大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年06月19日(火)
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じつは読解塾で高校生にも、読解は対比と因果と概説するときに、日本の近代にないものは何?と答えさせるんですが、西欧では人が神になれないという謙虚さを自覚するが、日本には思考の上でそういう神が不在なので、謙虚さというのが常々難しい、それだけ対立項がないのは恐ろしい、と教えるんです。
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posted at 13:38:30
2012年06月17日(日)
数学の授業で、ある関数それ自体の意味を教えるのかしら? 文は数学より単純に割り切れる対立項と理由による言明(因果性=原因への言及)があるだけだよ。割り切れない数すら扱われていない。それが国語。
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posted at 20:44:00
ある物の意味を教えるのが国語の授業じゃないだろう。文脈中の対立項を抽出させて、どの理由で、どのような言明があるかを、理解させればいいだけ。フィクションはもちろん明文法とも嘘とも、論じられることはないはず。文をみなくても常識的に分かるんだが(^-^)/
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posted at 20:39:27
フッサール省察第十七節の超訳。我が思う何かと何かを結びつける綜合こそ意識に固有とする哲学的方法(現象学)では、意識は何を知覚するかという心理主義を脱して、それと平行した想起などの直観も、我が思う何か(志向対象)として記述する綜合=意識の述定となる。
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posted at 19:31:55
フッサール省察第十六節の超訳。何かを思っているという意識の志向性を考えずに、感覚与件から心理学をすると、形態(ゲシュタルト)を先行する全体とする先入観に陥るが、先行するのはあくまでもデカルト的な思っている我であり、それを前提に心的内容も記述しなければならない。
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posted at 18:54:02
スピノザの場合、実体(神)の存在の証明手続きをエチカの定理8までで片付けてしまい(國分のいう証明の破棄)、決定論というより指導(学びでもいい)の自動性で脱懐疑化する道=方法というだけだが、その後の哲学史はそれを(括弧に入れず)決定論と誤読して仏教に直結してしまうということなのか?
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posted at 16:21:54
読解塾に到着。寝ている間に攝津氏から、ネグリ→スピノザの話から、フォイエルバッハのヘーゲルの媒介性(人間は他人の欲望だ)批判、ニーチェの超人(大衆化した読者個人の終わり)から、北朝鮮の主体思想、中国共産党の儒教思想、仏教とスピノザの脱懐疑論まで大量のメンションがきたのでRTした。
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posted at 16:14:48
あー、そーいえば前も仰ってましたね、フルートの特殊性。なるほどー。RT @sunamajiri: じつはフルートの子だけそこが特殊で、クラシックだと頭よすぎるから、ジャズやると馬鹿になれる、と舐めてかかってくるから、なんちゃってジャズをやればいいと思っている(^-^)/ @nea
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posted at 02:43:09
でも案外、難読な現代文は、へんてこなハイデガーの和訳の引用文体だったりするから、欧文に直すとすんなりかも(^-^)/ @mimi_smpc000 国語力全くないかもー 高校時は現代文より漢文が得意だったわw 難しい日本語は英語に訳した方が分かったりするかも、、、なレベルで壊滅的
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posted at 02:15:28
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2012年06月16日(土)
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
随分と僕に関心を持ってくださってるようなんで、逆に聞きたくなっちゃうんだけど、やっぱり親がすごく厳しかったタイプですか? @matsurowanu @lethal_notion しかし、相変わらずイロニーゼロですよね。。。自己を懐疑するという姿勢も多少は必要では。
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posted at 22:09:52
イデーンをデカルト的と反省する省察第十五節長くても超訳。自然的態度では世界存在が前提され、思っていることを問えないが、世界存在をエポケーすれば、先入観を免れて、思っていることを対象に思うこと=記述できる。それは自我分裂ではなく、同じ対象をめぐる自然的ではない超越論的態度だ。
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posted at 20:17:34
感想。スピノザによれば、デカルトは神を対象にするために我を置いている。つまり神を思う故に我あり。このように、デカルトは神しか思っていないから、思う対象を問わずに、思っている我を述定してしまった。フッサールは、我が思っているということより、何を思っているのかを、志向性と呼ぶ。
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posted at 19:15:40
同十四節超訳。思う=意識なら、何を思うのかを問える。デカルトは思う対象を問わずに、思っている我だけを述定した。しかし、我が思われるよりも前から世界が信憑されているように、思っている我より、意識の対象を問うこと。志向性の地平化。
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posted at 19:07:32
フッサール省察第十三節超訳。思っている我を問わないデカルト的省察からの拡張は、我=主観性を研究対象に転換し、そのことで超越論的主観性の間主観性をも対象とでき、独我論を回避できる。
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posted at 19:05:51
2012年06月15日(金)
私はデカルトを許せない。彼はその全哲学の中で、できることなら神なしで済ませたいものだと、きっと思っただろう。しかし、彼は、世界を動き出させるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにはいかなかった。それからさきは、もう神に用がないのだ。§77
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posted at 19:59:23
私は無神論という安易な逃避は誤謬だと思っていて、好き嫌いで言うと嫌いなのだが、マルクスの存在論でさえ、無神論と誤解できないと、なんとなく感じていた。安定志向の制度化のようになった社会主義的なものが、いま非理性的な様相に見えるのも、そういう直感からのように思える。
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posted at 07:50:35
いわゆる17世紀の問題を、一文に纏めれば、先行する実体は欺く神だった、という普遍論争の解決だったのだろう。実体という先行するものは単に欺く神(無際限に我が疑われること)だというのが、彼らの存在証明だ。フッサールも言うようにそれをエポケーできるわけではない。
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posted at 07:46:05
理性を失わせる安定志向や、諸々の社会主義的な国有化が今や妄想に見えてきているように、無神論者の論理操作t.co/BaaF6NWl は、単なる詐術だろう。無限の疑い(欺く悪霊)があってこその問いだ、ということを判断留保できるわけではない。
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posted at 07:39:38
夜半 t.co/YMIi3Ls9 の続き。そもそもデカルトが省察するとおり、我が疑われるのは、欺く神(操やつる神)によってであって、スピノザのような欺かない神は疑いもしない。にも拘らず無神論者は、無際限に操られていると疑うのだ。もちろんそこに理性があるのではない。
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posted at 07:18:59
2012年06月14日(木)
自動化が自由意志と反対なのではなく、自動化する自由がある、とかそんな具合に見える。マインドコントロールのように操作されることと、自動化を同一視することこそ、何らかな論理操作に見える。
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posted at 23:45:49
実際の自動性t.co/YMIi3Ls9 は、中沢新一氏がいうようにt.co/FN0WLL3t イデオロギーというより音楽で、操られて気分を害したら、ただ音楽の自動性がストップする、というだけに思える。それでも操られるのだろうか?
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posted at 23:34:27
そもそも、疑うのは、そういう操る主体を対象にした疑いだ。それ以外に具体的に疑うものがあるわけではない。自動性は疑いによって齎されているものの、それが操られる原因というのは、循環論だ。つまり自動化させるイデオロギーが操られる原因とは思えない。
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posted at 23:15:16
さっきの纏め
t.co/NYWUkR7E では、疑われるから自動性への道が生まれる、という話になっていた。「疑われ」が先にあると、実在性の量で説得するか、無視して自動化するかしかない。つまり、自動性と操る主体は単に別人というだけではないか?
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posted at 23:14:51
ちなみに國分氏が、デカルトの実在性の量(自我)と対置したのが、スピノザの(証明手続きの破棄による指導の)自動性だ。その対局がフッサールの(自動性の)留保と仮定して、本当に自動性は操られて、こういうファシズムの原因になるのだろうか?
t.co/h3mCa60J
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posted at 23:14:26
「神」とよばれるその知性体は、音楽という言葉の構造をこえた構造をとおしてはじめて、ぼくたちの生きる知覚と感情の世界に、巨大なそのすがたの一端を浮上させる。~『バルセロナ、秘数3』
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posted at 19:45:45
ほんとは自動化したほうがいいきもするけど、心こめろとか言われると自動化したくなるしwww (^-^)/ @issop0730 そうでしたか、クラシックは自動化に不向きと、φメモメモ
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posted at 19:36:09
ふつう世間では、疑われたい疑われたいってキョドってる人って、それだけでうざがられるのよねー。それにしても日本語ってすごいね、キョドるの一言で西欧哲学の全容を表現してるものねー(^-^)/
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posted at 17:16:24
スピノザの知性改善論によれば(それによらずとも)、疑いこそ無限連鎖なわけだ。しかし、神が死んだように、じつはこの無限の疑いも、どこかに消えてしまったように見える。だから疑われたくて仕方がない人達、病人が出現してしまったのだろうか?
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posted at 16:56:50
もちろん、この疑う他人を現実にはなかなか得られない、得難い懐疑論者、得難い先行者というのが、実際上問題になる。それで、疑う他人ほしさに、色々な言葉を発する人が出てきってしまう。しかしそれは病理に見える。
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posted at 16:53:41
このように人間であるための証明はw、疑う他人ありき、ということになるのだろう。当たり前だが、アプリオリというか先行するのは「疑う他人で」しかない。疑われているからこそ言語を発して、人間様になる。しかし、そういう偉そうな人間が、個人的には疑いの対象だったりする。(^-^)/
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posted at 16:52:02
デカルトのままでは疑われる我で、デカルト主義者=操られない主体性のようにはなっていかないという話だが、これでは人間以外は心のない機械だという天動説に回帰してしまう。勿論在るのは心ではなくて言語だからだが、その言語は本質的には疑う他人がいないと、発せられそうもない。
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posted at 16:48:56
どこまでも他人に疑われる(ているように思える)自分。まあ気持ちの持ちようよ、という話なのではあるが。そのために、フッサールは12節で、それ(明証)を、スピノザのように、方法論と名指している。
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posted at 16:22:54
よくポストモダンに対する批判で、主体も心もないというのは他のもの(神?)により操られる決定論だ、というのがある。たしかにスピノザの仕事は、実体の論理構造の解決ではあるが、そのままでは単に倫理になる。それは疑われる我の解決ではあるが、勿論、フッサールはその先を考えなければならない。
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posted at 16:20:14
感想。國分氏が指摘するようにスピノザが実体の論理構造の解決(神の描出による証明の破棄)なら、フッサールは、デカルトが描出しなかった(疑われる)我の論理構造を解決しようとしているかのようだ。
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posted at 16:16:02