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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2016年01月12日(火)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月12日

そりゃそうよ。彼らにとっては、抵抗やオイディプスといった無意識だが、私たちは虚心ですからね。ハイデガーは弁証論をせずに、形式的告示から根拠付けに向かい、図式性に出会っているが、虚心の我々には図式性は言挙げするほどのこともないのでしょう。@BeTakada

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posted at 00:28:33

フーコー&バタイユ&デリダ bot @foucoubotbatail

16年1月12日

記述のもつの二重の性格がまさに、保留や異論を引き起こしているように思われます。

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posted at 05:40:29

2016年01月13日(水)

Chris @Chris9620

16年1月13日

@genkokuai ご興味がありそうなのでご紹介しておきますね www.kosyo-doris.com

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posted at 00:12:50

2016年01月19日(火)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月19日

これを言い直すと、リアリティーを反省すればするほど非現実化し、つまり現存在ではなくなってしまう。そういうデカルト批判が、ハイデガーにはあるということです。西欧哲学はデカルト的コギトに至って隠蔽性がマックスになった。その反作用で開示性もマックスになるという。@BeTakada

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posted at 17:21:57

2016年01月20日(水)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月20日

GA33面白そうね。アリストテレス形而上学1047a24-26のこの解釈「現実的に有能であるのは、そのものがそれへの能力を持っていると語られる、その能力(語り)の中に己を置くやいなや、それにとってはもはや実行不可能なものが全くないようなものである」@BeTakada

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posted at 13:16:29

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月20日

しかし、要は語り方の問題で、そこでは2つの仕方があるだけ。コギトを実在のように語れば無能(論理的可能性)が反省的に後付で語られるが、現存在として語れば、可能態は有能という、ありのままで語られる。後者のほうが芸術的語り方だ、という後期の問題なのだろう。@BeTakada

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posted at 13:48:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月20日

ハイデガーが「これによって、古代における最大の哲学的認識が語り出されているのに、この認識が今日に至るまで哲学で等閑視されている」というGA33,デュナミスは論理的可能性ではなく有能と語る図式にあるという、カント書の完成の物語らしいですね。入手したいが予算が。@BeTakada

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posted at 19:50:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月20日

ハイデガーがアリストテレスの最も困難な箇所という形而上学1047a24-26を有力とする話は面白いね。外力ではなく有力という図式を語る、それが(語りの)能力としての可能性だという。患者の治癒力が医者の医術力で、学問の力能はそう語られる、という話。@BeTakada

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posted at 19:51:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月20日

いわば、デュナミス(可能態)である自己を、コギトのように反省対象として、論理的可能性にすり替えれば、それは欠如態、あるいは端的な無能であり、そもそも可能態は、コギトより「論理的」に先行する自己の有能のことである、という根源図式が具体的に語られているようだ。@BeTakada

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posted at 19:52:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月20日

デュナミス論は、後期の芸術論、語り方の問題の筈だが、GA33のデュナミス論は、カント書の根源図式の完成版のように見える。タカ基地さんが今お読みだが、この論文から推測した。千葉恵「アリストテレスにおける力と運動」bit.ly/1ltDhuH @BeTakada

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posted at 19:54:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月20日

しかし要は語り方の問題で、そこでは2つの仕方があるだけ。コギトを実在(現実存在)のように語れば無能(論理的可能性)が反省的に後付で語られるが、現存在として語れば、可能態は有能という、ありのままで語られる。後者のほうが芸術的語り方だ、という後期の問題なのだろう。@BeTakada

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posted at 19:55:26

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月20日

ちなみに、千葉恵「アリストテレスにおける力と運動」bit.ly/1ltDhuH の中の、メタとはギリシャ語では時系列の先後という語義だ、というのは参考になるはず。@BeTakada pic.twitter.com/raF2Vd3S9g

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posted at 20:01:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月20日

タカ基地さんはGA33を貪り読んでるようだが、まだ未入手だ。いわばポストカント書の図式、無能と有能がそこにあるのだろう。私は、このハイデガー読本の要約だけで、この有能という図式性を見立てたよ。@BeTakada pic.twitter.com/lTxwuHpWnj

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posted at 20:03:36

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月20日

医学が患者の治癒力という、内的な有力を引き出す、学的な有力であるように、外力ではなく有力と語る、語りの能力が学問においては要請されているにもかかわらず、デカルト以後、それが歪んでいる、という語りの根源図式性が問われているのだろう。無能な語り、反省は要らない。@BeTakada

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posted at 20:06:01

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月20日

カントが、ニュートン力学~ライプニッツ動力学に対する批判哲学、という図式性は菊池健三の『カントと動力学の問題』が鮮やかだが、しかしそれでもまだ生産的構想力、語りが学を脱外力化し現勢するまでは、カントでは潜勢する。ハイデガーの語りの現勢力は怖ろしいほどだ。@BeTakada

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posted at 20:21:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月20日

よって、外力を反省するのを語りとする、デカルト的な二元論や潜勢というものは、語りの無能であり、本来の語り方(方法的懐疑)は、アリストテレスが外力としてしまうようなところを、すべて語りの内力=力能として現勢する、というハイデガーの語りだけが、語りとしてあるのだ。@BeTakada

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posted at 20:31:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月20日

図式性は、受動と能動の相即、あるいは自発性に対するカント書の純粋自己触発のことで、アリストテレスでは力(能力)のことだが、しかしそれが外力と内力とに分断させられたので、それを橋梁する語りの力能だけが、図式性として存する、というのは非常に分かりやすいね。@BeTakada

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posted at 20:36:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月20日

これは、いわゆる能力主義、外力を内力と語ること、とも根源的に異なる。アリストテレス形而上学のように、医学が患者の内的治癒力を触発する有力であるように、学問は内発的であって、外力のように後から能力を付け足すものではない。それは学に限られたものでも、もちろんない。@BeTakada

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posted at 20:45:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月20日

こうしたアリストテレス~ハイデガー的なデカルト批判は、日本人が陥る誤謬、学問は外から取ってつける技能だ、というような誤謬性に釘を刺すよね。そのように学問を語ることは、人生の無駄遣いもいいところだ、というように。@BeTakada

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posted at 20:46:11

2016年01月25日(月)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月25日

このように、ハイデガー以後、哲学は文芸批評に明確に転回したのですよ。「語りの中にいれば有力だ」とは、この図式です。無論、語らないのなら、別に無力でもいいのだが、語るのなら有力を前提にしなければ努力させてしまう。そういう余剰を葬るための語りの学=ロゴスでしょう。@BeTakada

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posted at 21:28:37

2016年01月26日(火)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月26日

さながら、日本だと女はビッチではなく、良妻賢母がデフォだからか、女に機械人間にされる男のSFロマンになり、リアルには陰謀論とかオカルトばかり話題にするのだが、ビッチがデフォのアメリカだと、女が世界大戦の引き金になるという、いわばSFのメタがいとも簡単に物語られるという(爆)。

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posted at 00:47:54

2016年01月29日(金)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月29日

ハイデガーが言いたいのは、ロゴスを論理と誤解した近代人と異なり、そもそもフォアゾクラティカーにおいては、それは非論理的解釈を含む語りという当為のことであり解釈のことだが、そもそも語らないのであれば「被解釈性」も生じない、といったようなことなのかもしれません。@ecila808

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posted at 04:38:07

2016年01月31日(日)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月31日

つまり、ハイデガーの言う形而上学の根拠づけというのは、今日形而上学と見做されているものは、神学~近代による荒っぽい観念のことで、そうした形而上学は捏造でもあり頽落だ、ということに尽きるわけですが。この謬見を排除するのが、ハイデガーが語るように極めて難しい。@BeTakada

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posted at 03:19:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年1月31日

アリストテレスには偶然性しかないのに、それを形而上学としてしまった曖昧さは、どうでもいいお喋りをさせる。そういう頽落ということが相対化される、つまり転回の後には、そのものが語られるようになるという図式は、ハイデガーのカント書に見取り図があるからね。@BeTakada

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posted at 08:58:23

2016年02月02日(火)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年2月2日

タカ基地さんの斎藤元基ニーチェ論文読解へのメール。bit.ly/1UE0yWX To タカ基地 時間の非概念化と生の自由 @BeTakada

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posted at 08:06:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年2月2日

簡単にいえば、ニーチェは死を語り事とはおもえず、実存と思い悲観的で、キリストは早死した馬鹿だとかいう。それに対してハイデガーはあくまで死は語りの中の問題で、死の自由は不安を打ち消す高揚のことだ、といった対比の構図。bit.ly/1UE0yWX @BeTakada

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posted at 08:07:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年2月2日

要するに、死は語りの全体性であり実存としては死は語りえない。だから語りとして自覚的に語るのでなければ、死という彼岸は語られないのです。語りの中にある時、不可能はない、というハイデガーのGA33でのアリストテレスのディナミス(可能態)解釈もそれでしょう。@BeTakada

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posted at 17:24:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年2月2日

ざっくり言うと、人は何でも範疇化し定義し概念化してしまうが、一度、時間なるものを概念化すると、神学になったり、自殺に追いやられたり、語りに被投的に巻き込れてしまうが、それならば書き手の立場、つまり神になって、それを企投=語ればいいじゃないか、というような。@BeTakada

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posted at 17:51:25

2016年02月03日(水)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年2月3日

そういう動揺がありますよね。被解釈性(先入見)という隠蔽の開示が、実はさらなる隠蔽に聴こえてしまう。存在と時間公刊部の意地悪な語りにはそれがあって、それは被解釈性の開示という基礎存在論から転回しないと開示されない。そういうメタ存在論からの開示が起こっていますね。@BeTakada

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posted at 22:14:58

2016年02月04日(木)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年2月4日

普段、近代哲学で「自我」を規定語とするのはありか? 規定は「時間」で「自我」は相対的な「もの」ではないか、という話題ばかりしてるわけだけど、「右」という語彙を、辞書で定義するのは、もっと規定がないよ。どうしたらいいかわからなくなる。@ru_ahha それ以前の前提から規定しないと

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posted at 19:13:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年2月4日

数が時間か、って二千年以上ずっと同じ話題やってるのよ。でも数より右という言葉の規定の方が、より根源的で難しいという映画ねこれ。ハイデガーも方角と方位とかやるけど。youtu.be/5w3SWA9WbPY @ru_ahha pic.twitter.com/sbDBt0uUwZ

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posted at 19:54:31

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年2月4日

そうそう、すごく素朴よね。私達から見るとまるで無駄話みたい。そういう無駄口を2000年以上ずっとやってるのよ彼ら。挙句に、そういう無駄なお喋りを、哲学とか頽落とか、名前まで工夫してつけてね。笑 @ru_ahha いやあ、でも面白そうな本ですね!( ´ ▽ ` )

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posted at 21:10:15

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