大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年04月23日(月)
コギトは分析だが、神証明は総合=幾何学と言ったのはデカルトだ。幾何学とは定義から始まり定理にいたる書き方、つまり体系のことだ。しかしそのためには彼は表象論に陥る。ドゥルーズもそれに言及するが、スピノザだけが、分析VS総合を偽の対立項として触れず、コギトも幾何学で定理してしまう。
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posted at 01:00:11
ところで、スピノザ的國分は、それを解決と明言し、実際私も、表象論から超越論に至る哲学的転回、つまり矛盾の単なる解決にみえてしまう。しかし斉藤の『「われ思うのは誰か』t.co/Vft6ZjvU という本は、証明ではなく教養本のために自他論に陥っっていたのを思い出した。
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posted at 00:49:21
2012年04月22日(日)
(読書メモ)國分200p 眠いので短絡させると、デカルトの公理のままでは、くだらないやつを判別できず、幻覚や幻聴の病気になるぞ、とスピノザが心配してる、という話のようで。そう考えると眠れそうね、そろそろ寝支度(^-^)/
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posted at 01:47:32
(読書メモ)國分200p デカルトの公理順は偽なので、分かっていない人(観念)の実在性を問えない。つまりむしろ観念の共有を拒否している。それは思惟していないことだ。そんな文脈のようなのだが、いまいち眠いのでわけがわからん。考える故に眠いのではないが、眠い故に命題化が出ないw
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posted at 01:27:23
(読書メモ)國分200p 要約できないので敷衍すると、デカルトの公理順では、精神が原因の表象とは単に幻覚や幻聴ということになりかねない。しかし、それを整序すると、精神が実在(分かっている人)になり、分からなっていない人の観念への懐疑が生まれる、そんな話に一応見える。
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posted at 01:23:10
(読書メモ)國分200p このようにデカルトの真の順序で、スピノザがデカルトの公理を整序すると、表象が実在を表す心像(イメージ)から、観念(精神)を表す観念に、なってしまう。言い換えると、デカルトはそれを疑っていない。という話になる。
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posted at 01:14:47
(読書メモ)國分200p 表象はデカルトの公理の順では、知覚=映像が心像になることで、それに対して精神である観念は独立している。つまり懐疑していない。それに対してスピノザはそれを疑っている。という意味内容だろう。
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posted at 01:12:38
(読書メモ)國分200p したがって要約は意味ないが、スピノザは分かっている人と分かっていない人が実在してる。実在する人の観念は、外界が原因(つまり影響)ではない。にも拘らず、デカルトの公理の順では、こうした真の懐疑が隠蔽される、と言っているように思えた。
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posted at 01:10:45
(読書メモ)國分200p デカルトの公理の順では真の懐疑が不十分で、実体を表象するのは心像だけで、観念=精神は何らの表象ではない。スピノザがそれを真の順序にすると、観念は観念の表象でしかない、ということになる。つまり観念こそが表象される実体だ。この観念=実体は確かに分かりづらい。
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posted at 01:01:22
(読書メモ)國分186~200p デカルトを論じるスピノザと、そのスピノザを論じる國分で、用語法(概念布置)がめまぐるしく反転して対立項が捉えづらいしこの段落は錯綜しすぎているが、観念は実在の表象ではない、というスピノザに。 t.co/5HtimmNg
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posted at 00:34:44
さっきの音楽を他者として聴くこと、という@neojazz さんのスパルタレッスンみたいな高校国語のテスト問題のPDF t.co/KxS4YuSU 要は音楽が何であるか論じるのは空疎だが、音楽をどう共有するかは国語になっちゃう。@tampny
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posted at 00:17:28
2012年04月21日(土)
自分が敗北者なのに子供を育てる。自分が気持ちよさを体現できなかったから、子供を気持ち悪く育てる。そんな感じに70年代の偶像の作り手は、気持ち悪いもばかり作ろうとした。だから、偶像の外が豁然と気持よかったのかもしれない。逆に今は気持ちよさと偶像が渾然一体だ。
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posted at 23:58:34
ところで、たいていそういう作り手は、自分が音楽の境地に達し損なって、子孫に託すように、誰かを育てるという感じだ。つまり、自分か子孫かという例のいやらしい問題が、70年代の気持ち悪さににじみ出てしまう。あの時代、子孫に託す親は、あまりよい親ではなかったのだ。
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posted at 23:56:33
70年代の気持ち悪さとは、偶像の作り手が気持ちよさに気づいていない点に尽きる。じつはミュージシャンだけが独占する達する感覚、というのは、その言葉でしか表現できないからだ。リスナーが共有できるのも、もちろんミュージシャンの精神ではなく気持ちよさだ。それに気づくまでの停滞が70年代。
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posted at 23:40:40
子孫か自分かという弁証法は重大よね。両立出来ればいいけど現実問題なかなか難しい。そこで自分が達成できないと子孫に託すという感じになる。家なんか親が子供に敵愾心あったりするほど極端だからよくわかる。だから中途半端はつかれる。自分か子孫ね。(^-^)/
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posted at 22:59:27
生徒さん持って来た学校のテストの評論文笑った。理系は読書で私的言語体験をする。それは「分かる、と(ゆえに)、面白い」であるより「面白い、と(ゆえに)、分かる」なのだ、と書いてあって、今読んで爆笑しそうになった(^-^)/ t.co/qyCQ29Mg
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posted at 18:39:57
2012年04月19日(木)
t.co/DCp5rarj=コギト解決としてのスピノザを敵対するものとした民主主義とは、柄谷行人の最新テクスト『哲学の起源』では、(おそらくノマドに対立した多数者支配)のことであり、自由の対語ですらある。
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posted at 01:36:05
t.co/ZNdsYCpy をパラフレーズしてみると、「コギト解決」=道徳であろうが悟りであろうが共有(説得)しないことは、本当に民主主義なるものの敵なのだろうか? そういう話のようだ。(^-^)/
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posted at 01:31:17
國分によるスピノザ→「分かることを分かる+説得で共有しない」といういわば「コギトの解決」と、それに対する民主主義の破壊→オウム事件t.co/a2uh1ZWB 的な命題。しかし、「分かることを分かる」を説得しないという証明(コギト解決)は、本当にその対立項なのか?
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posted at 01:25:52
懐疑論者を説得しない→スピノザ→國分を、今朝私はt.co/0ZaEpz9q で哲学の解決と名付けた。@femmelets はそれは民主主義が自明でない→犯罪と同義というのだが、スピノザは道徳的t.co/SL2iN32E なだけなのだろうか?
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posted at 01:14:31
2012年04月18日(水)
それは「哲学的解決」といってよいかもしれない。國分氏は講演では悟りみたいなものと説明したそうだが、その「解決しました、だから説明(証明)します」という言説は、西欧の証明とは正反対の混沌とした言説にはない布石にみえてしまう。もしそうなら日本の言説は凄いことになっている。
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posted at 09:26:20
だから、読みやすいようで読みづらい。読者が弁証法しながら読まなければならないテクストだからだ。しかし、國分氏がいうように、テクスト内実証すると、スピノザの方法が確かに哲学的解決というのも頷ける。コギトの明証性は普通ゲーデルに至る矛盾でしかないが、スピノザにとっては解決だからだ。
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posted at 09:22:50
柄谷行人ですら、最新のテクストでは、擬人法の有無しか論じない。当たり前だが、言葉の問題は擬人法しか論点がない。平たく言えば、神は言葉をしゃべるか否かという点だ。しかし、國分氏はそうした弁証法をするわけではない。もちろんテクスト実証的(たぶん分析的)だからだ。
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posted at 09:17:39
もちろん、ここt.co/7BFrloai で読書メモした、デカルトとスピノザの対称性は、デカルトのコギトが擬人神に担保された三段論法で、スピノザはそれを前提としない主体という命題という話だ。
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posted at 09:11:17
おそらく欧米より混沌としていない哲学の明証性に行き当たっているというのは、欧米がやはり擬人法の、つまりキリスト教の文化圏であることを免れないからだと思う。もちろん日本的近代も西欧化だが、國分氏はスピノザのようにそれを相対化し、解決が見えてしまっているようだ。
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posted at 09:08:06
しかし、本当にそうなのか?という言説読みでは、國分氏の解決がテクスト内的実証であるため、読み手が弁証法で命題を補いながら読む負担がかかる。しかしそれでもなお、一頃まで何を哲学するのかを哲学していた人達と比べて、ある哲学的な明証があるようで、欧米の言説より充実してるようにみえる。
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posted at 09:03:16
この差異は、もしかしたら日本のアカデミズムの中でむしろ哲学の方が、論点の混沌とした現代の欧米より、一歩先端に開けてしまってるのではないか、と思えるほどだ。
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posted at 08:57:14
勿論、私は哲学研究に興味があるのではなく、あくまで日本語の言説の達成度に関心があるだけ。一頃まで日本の哲学者の言説は思弁的に随意の弁証法で、論点を模索するスタイルが主流だった。その点で國分氏の言説は博士論文だからか「解決しました、今から説明します」という様式で差異を感じる。
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posted at 08:54:45
(読書メモ)國分167-8pまとめ しつこいようだが、もう一度まとめると、167-8p 《デカルト的分析とコギトを真としない幾何学》⇔《コギトを真とするスピノザ的幾何学》という感じ。やっと命題に要約された。(・_・;)
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posted at 07:31:21
(読書メモ)國分167-8pまとめ
●分析と総合(幾何学的様式)
●デカルトの省察=分析(非幾何学的様式)→コギト命題
●デカルトの諸根拠=総合(幾何学的様式)→神の3つの証明
●スピノザの幾何学的様式 →コギトを真とする幾何学
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posted at 07:25:47
ポスト3.11は終末論の終焉で、終わりのない日常の到来とかいってるが、実際はかなり終末チックなのよね(^-^)/ 少子高齢化、世界で突出 外国人流出が経営に影 :日本経済新聞 t.co/Dah9TqH4
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posted at 01:57:24
このt.co/j5GgMcSm 終わりなき日常としてのポスト3.11は去年度の小論文対策で書かせたなー。AKBとけいおんで今年は小論文させてみるか(^-^)/
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posted at 00:05:39