大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年06月16日(土)
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
随分と僕に関心を持ってくださってるようなんで、逆に聞きたくなっちゃうんだけど、やっぱり親がすごく厳しかったタイプですか? @matsurowanu @lethal_notion しかし、相変わらずイロニーゼロですよね。。。自己を懐疑するという姿勢も多少は必要では。
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posted at 22:09:52
イデーンをデカルト的と反省する省察第十五節長くても超訳。自然的態度では世界存在が前提され、思っていることを問えないが、世界存在をエポケーすれば、先入観を免れて、思っていることを対象に思うこと=記述できる。それは自我分裂ではなく、同じ対象をめぐる自然的ではない超越論的態度だ。
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posted at 20:17:34
感想。スピノザによれば、デカルトは神を対象にするために我を置いている。つまり神を思う故に我あり。このように、デカルトは神しか思っていないから、思う対象を問わずに、思っている我を述定してしまった。フッサールは、我が思っているということより、何を思っているのかを、志向性と呼ぶ。
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posted at 19:15:40
同十四節超訳。思う=意識なら、何を思うのかを問える。デカルトは思う対象を問わずに、思っている我だけを述定した。しかし、我が思われるよりも前から世界が信憑されているように、思っている我より、意識の対象を問うこと。志向性の地平化。
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posted at 19:07:32
フッサール省察第十三節超訳。思っている我を問わないデカルト的省察からの拡張は、我=主観性を研究対象に転換し、そのことで超越論的主観性の間主観性をも対象とでき、独我論を回避できる。
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posted at 19:05:51
2012年06月15日(金)
私はデカルトを許せない。彼はその全哲学の中で、できることなら神なしで済ませたいものだと、きっと思っただろう。しかし、彼は、世界を動き出させるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにはいかなかった。それからさきは、もう神に用がないのだ。§77
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posted at 19:59:23
私は無神論という安易な逃避は誤謬だと思っていて、好き嫌いで言うと嫌いなのだが、マルクスの存在論でさえ、無神論と誤解できないと、なんとなく感じていた。安定志向の制度化のようになった社会主義的なものが、いま非理性的な様相に見えるのも、そういう直感からのように思える。
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posted at 07:50:35
いわゆる17世紀の問題を、一文に纏めれば、先行する実体は欺く神だった、という普遍論争の解決だったのだろう。実体という先行するものは単に欺く神(無際限に我が疑われること)だというのが、彼らの存在証明だ。フッサールも言うようにそれをエポケーできるわけではない。
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posted at 07:46:05
理性を失わせる安定志向や、諸々の社会主義的な国有化が今や妄想に見えてきているように、無神論者の論理操作t.co/BaaF6NWl は、単なる詐術だろう。無限の疑い(欺く悪霊)があってこその問いだ、ということを判断留保できるわけではない。
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posted at 07:39:38
夜半 t.co/YMIi3Ls9 の続き。そもそもデカルトが省察するとおり、我が疑われるのは、欺く神(操やつる神)によってであって、スピノザのような欺かない神は疑いもしない。にも拘らず無神論者は、無際限に操られていると疑うのだ。もちろんそこに理性があるのではない。
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posted at 07:18:59
2012年06月14日(木)
自動化が自由意志と反対なのではなく、自動化する自由がある、とかそんな具合に見える。マインドコントロールのように操作されることと、自動化を同一視することこそ、何らかな論理操作に見える。
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posted at 23:45:49
実際の自動性t.co/YMIi3Ls9 は、中沢新一氏がいうようにt.co/FN0WLL3t イデオロギーというより音楽で、操られて気分を害したら、ただ音楽の自動性がストップする、というだけに思える。それでも操られるのだろうか?
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posted at 23:34:27
そもそも、疑うのは、そういう操る主体を対象にした疑いだ。それ以外に具体的に疑うものがあるわけではない。自動性は疑いによって齎されているものの、それが操られる原因というのは、循環論だ。つまり自動化させるイデオロギーが操られる原因とは思えない。
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posted at 23:15:16
さっきの纏め
t.co/NYWUkR7E では、疑われるから自動性への道が生まれる、という話になっていた。「疑われ」が先にあると、実在性の量で説得するか、無視して自動化するかしかない。つまり、自動性と操る主体は単に別人というだけではないか?
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posted at 23:14:51
ちなみに國分氏が、デカルトの実在性の量(自我)と対置したのが、スピノザの(証明手続きの破棄による指導の)自動性だ。その対局がフッサールの(自動性の)留保と仮定して、本当に自動性は操られて、こういうファシズムの原因になるのだろうか?
t.co/h3mCa60J
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posted at 23:14:26
「神」とよばれるその知性体は、音楽という言葉の構造をこえた構造をとおしてはじめて、ぼくたちの生きる知覚と感情の世界に、巨大なそのすがたの一端を浮上させる。~『バルセロナ、秘数3』
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posted at 19:45:45
ほんとは自動化したほうがいいきもするけど、心こめろとか言われると自動化したくなるしwww (^-^)/ @issop0730 そうでしたか、クラシックは自動化に不向きと、φメモメモ
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posted at 19:36:09
ふつう世間では、疑われたい疑われたいってキョドってる人って、それだけでうざがられるのよねー。それにしても日本語ってすごいね、キョドるの一言で西欧哲学の全容を表現してるものねー(^-^)/
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posted at 17:16:24
スピノザの知性改善論によれば(それによらずとも)、疑いこそ無限連鎖なわけだ。しかし、神が死んだように、じつはこの無限の疑いも、どこかに消えてしまったように見える。だから疑われたくて仕方がない人達、病人が出現してしまったのだろうか?
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posted at 16:56:50
もちろん、この疑う他人を現実にはなかなか得られない、得難い懐疑論者、得難い先行者というのが、実際上問題になる。それで、疑う他人ほしさに、色々な言葉を発する人が出てきってしまう。しかしそれは病理に見える。
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posted at 16:53:41
このように人間であるための証明はw、疑う他人ありき、ということになるのだろう。当たり前だが、アプリオリというか先行するのは「疑う他人で」しかない。疑われているからこそ言語を発して、人間様になる。しかし、そういう偉そうな人間が、個人的には疑いの対象だったりする。(^-^)/
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posted at 16:52:02
デカルトのままでは疑われる我で、デカルト主義者=操られない主体性のようにはなっていかないという話だが、これでは人間以外は心のない機械だという天動説に回帰してしまう。勿論在るのは心ではなくて言語だからだが、その言語は本質的には疑う他人がいないと、発せられそうもない。
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posted at 16:48:56
どこまでも他人に疑われる(ているように思える)自分。まあ気持ちの持ちようよ、という話なのではあるが。そのために、フッサールは12節で、それ(明証)を、スピノザのように、方法論と名指している。
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posted at 16:22:54
よくポストモダンに対する批判で、主体も心もないというのは他のもの(神?)により操られる決定論だ、というのがある。たしかにスピノザの仕事は、実体の論理構造の解決ではあるが、そのままでは単に倫理になる。それは疑われる我の解決ではあるが、勿論、フッサールはその先を考えなければならない。
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posted at 16:20:14
感想。國分氏が指摘するようにスピノザが実体の論理構造の解決(神の描出による証明の破棄)なら、フッサールは、デカルトが描出しなかった(疑われる)我の論理構造を解決しようとしているかのようだ。
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posted at 16:16:02
2012年06月13日(水)
ちなみに、フッサールの省察で、意外に隠し味になっているのが「通用するかいなか」という述部。もちろん國分氏が『スピノザの方法』で問題にしたデカルトの通用する神に、呼応して見えてしまうのだが・・。
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posted at 19:29:53
「疑いの余地のないこと=実体」というのは、だから実際にはどれだけ、という量になってしまい、原発をめぐっては、こんなt.co/SuZLUEGc あほな言い方が生まれるんだろうねー。
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posted at 19:22:08
彼らには等式は「疑いの余地のないこと=実体」なのだろうが、もちろん私達には「実体=疑うこと」(実体とか言うから疑いが生まれるんだろ)にしか見えてない、という、このなんとも厄介な話。だからみんな思考停止したり、自分の内面に閉ざされてしまうのかしら?(^-^)/
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posted at 19:19:26
とにかく困ってしまうのは、デカルトが心を実体と等式で結ぶために、実在性の量(リアリティー)にされてしまった神という語彙が、明治になって日本語に流入してしまったことなのだ。そのために、内面が生霊のように実体化し、子供たちが読解できなくなる日本語が生まれたのだ。
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posted at 18:43:01
余談だが、思考停止ならぬエポケーは、私達にはむしろ自然だ(もちろん、フッサールは自然を、デカルトのような、霊魂=実体、つまり実体のほうに置くのだが)。その自然的にエポケーな私達が、西欧文明に接触してまず獲得したのが、超越的な主観、つまり霊魂的な内心だったのも興味深い。
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posted at 18:34:53
スピノザは実在性から量を捨てることで、実体の証明を終結させる。つまり従来は、実体が量と等号で結ばれていたということだ。分析(超越論)やエポケーは、じつは量を実体と等式で結んでいる、ということなのだろうか?
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posted at 18:25:32
通常、スピノザは様態(神を実体という本性にし、我を本質を表現する様態)にしたと見做される。この捉え方は、エポケー=実体ならぬ、エポケーで実体を隠す書き方=分析(超越論)で、やっと可能になっている。このように分析とは、実体との等式の留保のために与えられる言語だ。
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posted at 18:16:27
では、フッサールは、エポケー(判断停止)を、「疑いの余地のないこと=実体」と等式で結ぼうとしているのだろうか? つまりエポケー=実体なのだろうか? おそらくデカルトと同様、等式で結ばないために、分析的な省察を行なっているのだろう。
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posted at 18:09:55
捕捉すると、フッサールによれば、デカルトが「思っている我」=「疑いの余地のないこと」=「実体」としたというのは、心身二元論でいう心の実体化、霊魂のようなものに、「閉ざす」ことなのだという。この霊魂、実体=心が、超越的な主観と呼ばれる。
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posted at 18:05:11
それに対して、フッサールは、そうした実体の等式そのもの、つまり「疑いの余地のないこと=実体」を、「思っている我」と等号で結ぶ、という関係性を保留にしようとしているのだろう。
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posted at 18:00:36
デカルトが我=実体と定義したことになるのは、スピノザの再定式化によれば、実在性の量を省察=分析したからに過ぎない。神を実在性の量(リアリティー)とすると、実体は神ではなく、その対立項の「思っている我」の側に布置される。しかし等号で結ぶ鋭さは得られない。
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posted at 17:57:55
スピノザを國分流に「実体の放棄」と捉えた上で、フッサールの省察を読み進めると結構楽しめる。フッサールはデカルトが、疑いの余地のない前提として、超越論ではなく超越的(二元論的な)我思うを置いたというのだが、スピノザが相対化したように、それは思っている我=実体という等式のことだ。
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posted at 17:54:51
たとえばデカルトの空の例や太陽の例に対してスピノザがどうしたとか、そう読むといい。でも太陽の例に対してスピノザは幾何学というのだが、それも最後に裏切られて、幾何学定理を片付けて(実体の証明手続きの破棄)次に進むのがエチカだ、とかなるのだけど。@nakagawasun
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posted at 15:17:57
ハイデガーといえばフッサールの第一省察の付論「デカルトは超越論的な転換に失敗した」では、デカルトの先入観が説明されているけど、スピノザの方法のように、それを実体との関係で証明(証明の破棄)できてないんです。t.co/yYCfvcXQ @nakagawasun
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posted at 14:38:33
疑わなくてもすむための原因を証明するのが彼らの哲学ですよ。それをやめられない。たぶんスピノザだけが証明をやめる証明を見出したという感じ。フッサールですら判断停止と言いつつ証明を続けますから。@nakagawasun しょうめいのはき…
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posted at 14:32:31
デカルトの情念VSスピノザの感情t.co/6x0wzS8p やヘーゲルの精神t.co/6yqoXdEz は國分本には出て来ません、その前提となる証明の破棄の話です。証明を破棄できないと情念や精神になるのでしょう。@nakagawasun
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posted at 14:15:00
國分さんがカルチャースクールで、一般向けにスピノザの方法講義をしてるみたいですよ。なんか毎回、感極まって泣く人がでるらしい。それだけ哲学を解決してるのかしら。あるつっかえが抜けるのは確かだと思います。@nakagawasun ありがとーございます~♪(^^)通信教育講座みたい~♪
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posted at 13:54:59
うん、あちらの哲学は、根本原因を汲みつくす言葉は書けるか?って話だからね、それができなくて、色んな物(化物)が飛び出すよー(^-^)/ @nakagawasun 因果律?電池があと20%
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posted at 09:16:39
デカルトのように幾何学的公理にこだわって、思っている我を心(スピリッツ)のように実体化されるとえらいことになるわけだが、音楽もスピリッツになった時(音楽的に)つまらなくなるからなー。スピノザみたいに(自己)証明を破棄しなきゃだめよー(^-^)/
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posted at 08:31:25
デカルトの省察だと因果律の定理が不徹底になり、「思っている我」を実体化(霊魂)→二元化させてしまう。なのでスピノザの方法は、証明を破棄する証明をする平行論になる。フッサールは省察しなおして、証明自体の停止(エポケー)と世界を二元化させちゃう。みんな帳尻が合ってしまう。
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posted at 01:44:43
うん、改めてフッサール読んだら、デカルトは我思うって定義しようとして、身体とは別に心を霊魂にしちゃった(心身二元論)、あいつは困ったものだ、って書いてあったよー(^-^)/ @nakagawasun あら(^^)。幽霊が二元論?(今のところ全然わかってないけど、おほほ)
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posted at 01:06:54
幽霊は二元論だから怖くないけど、宇宙人はほんとに草葉の陰からでてきそうで怖い((((;゚Д゚)))) @nakagawasun "こわい(・・;) RT「宇宙人に注意」 #自分のピクチャフォルダの中で一番意味が分からないものをうp t.co/Q0jOzEVV"RT
タグ: 自分のピクチャフォルダの中で一番意味が分からないものをうp
posted at 00:46:49