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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2012年11月06日(火)

estei @estei_st

12年11月6日

日本人の情緒によれば、生は儚く過ぎ去ってしまうものであったが、インド人にとっては儚いなどとんでもないことで、終わりがないことを畏れていたのではないか、と思うのである。

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posted at 03:09:53

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月6日

病者は受験生のように、物語も弁証法も音楽すらも、分析的に要約しないと了解できない。というとこ再読してた。再読に耐えるテクストは音楽にしか思えないわね(^-^)/ t.co/GiwSvhri

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posted at 23:52:53

2012年11月07日(水)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月7日

うさちゃんは精神状態悪いので、メルロのテクストをずーーと読んでると、区切られた一つの論点を、その都度、二元論の術語から術語へ、言い換えの言い換えが音楽的で気持ちよくて、経文を読んでるように安らかになっていくよー。成仏しそう(^-^)/  t.co/x7Xguz0S

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posted at 10:27:03

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月7日

t.co/x7Xguz0S - 主要な論旨は、それこそ要約できるものであるが、おそらく要約が無意味というのは、この論転回において、その都度、二元論の術語を全て経過して、その都度二元論が否定されていく、まるで経文のような構成にあるからなのだろう。(^-^)/

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posted at 10:32:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月7日

何度も何度も円環的に二元論的述定を繰り返しながら、しかし論述自体は真面目に、「身体を即自的な機構として、意識を対自存在として賦分けするというようなことを」やめるために、着実に進んでいく。完全に経文の境地ね。 t.co/P5f2tSSO

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posted at 10:43:53

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月7日

うん、(使える)お金がなくて疎外感に苛まれてるので、メルロを読みまくると、完全に経文に見えてくるよー。意味が分からないというのではなく、スッキリ爽やかになって、ほんとに成仏しそうよ(^-^)/ @NudistExercise お元気かしら(^_^;)

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posted at 10:56:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月7日

成仏させるためには、二元論的述定をマックスにする。それにしても、どうしても成仏できない人々、二元論的述定の手前にいる人々は、たとえば読解できない受験生とか、楽器を構えられない生徒さんを彷彿とさせるのよねー。(^-^)/ t.co/UsMiHMQL

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posted at 11:07:36

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月7日

ここの成仏できない、二元論的述定以前の人々は、ジャズの即興がどうしてもできない人たちのことに、みえるわよ。あらかじめ考えるか、譜面に書かないと出来ない人たち、かなり重症ね(^-^)/  t.co/Yku2hImI

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posted at 11:51:17

estei @estei_st

12年11月7日

デカルトは私たちの周囲にあるモノを延長と規定したが、ハイデガーによれば、現存在は無個性的なモノに囲まれて生きているのではなく、有意義性の連関にもとづく道具存在に囲まれて生きているという。経験的に見て、これは正しい。

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posted at 18:49:13

estei @estei_st

12年11月7日

いうまでもなくこれは異常な事態である。そもそも論理的にありえないことが、実感としてはあり得てしまっているのである。この立場から見れば、デカルトの懐疑とその解消などは、実に無難なものだ。

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posted at 19:53:22

2012年11月08日(木)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月8日

(とくにセンター試験の)小説問題は事柄で心情を、評論問題は観念で事柄を、現象学的測定される。だから、国語の受験勉強は、読むという運動を止めない練習。病者は注釈や要約で一々読みが止まる。読めない状態と病者は同じ。t.co/bkbDvnPo @sunamajiri

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posted at 21:05:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月8日

読む運動は臨機応変ということ。だから音読練習させることもあるし、フォトリーディングに近くなることもある。しかしより重要なのは、評論では小説のように事柄が直接書かれているのではないという読み。ついでに、だからこそ、事柄が場面の中にある小説出題はなくならない。@sunamajiri

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posted at 21:17:05

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月8日

評論にないものは場面や事柄。小説にないものは観念や心情。例えば評論に神という言葉が書かれていたとしても、それは神という場面や事柄としては表現されていない。それに対して、小説の場面には神という観念は書かれない。あるのは事柄だけ。正常者の読みはそれに躓かない。@sunamajiri

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posted at 21:30:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月8日

それが読む運動性。ちなみに評論に《「神という実体」という観念》が書かれていれば、それは神と言う場面を表現しようとしてはいるが、しかしだからといって小説の場面のように「神という実体」が見えるのではない。この見えない物に躓く時に、読む運動性が止まる。@sunamajiri

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posted at 21:44:25

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月8日

この読む=運動は、メルロから援用してるのだが、このスレッドは実は、受験国語を教えるとは注釈か?という@Tomohokubo さんの問いを、(現象学から考えられないか)思考実験しているようなもの。文中を指示しなおす注釈は、書かれた物自体ではないからだ。@sunamajiri

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posted at 22:02:56

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月8日

国語テストでは、書かれた物自体ではなく、出題された抜粋された文自体であり、それを読む=運動を停止させる(指導者の)注釈は文中を指示しなおし、抜粋文自体ではない。つまり抜粋文とは固有の指示関係なのだが、出題意図はそこにはない。@sunamajiri

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posted at 22:32:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月8日

指示問題を偏重できなくなってきた最近の現代文には必然性がある。現象学とは表象によって混濁する意識、つまり世界の取り戻しのようなものだが、診断をするために国語テストが文を抜粋するとは、そうした世界がある文ということで、それは単純な指示関係だけでは診断できない
@sunamajiri

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posted at 22:37:24

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月8日

そうですね、単語と文法に分解してしまう「外国語」は、音読することで、一歩ずつ言語化=身体化、端的に言うと身につきますよね。問題は、身についている母語のほうで、誤って身について妙な常識に捕われていたりすると、世界が見えてこず、意識が混濁してしまう。@NudistExercise

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posted at 22:50:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月8日

世界を曇らせる誑かしが言語の中にある。だから言語は正確度テストの対象となる。たとえば、写真やストリートビューだけみて、その場に行った(属した)体感はない。実際に行ってみないと、その場は現れない。誑かす言語というのは、行ってもいないのに行った気にさせる言語。@sunamajiri

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posted at 23:00:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月8日

女の子が、t.co/1ZT0G0g4 をみて、なぜ今の若者の生きた言葉ではなく、少し前の文が出題されるのか不公平だ、先生、今の若者言葉分かる?という反論をしにきたので、出題文は何かが明確化された文、あなたには確信がある?って訊いた。@NudistExercise

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posted at 23:18:37

2012年11月09日(金)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

さて、国語はどんな文でも出題できるわけではない。出題も大変だが、出題される文は、想像を絶する集中力をかけた文。どんなに控え目にいっても、読者や解答者は遠く及ばないのが書き手だ。だからといって、国語は知識題ではない。この均衡が出題の範囲であり方法。@sunamajiri

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posted at 08:06:37

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

さっきの生徒さんの疑問t.co/pdn5Wxeh から考えると分かりやすい。彼女の疑問は単純で、国語は言葉が通用するかどうかのテストか?というのと、それなら自分たちに通用しない「知らない」言葉をテストされているのではないか?というもの。@sunamajiri

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posted at 08:07:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

出題されるのは、生徒が知らない文なのだろうか? 既読の文ではカンニングになるのだろうか? もちろん出題できる文の条件は、そうした知る知らないという点にはない。学校のテストでは授業で既読の文でテストされる。逆に初見であるはずの入試問題も既読かもしれない。@sunamajiri

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posted at 08:21:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

このように国語のテストは、知らないと言わせないためにあるのではない。たとえ既読でも、自分で読む=運動をさせる。この言語の身体化というのは現象学の論点になるが、それを実践させる文が、紛れもなく出題しうる条件の文なのだ。それは既読でも再読に耐える文だろう。@sunamajiri

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posted at 08:27:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

おそらく、生徒の読む=運動を中断させてまで、指導者が説明や注釈を入れるべきか、という疑問も、現代文で出題される文とは?という疑問と表裏だろう。何のために出題される文なのかを指導者が分かっていなければ、生徒の読む=運動は妨害され、単に読めなくなるだけだ。@sunamajiri

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posted at 08:53:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

言語の身体化t.co/tWWhCkB4 にとって読む=運動とは現象学特有の用語でいうと、読んでいるその都度、文の世界が現れるといった程度のこと。読後に知識が増えるのではなく、読んでいる時だけ現れる世界。これが読めるということだが混濁しやすい。@sunamajiri

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posted at 09:07:27

非公開

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

評論は一々物事を停止させて、ぐちゃぐちゃ言い訳をいう男子の釈明が動機だものね。だから女子t.co/FnDOx8PH からは、男子の言い訳でテストされるのは不公平と映るのは無理もない。@Tomohokubo フェミニズム系が少ないのは大学教員が男性中心だからだ

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posted at 20:46:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

しかし、たとえ男性性的な言い訳が評論文の動機でも、それでなければ診断できない病理があるというのが現象学的な文。確かに小説に対して評論は、男性筆者のものばかり出題されるが、それは紛れもなく女性筆者が書けない、という病理を顕在化させている、とも言える。@sunamajiri

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posted at 21:06:01

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

あくまでも国語は、惑わす言葉から病理を診断する方法。女性の書き手はフェミニズムのように、女性というものから離れられない。それはそれ以外が書けないという病理だが、そのために滔々と中断なく語られる。それに一端惑わされると、自己治癒能力のない言葉のようになる。@sunamajiri

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posted at 21:19:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

一方、男性的な評論文が、なぜ一々物事につっかえつっかえ言い訳する文で、だからこそ国語テストで「どういうことか?」と問えるのかは、女性が女性から離れて書くことができない病理であるのとは対照的に、男性は自分を離れて神という語彙と常に背比べがかりしているから。@sunamajiri

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posted at 21:25:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

いずれにせよ、滔々とした女性的な言語が曇らせてしまう、神というものを物凄く意識的に書こうとすると、おそらく滔々ととめどもなく語り、結局、フェミニズムのように自分のことしか語れなくなる女性の病理が、国語側から診断できる、ということに尽きるだろう。@sunamajiri

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posted at 21:28:56

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

自分語りから抜け出せなくなる女性的な病理、自己治癒能力のない、つまり中毒的なシニフィアン。ある意味、国語が診断しようとしている病理というのは、それだけなのではないか? あくまでも国語は、惑わす言語への抵抗力の測定。教科=臨床制度であって学問ではない。@sunamajiri

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posted at 21:34:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

女性は自分を語り、男性は自分でないものを語ろうとする。どちらが言葉に拘泥した自分から離れる能力なのかは単純に明白。だから結果として男性筆者の出題文、とくに評論ではそういう傾向になる。あくまでも、言葉に捕われた子供たちの、自己治癒能力を教育しているのだから。@sunamajiri

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posted at 21:45:20

露光苑 @keita_roco

12年11月9日

@sunamajiri 卓見だと思います。女流文学で分かるのは基本的には女性のことばかりです。女流文学を読まない限り女性のことは充分には分からないということです。他にあてになるとすれば革命の解析か数学の定理ぐらいのものだと思います♡

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posted at 21:54:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

ですね。女性のことを社会が分からないので書かされたのが女流文学というか。国語は臨床制度といいましたが、制度化したものには訳がある。ここでは国語では女流文学が問えないという制度ですが、女流文学には自分を離れる治癒は書かれていないのです。メンヘラになります。@KeitaRoco

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posted at 21:59:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

その点で、t.co/UUh2sipq 批評は死んだ言葉という蓮見的な言い方が、詩ではなく批評を書くのは、際限なく言葉に拘泥していて女々しい。批評が死んだ言葉に見えるのは詩ではないから、というだけ。彼の批評で言葉への耽溺が治癒するとも思えない@sunamajiri

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posted at 22:12:22

露光苑 @keita_roco

12年11月9日

@sunamajiri 女性を真理と云う発言は男根中心主義からのものとは云えません。真理とは中心的価値のことです。恐らくこれは認識論が発達してからの物語でしょう。女性は常に意識され続けています。肉欲についてギリシャは頗る寛容でした。日本も同様…ただ天皇制は変容してしまいました♡

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posted at 22:13:17

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

けれども、今や拘泥しているのはむしろ男子というのが国語力低下。男子が自分を離れる国語力を喪失した。女子化というか、一昔前まではたとえば蓮実的な拘泥だったのが、いつの間にか東的なオタクというか、表象によって言葉が曇らされている。これが読解力低下に見えてしまう。@sunamajiri

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posted at 22:15:41

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