大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年04月30日(月)
100%は「死」だけ RT @arabian_m: センター国語の代表的な錯乱肢ですね RT @yutakioka: ゼロとか100%とか、必ず、常に、絶対的にという極端な言葉を好んで使う人は危険ですよね。そもそもゼロは多くの場合証明できないw。
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posted at 16:04:04
つねに流れてログを遡れないツイッターって、一年前二年前に去来した思考が、絶えず一貫してる西欧人向きね。寝るたびに物事の聖典性を忘れる人には向かない。(^-^)/
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posted at 14:15:35
それにしても今日偶然、お産をして赤ちゃんゲットする陣痛夢を、生まれてはじめてみてしまったのだけれど、私も表象に移行しはじめてるのかしら? つまり機械化したのかなー(・_・;)
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posted at 14:06:04
動物化というか、動物の機械化というか、なんでサンクチュアリでは、人間はマシンになりたがるんだろう。表象論も、超越論も、機械論ですらも、ただ単にエンジニアリングみたいに思えちゃうのが不思議。哲学工学。シナプス哲学。ヘーゲリアン的な他者の欲望も機械的反応だったりして(・_・;)
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posted at 13:42:17
宗教文化圏はフリーセックスしたがってるし、サンクチュアリは動物圏なのか、近代的自我から超越論的自我、平たく言えば産業まで動物化させたがってるし、人間の欲望はとどまるところを知らないねー。というか猿の惑星のテーゼそのもの(・_・;)
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posted at 13:32:56
最近、動物化する機械とか、動物化する理系とかが頻出しすぎる気がする。これも元を辿れば表象論的デカルトの自我を鵜呑みにした宗教サンクチュアリ日本だから?汗 QT: t.co/tqZLffz9
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posted at 13:16:57
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posted at xx:xx:xx
私は批判とか私見とかとは無縁で、いうとすれば、たとえばAさんの無神論は何が聖典(キャノン)なの?ぐらいなので、人畜無害です(^-^)/ @aoinatsunosora 笑
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posted at 02:08:49
おお、確かにその点は言えてますね。日本は宗教的にはサンクチュアリだ。ゼロから行ける。でもたいへんそうだなー、すぐ西欧かぶれが西欧かぶれじゃないつもりで反論しそう。@aoinatsunosora そうです。特定の宗教観に偏らない死生観の考察に、今の日本は向いていると思います。
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posted at 02:00:07
表象はかわいいけど、表象論者はキモい。ただそれだけだなー、私見するとすれば。でもこれ私見ではない気がする。私見って可能なのかが最近益々分からない(^-^)/
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posted at 01:13:49
しかし表象論者のいう自我というのは、気色が悪い。表象それ自体が爽やかに萌えられるのとは、対照的だ。表象論以外の論はどこかにないものなのだろうか?(^-^)/
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posted at 01:12:10
さらにデカルトにとっては、(國分によらないでも)無限=神という同義語ですが、神証明といえばカントを連想します。Wikiにもカントの神証明の類型がでてますね。カントは無限を神と同定してるんでしょうか? t.co/S0sFrKYk @femmelets
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posted at 01:02:12
ヘーゲルはむかし愛読してましたが、ことその無限の点からいうと、何か有意味なことを言ったようには思えていません。ところでカントは精読してませんが、無限をどう扱うのかご存知でしたらご教示を(^-^)/ @femmelets
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posted at 00:59:39
ただし、オイラー→リーマン以降は、無限は複素数、あるいは素数の無限性で、それは無限は有限の先にはない、ということらしいです。それは、たしかにデカルトの時代にはなかった知見なのでしょう。
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posted at 00:44:59
2012年04月29日(日)
(読書)國分235p 無限を単に否定して、表象だけに存在を見てしまうことに対して、スム(主体性)は、無限とは異なる、と無限の単独での自己原因を「肯定」すること。そのあたりがここでの自分用読書メモでした。(^-^)/
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posted at 20:41:26
(読書)このように、存在の自己原因としての無限(無限は有限の結果ではない)を否定するために、「より広大な」というアナロジーを表象論の主体とするデカルトに対して、スピノザは無限を無限という語義どおり有限と対比せずに肯定する。さもなければコギト(思惟する主体)は単に歪むからだ。
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posted at 20:32:56
(読書)しかし、無限という語義に存在を含めるかという証明は、肯定的起生原因(自分より広大なというアナロジー)が混入したことによって、自己原因(無限がそれ自体で存在すること)を証明できず、スピノザのような自己原因の肯定化に成功していない。つまりデカルトは自己原因を肯定できない。
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posted at 20:26:05
(読書)國分234-5p デカルトは、無限(という語義)に存在が直接「含まれる」=存在の自己原因は、「自分より広大」「無尽蔵な能力」という無限の本性を「含め」られないので否定的だという。そのために自分より広大で無尽蔵な無限だけが存在すると証明する。
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posted at 20:24:14
非常に素朴な疑問ですが、哲学が、数学や無限や神に取って替わるものとして、表象する自己を据え、その後、数学も神も、そうした存在論から捨象できた、というのが近代観、つまり転回や超越論なら、それが詭弁でない保証が気になるところです。どう考えたらよいのでしょうか? @femmelets
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posted at 16:50:28
たしかに数学そのものは語れないかもしれませんが、数学を数学によらず理解したり解説するものが全て詭弁というのは、至近でデカルトを数学と捉えたスピノザの解説を読んでたわけですが、断定できない気がします。むしろ数学とは別な存在を哲学する方に詭弁を感じます。RT @femmelets
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posted at 16:37:24
2012年04月28日(土)
科学という重荷を背負えない人が科学の教えるところを無視するのは自由である。しかし科学を細切れにして都合のいいところでは持ち出し、具合の悪いところでは無視するというわけにはいかない。なぜなら我々はそれができるほど賢くないからだ。
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posted at 13:03:40
2012年04月27日(金)
(読書)デカルトの外部者に存在させられる無限は、思惟によって存在させられる(つまり無限に対する外部者=思惟)だけでなく、第三者によって思惟を強いられた無限であるのは、第一証明の前提からも一貫して明らかだという。しかしスピノザはそれが誰とは問わず、ただデカルトの解説者に専念する。
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posted at 10:46:51
(読書)第二のア・ポステリオリな証明はスピノザによる前提の書き換えでアナロジーであると暴かれた。無限という字義は、人より広大というアナロジーではない。しかし無限をアナロジー(実在性の量)とすると、外部によって存在させられる無限、というデカルトの第二のア・ポステリオリな証明となる。
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posted at 10:31:31
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超越瞑想法(TM)やオウム真理教は、教養のある人々をたくさん引きつけ、中には物理学や工学の高い学位を持つ人たちさえいた。つまりその教義は、無知な大衆向けではないのである。そこには何か別のことが進行しているのだ。
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posted at 08:03:19
無限に外部者があるというのは、無限という語義と矛盾する。だから無限という語義はある、と捉えるのが、コギト(真の思惟)であり、スム(存在)は、コギトエルゴスム(偽の思惟)を原因としない。コギトエルゴスムは命題ではなく三段論法(小前提)だ、そんな話にまとめていいのかな?(・_・;)
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posted at 04:42:13
無限は有限のアナロジー(対比)であり、無限は有限のように存在させられ得る(デカルトの神精錬)。つまり無限の外部者がコギトエルゴスムだから無限は存在させられる、というデカルト的証明を、スピノザはそれは無限が予めないという思い込みであり、思惟(コギト)ではない、と証明しているようだ。
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posted at 04:36:38
無限をより大きなもの(アナロジーを証明)とすると、無限の外部者(他者原因)を想定してしまう。それがコギト・エルゴ・スムとすると、それは無限ではない、というスピノザの証明。
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posted at 04:23:22
超訳すると、無限は比較ではないのに、デカルトは「より大きなもの」と規定したために、無限も有限も外部の第三者によって存在させられていると証明してしまった。つまりデカルトにとってその外部がコギトなわけですが、スピノザはこのアナロジーの破綻を修復してコギトを書き直しエチカに至る・・・。
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posted at 04:07:29
たとえば、日本的近代は唐突にテクスト(西欧のテクスト性)を恣意的に解釈する主体になってしまった(権力を創造しようとしたのだから当然だ)。そのため諸々の反転が起こり、唯物論もそれ自体で存在するように見えただけだ。しかしそれは恣意的解釈に原因があるだけで、テクストに起源はない。
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posted at 03:44:04
もっと言えば、テクストとは破綻がないということだ。矛盾があればテクストとして成立しないからだ。破綻は存在できない。だから哲学者を唯物論か否かという命題自体がナンセンスだ。言い換えると、テクストの無破綻性を、恣意的に神格化するなど解釈するというのは、単に権力でしかない。
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posted at 03:41:30
その点で、哲学者は宗教者と差異があるというだけだ。哲学者はマルクスでなくても、テクストに忠実な唯物論者であるだけだ。恣意的解釈ができないから、それはテクストというだけだ。文学研究では聖典性(キャノン)という。そうしたテクスト性がないテクストは単にテクストではない。
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posted at 03:33:05
何度も断っておくが、無神論とか唯物論というのはテクスト論と同義のはずだ。書かれたものがすべて=唯物論、実在するテクストに後になって何か神格化を付け加える読み方(解釈)が、無神論に反する何かというだけで、原理的に考えても無神論それ自体が存在するとは誰も書いていないし書けないはずだ。
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posted at 03:28:46
心から自由になりたいt.co/f3MnQSQM そのために人はジャズに目覚めるだけなのだ。心を取り出して踏みつぶしてやりたい。いや他人の心を踏みにじるわけではない。他人は心であっていいのだ。自己の心は踏みつけたいww(^-^)/
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posted at 02:55:13
太鼓はなかなかうまく叩けない。習得しない者には何もない。だから最終的には言葉で神体験を補った。それが信仰というものであり、そもそも無神論というものがあるというのも矛盾に感じる。
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posted at 02:39:50
しかも、t.co/eIxrG3na 近代は信仰と無神論の対比を派生したが、そもそも世界は音楽的没頭ができるかできないか、でしかなかった。なかなか没頭できるものでないのが音楽だから、宗教が生まれた、という代償行為に思える。
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posted at 02:33:48
ところがやっぱりアフリカにはそもそもそういう囚われのなさ、つまりリズムがあるのよね。西欧はロマン派のようにメロディー(抑揚という表象)に感情(心)込めて、太鼓を止めてしまうから。そこから自由になること。つまり音楽が心から自由になること。
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posted at 02:26:48
アフリカはいいねといったが、ジャズに重要なのはオリジンではない。メロディーがフェイクされてラインになったり、そういう音楽の自由を総称すると、歴史的にジャズしか成し得なかったというだけ。
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posted at 02:25:21