によってなされているのではない、つまり事物の「受容であるより創造」だ、という語彙が使われている。
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posted at 04:35:13
導出というより、ハイデガーの範疇語では、カント用語の投企に対して、カントを認識論から存在論に被投する、のようになるんだろうな。経験論が経験に先立つ存在論と被投されると、存在論が存在を投企する、でよいのかな?
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posted at 04:26:39
【精読メモ】ハイデガー「カントと形而上学の問題」52-54p 認識の有限性への制限が却って、経験に先立つ創造(有限な認識=経験論に先立つ創造的直感=存在論)により綜合された存在的認識を導く。www.evernote.com/shard/s157/sh/...
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posted at 04:15:39
2014年06月30日(月)
とはいえ、何かをキッカケに、アドリブのように話をまとめたりします。それこそコギトでは現象ばかりですが、構想力のように纏める瞬間が訪れることが稀にあります。その稀を狙ってフォローしていただくのは正解です。国語も音楽も教育の点では同じ瞬間性を問題視してますので。@Nuebsburg
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posted at 23:53:34
その点で、どうやら私の最近の雑談の通奏低音は、ハイデガーのカント書、統覚に対する構想力の問題twitter.com/sunamajiri/sta... 、それによる瞬間やカイロスを関心事にしています。音楽的実践でも、こういうアンチロマンが実践的だからなんですが・・・。@Nuebsburg
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posted at 23:48:05
たとえば、最近はハイデガーやカントの新訳ブームのようで、その話題をキッカケtwitter.com/sunamajiri/sta... にツイートしますが、ハイデガーの言い方では、空話や頽落や疎外と呼ばれる雑談の方に、むしろ「現れ」ますので笑(^-^)/ @Nuebsburg
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posted at 23:41:57
フォローどうも。私も現代文の解法の観点から、日本に特有の仏教的な万能感を、近代以後の独語経由の哲学用語の訳出の混乱として命題化しますが、最近では国語の話題が減っていて、そのフォロー数で私をフォローするとかなり失望するのではと心配です。 (^-^)/ @Nuebsburg
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posted at 23:23:09
そこに〈知覚〉という伝統的な範疇語を持ってくるから、「意識魂」なんていわなきゃならなくなるだけじゃないの? twitter.com/R_Steiner_jp/s...
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posted at 09:49:43
2014年06月29日(日)
何でもいいから、ロック~ヒュームに対するカントの批判(構想力と呼ぼうが、統覚=コギトと呼ぼうが)に触れてみればいい。アメリカの言いなりになり、仏教的な日本語が、物自体どころか現象からも、隔絶されているのが、すぐに言い当てられる。 pic.twitter.com/qaWKYgXcHv
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posted at 20:03:31
西欧より日本の仏教の方が深遠だという人に限って、アメリカの奴隷論者のようになるのが面白いのだが知性がなさすぎる。日本人には仏教の方がアリストテレスより実体論だ、と思えるのだとしても、禅宗と浄土真宗の相克bit.ly/1iQFPky がある程度で、何も克服されない。
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posted at 19:45:24
自己責任論の奴隷になりやすい日本の親和性も、アメリカの建国者に継承されたヒュームの因果性を、構想力から批判したカントを、古典的な仏教の空論で言語化することを阻まれる日本の国語の問題。twitter.com/Nuebsburg/stat... pic.twitter.com/O5RMTDiOOa
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posted at 19:31:21
2014年06月28日(土)
twitter.com/miyokohama/sta... うーん、マルクス者も、ドイツ語哲学twitter.com/hannaharendtbo... から仏語で一息つくのだろうが、メイヤスーtwitter.com/Meillassoux_bot だってカトリックの話しかしてないように見えるんだが。
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posted at 00:29:16
twitter.com/tagamimp/statu... うーん、おフランス哲学twitter.com/sunamajiri/sta... は、ハイデガーのカント批判に至るドイツ語哲学twitter.com/sunamajiri/sta... を忌み嫌ってる方言のようにしか見えず、読んでて楽しいとも思えん。
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posted at 00:03:37
2014年06月27日(金)
このように、彼らの言う(名付ける)「知識」とは、ラテン語のようにコギトの有限性から、物自体を現象と把捉する自己意識や統覚のことではなく、物自体を存在として産出するような神(の構想力)のことだ、とハイデガーは「存在と時間」の補完で、カント純粋理性批判を論じているらしい。
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posted at 05:49:26
ハイデガーは「形而上学入門」で、ラテン語化された際に失われた存在を強調するのだが、コギトにとってはオカルトにすぎないことが、構想力にとっては物自体=存在のことになる。つまりラテン語からは認識は統覚という有限性に陥るが、ハイデガーにとって認識は、神による物自体の認識のことなのだ。
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posted at 04:49:50
このラテン語ではオカルトと呼ばれることは、神から見ると物自体だが、有限な人間がそれを認識しようとすると現象としてしか把捉できない、ということにすぎない。ハイデガーのカント書では、カントが第二版で統覚=コギトとすることに対して、第一版の構想力に遡行し、この神の視点を「知識」化する。
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posted at 04:42:15
ミヒャエル・エンデがラテン語ではオカルトという名前だtwitter.com/Michael_Ende_j... とする「現象の背後」だが、ハイデガーのカント書では、無限の認識、つまり神による物自体の認識、という告示的解釈学が遂行される。 pic.twitter.com/wnXWGVkgBM
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posted at 04:29:24
この世界の現象の背後にある精神的なもの、霊魂的なものは、五感を通じての私たちの直接の知覚からは隠れています。”隠れている”とはしかし、ラテン語の「オカルト」の訳語にすぎません。 『エンデのメモ箱』
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posted at 04:14:42