大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年06月12日(火)
デカルトのように幾何学的公理にこだわって、思っている我を心(スピリッツ)のように実体化されるとえらいことになるわけだが、音楽もスピリッツになった時(音楽的に)つまらなくなるからなー。スピノザみたいに(自己)証明を破棄しないやだめよー(^-^)/
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posted at 21:25:49
2012年06月11日(月)
有るか無いかという懐疑論に、いや実在性は量だよとデカルトがいったら、いや経験の信憑性の量だよ、もしかしたら限りなく無いかもしれない、ってなったまま(証明が続いてるまま)t.co/iTPsmz5i で、彼らにあるのは量だけ。終わりなき証明と量は同値である(^-^)/
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posted at 00:02:53
2012年06月10日(日)
大抵の錯乱病(サクランボウと呼んでる)は、ご本が宇宙に五万とあって、参照関係がカオスになり、何言ってるのか読解できなくなると発病するはずだから、一回文明を終わらせて、一冊だけのご本にすると、みんな元気になるかもよ(^-^)/
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posted at 23:22:11
今日買ったブックカバーt.co/gCgMyXEp 合皮の色合いがきにいった。お花柄の裏地が表にちらっとでてるのも。ご本はカバーに入れて読むと、宇宙に唯一の本みたいになるよー。いろんな本がごちゃごちゃあると錯乱するから、本は一冊で聖化するのが好き。でも教徒ではない。
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posted at 23:19:32
フッサールの省察、デカルトの陥った幾何学では明証な経験という学問の真正のイデアは得られない。あらゆる現前=経験に先行する第一経験こそが十全な明証だ。量的すぎて証明手続きを破棄する述定に至らずウロウロしてるだけね。病気ね(^-^)/ t.co/sSCUUxp7
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posted at 20:29:45
実在性を量にすると信憑性の問題が起こり、分かっていても相手を分からせられるとは限らないから、エポケーしてバカはスルーしようという系、エポケー(判断停止)という用語も最近はめっきり聞かなくなった。何にどう言い換えられて拡散霧散したんだろう?脱構築?(^-^)/
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posted at 12:49:22
ノエマとかエポケーとか間主観とか、括弧に括るでもなんでもいいのだが、信憑性の量で証明言語を再生産しようとするところが、気にくわない、そんなものに関係なくあるんだがなー。そういえば最近エポケーって死語? 30年振りぐらいにきく懐かしい語感なんだが(・_・;)
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posted at 12:29:04
心理的なものは、フッサールよりフロイトの抵抗と昇華のほうが言語化されてて好き嫌いで言えば好き。形而上学という命題言語の誤謬に転回するウィットゲンシュタインをカントの純粋理性批判とあわせて読むつもりが、なぜかパラレルでフッサールの間主観ワールドも。証明破棄不能言語は何を語るか?
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posted at 12:15:51
乱読態勢中。ウィットゲンシュタインの哲学は言語の誤謬だで正気を保ちながら、実は嫌いなフッサールのデカルト的省察を読み始めた。懐疑論→実在性の量→神証明の破棄不能→経験→認識→エポケー→現象という閉鎖的な系は、言語の誤謬に見えて、あまり好きではない。(^-^)/
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posted at 12:11:38
2012年06月09日(土)
■ツイートまとめブログ■主体性の量という信心を放置するサディズム
t.co/0LYnO69L 実在性の量から指導の自動性へ向かう必然性の外部に、主体性の量を信心してしまう人々(^-^)/
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posted at 04:15:59
さて、指導の自動性=存在証明の破棄を齎した、実在性からの量(表象でもある)の排除は、属性で実体を捉え直したことなのだが、その結果、決定論や必然性になった。ウィットゲンシュタインには、トートロジーを排除する事実や事態があるが、様相論(可能的自由?)が問われてるとは思えない。
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posted at 03:19:20
スピノザを、指導の自動性の方法t.co/iPQTiaKg にした國分功一郎氏にとって、量とは実在性の量ではなく、分からなさの量だ。分からない懐疑論者の主体などは、分かるようになる(自動化する)まで、放っておけばいい。それがスピノザの倫理、つまり指導ということだ。
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posted at 03:11:04
同様に、神は何かとは問わないが、自己の主体性はあると信心するt.co/Ej4JZvEP という懐疑論者に対しても、指導者は放置すべきなのだが、しかしそこからは確かに面白い分析が成り立つ。t.co/WWz8AVL9
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posted at 03:04:48
男子生徒が、文中の人間とは?神とは?何か教えろ、それを分かるように教えてくれなければ、自分が国語は好きになれない。自分にはプライドがあるからだ、という時に、指導者がすべきことは、もちろん放置である。(^-^)/
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posted at 03:01:52
ところで、おそらく指示表出の言い換えである國分氏の指導の自動性は、分析というより存在証明するから実在性が量になる、といっているのだと思うのだが、乱暴に考えると、存在証明はもちろん分析の言い換えなのかしら? たぶんそうなのだろう。
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posted at 02:59:42
一々、テクストの神と背比べt.co/8BcFnAqf する(存在証明する)懐疑論者t.co/6dcTE6qJ たち。そういうバカに指導はいらない。分かるまで放っておけ。
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posted at 02:46:18
國分氏の方法。『知性改善論』が示唆する2つの逆説は、懐疑論者の説得の要請で生まれたデカルト的循環(コギト命題)を実在性の量の否認で再定式化した結果、名目から実在性を証明した神という証明手続き自体が解消され、知性・教育(分かること)の問題(自動性)に解決された。量から自動へ。
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posted at 02:35:43
バカ(懐疑論者)は放っておけ。神がいるかいないかではない、神を基準に物事考えなければ気違いになるぞ(神存在の証明手続きの破棄)といってるだけだ、というスピノザの方法(倫理)を読むと、そんな気分になってくる。(^-^)/
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posted at 02:33:57
2012年06月08日(金)
1.プラトンからデカルトを経てフッサールに至る、根源性という方向。2.プラトンから聖アウグスティヌスを経てフロイトに至る経験的拡張の方向での連続的な歴史。このどちらの場合も、明示的にであれ、暗黙の内にであれ、主体の理論が練り上げられずに、背後に残されてしまう。-主体の解釈学-
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posted at 02:55:41
2012年06月07日(木)
ウィットゲンシュタインの論理哲学論考を10年ぶりに再々々読してるけど、スピノザと同等かそれ以上に、様相=偶然性というのは、禁句なムードがあるよー(^-^)/
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posted at 22:49:16
攝津君も信心じゃない神t.co/ejS6OGAq を見つければいいのにね。自己以外はすべて偶然みたいに言うt.co/9FOXjp03 のは哲学者らしからぬ感じがするよー(^-^)/ @slitsandfrills
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posted at 22:43:48
摂津君の柄谷行人への愛憎は激しすぎるなー。私の時代は新宗教こそあったが、左翼にそれほど熱狂する人はいなかった気がする。冷戦後に、人間が所有(国有)するもの以外は全て偶然だというのも、哲学的でなさ過ぎる。まるで哲学の外部を所有しようとしているかのようで、ちょっと心配になる。
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posted at 20:55:39
うさぎ好きは仏教系なのか(^-^)/ QT: 【どうしてオウム逃亡犯はウサギを飼っていたのか - 島田 裕巳(アゴラ) - BLOGOS(ブロゴス)】 t.co/a3KiYkQR
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posted at 13:44:47
2012年06月06日(水)
スピノザの「神の証明手続きの破棄」の最大の誤解者は、私にはヘーゲルに見える。t.co/6yqoXdEz 。ヘーゲルの言う精神とは、証明手続きとしての自己原因の以前にもう一度信心する神を宿すという程度の問題のはずだ。
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posted at 19:25:23
この國分『スピノザの方法』が突きつける、分からない人を本当に分からせる、という問題は、現代文の授業で毎回頭が痛いのだが、昨晩指摘したように、国語教育における吉本隆明氏の「指示表出」の焦点化ともつながっていて、大変興味深い。t.co/1DOcqztU
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posted at 19:11:28
したがってこれは、國分氏が結論で明言するように、ある種の教育論になっているという点だ。わからない人に無理強いするためにはコギト命題が要請されたのだが、そこでの神は信心される神だ。しかしエチカ冒頭で破棄される神の証明手続きは、知性に矛盾なく合理性を導出してしまう。
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posted at 19:07:40
t.co/bQv506lS なお、私が「神の証明手続きの解消」と更に関数化したものは、國分氏の文中では「実体の系譜学の破棄」という関数で呼ばれていた。いずれにせよ、それが解消されたのは、分からない人(懐疑論者)を説き伏せるのではなく、導く合理性を得たということだ。
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posted at 19:03:13
國分功一郎『スピノザの方法』を纏めれば、『知性改善論』が示唆する2つの逆説は、懐疑論者の説得の要請で生まれたデカルト的循環(コギト命題)を再定式化し解消した結果、名目から実在性を証明した神という証明手続き自体が解消され、知性・教育(分かること)の問題に解決された、という感じだ。
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posted at 18:45:10
もちろん、このオブジェクト指向みたいになるのは、スピノザ自身の問題なのだろう。それを例えばヘーゲルのように、そうではないと受容することで起こった誤解を解くためには、また概念の入れ子のような、妙な書き方になる、という話なのだと思えた。
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posted at 18:35:38
独特の読みづらさというのは、オブジェクト指向というか、関数が関数の入れ子になり、そのうち値が、どちらの概念を指しているのかが、明示されないような書き方の病理だったという点なのだが・・・。
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posted at 18:32:35
コギトや神観念を日本語が受容するにあたって、とんでもないミッシングリングが生まれていることだけは確かなのだが、國分氏の提起した、懐疑論者(わからない人)を分からせる必要がない、という問題は、日々現代文を教える立場としては、大いに考えさせられてしまっている。
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posted at 18:28:19