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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2016年05月06日(金)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月6日

ここ(GA24)では、主導的問い、つまり本筋がないのです、カントの否定である「存在はレアールな述語ではない」と、カントの肯定「存在は絶対的措定=知覚である」ともに、主導的問いではない、と言いたいんでしょう。それがGA25以後の超越論的構想力(図式論)の問題です。@estei_st

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posted at 00:24:19

2016年05月07日(土)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月7日

経済が生み出したものは個人主義どころか単なる孤独だろう。なぜそれほど、その自由な往還が途絶えたのだろう。あれほどニーチェのショーペンハウアーからの転向を、ハイデガーが見事にプラトニズムからの脱却として描いてみせたのに、現代の日本は孤独主義ばかりだ。自由はどこにいったんだろう?

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posted at 05:23:28

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月7日

esteiさんが綺麗にまとめた bit.ly/1SVxXL8 も、はやり木田元を再読すると、ショーペンハウアー的な意志(無方向な生命衝動)から、ニーチェが脱却するも、アリストテレス形而上学を十分に書き換えられなかった、というハイデガー的主題であるらしい。

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posted at 14:07:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月7日

ショーペンハウアーは意志といい根拠律といい、物書きに勘違いさせる余計なことをいうのだが(今日でいうセンセーショナリズムのようなもの)、結局、自然という万国共通語に備わる二義性、人為に対する自然と、人為も何も自然に生まれてしまう自然性の内、後者を取り逃がしているのだ。

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posted at 14:13:32

2016年05月09日(月)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月9日

「がある」(事実存在)ではなく、「である」(本質存在)の優位が、プラトン以後に起こった西欧文明の異質さだ、というのがハイデガーが徹底させる哲学批判なのだが、独仏語より洗練した英語でも事実存在は「there is」というしかない。それに対して日本語の語感がどんなに優れていることか。

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posted at 02:09:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月9日

自然は萌え出る事実存在として一者なのであり、超自然的な神が自然を材料に本質存在を制作するのではない。この萌えるということ。ハイデガーによる西欧批判・哲学批判が、この萌えという一点に収斂されていくというのは、ハイデガー解説者としての木田元の天才的な日本語的な感性かも知れない。

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posted at 02:11:37

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月9日

というか、ハイデガーにそれがあるんだけどね。トヘン=自然を一纏めにすると、自然の外部、超自然という視点を生んでしまうが、そうした被制作性を解体しようとしているわけだから。ただそうした「がある」というのは、日本語の語感では「自然だ」というのが木田元の指摘。@pucatavaco

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posted at 04:54:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月9日

木田元ハイデガーは、こっちのスレへ。twitter.com/sunamajiri/sta... @estei twitter.com/estei_st/statu...

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posted at 05:01:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月9日

木田元の書誌的発見というのは、GA24第一部にしか、「である(本質存在)」の「がある(事実存在)」の優位が、カントにまで及ぶ被制作性という西欧文明の病根を指摘した箇所がない、という点なのですよ。だからハイデガーは被制作性を語っていないのです。@estei

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posted at 05:03:54

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月9日

こうした相対化(西欧哲学の相対化)を、木田元も終章で、GA26補論で解説してますね。GA26補論とはメタ存在論への内的必然的転回の宣言(要請)です。それにより、事実存在の優位が、いかに学的企投(本質存在)を超越しているか、ということを言っている。@estei

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posted at 05:11:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月9日

ハイデガーはプラトン以後、フォアゾクラティカーにあった「がある」(事実存在)という驚きが、消えてしまったといっているんです。萌え出る自然のことですね。@estei

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posted at 05:12:51

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月9日

そうした事実存在の本質存在への優位(超越)が、英語に至る欧米語では表明できないが、日本語ではむしろ「がある」(萌え出ること)は自然な表明だ、と木田元が言うのです。@estei

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posted at 05:13:25

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月9日

勘違いする人が出てくるはずなので、注釈すると、ここで非プラトン的非西欧的萌え出る自然(事実存在)というのは、表現すれば確かに日本のアニミズムや、アキバ的な萌え絵になるが、しかし絵にする前から、言語表現として、西欧語にはそれがないが、日本語にはそれがあるということです。@estei

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posted at 05:18:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月9日

木田元の書誌的発見はGA24第一部にしか、被制作性批判がない、以後は自明化しているという点だが、もう一つ木田元が彗眼なのは、時間論は存在論を、本質存在から事実存在に転回するための緩衝材で、本題ではないという点。たしかに時間論はアインシュタインの形而上学で十分なので。@estei

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posted at 05:22:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月9日

私たちはつい、被制作性(被造物性)など、カント以後、あるいは近代以後の哲学では問題にもなっていないという先入観をもってしまうのだが、ハイデガーはじつはそれを明証した史上初の哲学者で、それがあまりに鮮やかだから、誰も気づかない、木田元はそういう指摘の仕方ですね。@estei

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posted at 05:39:19

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月9日

ここで誤読するとだめなのだが、ハイデガーは寧ろ非被造物性を明らかにするために、被造物かどうかという論点に歴史上初めて明証的に切り込めた(超越論的批判ができた)ということですね。それが萌え出る自然であり、日本語では「がある」という自然な事態のことだ、というわけです。@estei

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posted at 06:00:05

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月9日

ところで、木田元的な図式性(被制作性かどうか)で明らかにならないのが、このesteiさんの疑問 bit.ly/1s5OyFK
でしょうかね。ハイデガーが事実存在に対する本質存在の問(存在者とは何か)から被制作性が生まれた、というのですから。@estei

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posted at 06:13:17

2016年05月10日(火)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月10日

それにしても、大雑把に取り纏めないと、見えてこないというのが困ったものだが、基礎存在論はほぼカントの被制作性の批判、そして基礎存在論を断念してそこからの転回は、ニーチェの被制作性への批判だよね。@estei_st bit.ly/1s5OyFK

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posted at 02:45:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月10日

そこ(カントとニーチェの被制作性批判)からはどうやら、esteiさんのいうような魂という規定自体が問われたかどうかも定かではない、という問題が実は潜んでそうだよね。@estei_st bit.ly/1s5OyFK

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posted at 02:49:25

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月10日

はっきりいえば、プラトンとアリストテレスの被制作性を相対化できても、デカルトの二重の我(あるいはカテゴリー誤謬としての我)が、相対化できないという、頭の痛い問題があるのかもしれない。それはどう思います? @estei_st bit.ly/1s5OyFK

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posted at 02:49:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月10日

カテゴリー誤謬は、たとえば twitter.com/sunamajiri/sta...のことで、二重の自我というのは twitter.com/sunamajiri/sta... のことなのだろうが、そこからesteiさんのいうような問題は派生するものなのだろうか? @estei_st

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posted at 02:53:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月10日

木田元的には、ハイデガーの基礎存在論からメタ存在論への転回というのは、カントの被制作性批判では、ニーチェの被制作性、さらにはプラトン~アリストテレスの被制作性を批判するための図式が十分に得られない、というただそういう単線的な問題に見えるのだが。@estei_st

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posted at 02:55:12

estei @estei_st

16年5月10日

@sunamajiri はい。ええとですね、件の備忘の文脈で魂の表象について持ち出したのは何故だったのかよく思い出せなくなっているのですが(笑)、元々は何かを語る人が、その何か(「力」であれば力)を感覚を伴ったイメージとして把持しながら語っているのか否か、

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posted at 13:59:22

estei @estei_st

16年5月10日

@sunamajiri といった疑問だったわけです。このイメージの問題は、生楽器音以前に、人間は音色というものを想像できていたかどうか、という疑問から派生したものです。自分がもう少し西欧哲学の各種概念に詳しければ、例えば本質存在と事実存在との関係に即して展開できるのでしょうが、

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posted at 14:02:08

estei @estei_st

16年5月10日

@sunamajiri 今のところ文脈を連結できる気がしません。ところでデカルトの件ですが、一言でいうとハイデガーの存在論においても、「我」の存在に関する考察は看過されたままになってしまっている、ということでしょうか。

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posted at 14:04:40

estei @estei_st

16年5月10日

@sunamajiri ということであれば、確かにそのような気がします。それで気がついたのですが、主著の段階から、誰でもないまさにこの「わたし」の問題は捨象されていますね。初めから現存在はいわば公共性を前提されている。

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posted at 14:09:13

estei @estei_st

16年5月10日

@sunamajiri たまたま自分は、死の不安~現存在の歴史性あたりの流れを経験上腑に落ちるかたちで読むことが出来たのですが、多くの人は自分自身の死や生活と何の関連があるのだろうか、と感じると思います。話題が逸れましたが…

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posted at 14:12:51

estei @estei_st

16年5月10日

@sunamajiri 訂正です。人間の社会生活上は「事実存在」が優位であるべき…の誤りです。人の価値はその生まれではなく、行為による、という。

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posted at 14:22:00

2016年05月11日(水)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

それが、ハイデガーがカントではニーチェの被制作性すら見破れない、という木田元的ハイデガー観でしょう。たしかに、デカルト以後の公共性では、魂より死が公共的だが、被制作性もまたそこでいう公共性のことだから。@estei_st bit.ly/1TP4STP

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posted at 03:19:19

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

このように、公共性とは被制作性のことであり、ハイデガーはそれをいかに相対化したか。それがデカルト~ハイデガーを被制作性と一括りにする木田元的なハイデガー観で十分なのか、というのが興味ありますね。twitter.com/sunamajiri/sta... @estei_st

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posted at 03:25:42

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

デカルトの我だけが公共的な我と非公共的な我の二重性を具現していて、ハイデガーの基礎存在論の我(現存在)でも、それが生起しないというのは面白いですね。@estei_st 誰でもないまさにこの「わたし」の問題は捨象されていますね。初めから現存在はいわば公共性を前提されている。

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posted at 03:32:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

ハイデガーの基礎存在論は、カントの被制作性の暴露でしかないが、GA26補論で要請した転回後のニーチェへのアプローチ(おそらくメタ存在論)は、全集でもテクストが分裂・錯綜し、明らかにハイデガーが動揺していますよね(全集では完成稿と原稿が併置されている)。@estei_st

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posted at 03:37:51

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

ポストカント書期のカントの被制作性によるアリストテレスの被制作性の暴露のあと、1930年台はハイデガーのニーチェの被制作性の暴露期だが、この頃のテクストが錯綜していて、どこから読み始めてどこから読み終えてよいのかも、正直素人には分からない代物と化している。@estei_st

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posted at 03:40:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

ただ、カントの被制作性によりアリストテレスの被制作性が完全暴露されると、恒常不変、等しい物(同一性)の、永遠(性)の回帰となったり、被制作性の外の同一性の生起を問うている。これがesteiさんのいう、非公共性としての魂の問題でないとは、私には分からない。@estei_st

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posted at 03:42:59

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

逆に言えば、それ(非公共的なデカルトの我)がハイデガーに分かっていたのか、という疑問が残る。その点で単に被制作性暴露という手法では、デカルトの方法に及ばない(デカルトはその暴露をしない)のかもしれない。デカルトの方法を徹底しようとして不徹底化したのか、という問。@estei_st

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posted at 03:57:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

木田元的ハイデガー観では、ハイデガーは被制作性暴露しかしていないことになる。それに対して、デカルトは被制作性暴露をしない。対するハイデガーのデカルトは、延長的我への反省では、アリストテレス的被制作性の魂という根源規定への転倒、実体化だという。この堂々巡り。@estei_st

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posted at 04:04:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

これが木田元的ハイデガー(被制作的暴露)では方法化しない。木田元が何を図式から捨象しているのか。その全体図がハイデガーにはあるか、ということだが、「表象なくして魂(つまり身体的頭脳)は思考しない」というアリストテレス霊魂論の、カント的模索にあるのは疑い得ない。@estei_st

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posted at 04:11:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

確かに、木田元もハイデガーも言いたいように、カントはデカルトの被制作性を統覚とするために、非本来的時間に退却している。それにもかかわらず、デカルトにはない思考する魂の問題を開示しているというのだから、魂=思考が表象による、というesteiさんの思考も中々鋭い。@estei_st

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posted at 04:15:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

もっと大雑把に言うと、カントでは時間が永遠とか絶対時間に退却してしまうが、そのことで逆に、思考する魂の恒常不変、等しい物性、同一性が暴露されてしまっている。ぞれなら時間の本来性の地平からは、被制作性暴露というより、同一性暴露になるという。@estei_st

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posted at 04:20:00

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

もっと大雑把に言うと、カントでは時間が永遠とか絶対時間に退却してしまうが、そのことで逆に、思考する魂の恒常不変、等しい物性、同一性が暴露されてしまっている。それなら時間の本来性の地平からは、被制作性暴露というより、同一性暴露になるという。@estei_st

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posted at 22:59:45

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

つまり、二元論者は魂を身体と定立しないのだが、身体=魂はそれだけでは思考できない。そのことと、本質存在が現実存在を齎すのではない。このことは考えあわされる前に、等根源の規定性だとされている、ないしは、そうしたいのでしょう。@estei_st

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posted at 23:00:39

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

私は二元論=潜勢に対して、現勢と用語化してるのだが、その定立はそういう先措定のことです。身体としての魂は、表象なくしては思考しない。bit.ly/1CdgQ4Z @estei_st pic.twitter.com/uFCqnhk0h0

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posted at 23:07:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

ところで、たまたまTLに流れてきたのだが、こうした現勢という事態、あるいは芸術の生起を、このショーペンハウアー的な意味に解すると、文字通り潜勢としてのヨーロッパ文化になりかねない。彼らは制作してしまう。twitter.com/Schopen_bot/st... @estei_st

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posted at 23:25:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年5月11日

そうであるよりは、twitter.com/ursprungbot/st... というように、ハイデガー的なパースペクティブでしか、現勢という事態としての芸術の生起は、把捉できないということなのでしょう。制作でも被制作でもないという。@estei_st

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posted at 23:26:36

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