大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年11月30日(金)
ツイートまとめ@FB(^-^)/ クライマーズハイのダブルオイディプス、舞姫の前近代性=マザコン、吉本隆明詩論の象徴化を切断しないと音韻にならない日本語、近代的自我化するはずの言文一致で抑圧された息子の音声。
t.co/mFh7wL4S
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posted at 06:38:52
日本語のの音韻にとっては、近代文学が相対化した声も、ハレに捩れて、たとえば羞恥心さえプライドになってしまったりする。語れないことがあるというより、書くとパフォメーティヴに作用してしまう。素では書けない。書いたら象徴化してしまう。ハレの漢文になってしまう。@sunamajiri
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posted at 06:08:38
より端的に言うと、近代的自我を言語化した小説で、漢文が抑圧した父子関係を、言文一致させたことで、却って近代的自我を抑圧してしまった。それほど日本語の音韻は近代性を抑圧しかねないのでしょう。日本語では声を文に書いてはいけないというように。@sunamajiri
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posted at 05:48:28
西欧では小説文学は、地の文による身振りの描写と、それを相対化する場面内の台詞(会話)の差異化でした。そのことによって、象徴化作用が相対化され自我が言語化された、日本近代文学ではそうなるどころか、何等かな象徴化によって場面内から会話を奪ったのかもしれない。@sunamajiri
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posted at 05:44:32
メロディーのビバップ化やラップというのは、メロディーの持つ象徴化作用の切断です。それは西欧語では音韻が直接メロディーだったからです。しかし、吉本の象徴詩論のとおり、日本語の音韻はメロディーとは違う実体なのです。だとすれば、象徴化作用を切断するしかない。@sunamajiri
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posted at 05:39:45
これは音楽論でやると実体的なのです。メロディーというのは二元論で、抑揚の象徴化のようなもの。ジャズのモダン化や、ソウルのラップ化などをみて分るとおり、メロディーの象徴化作用の切断が可能なのです。音韻が象徴的だと、メロディーにならない、というのは・・・。@sunamajiri
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posted at 05:37:30
言文一致というのは、漢文によって抑圧された父子性を、身振りの描写と台詞の差異(齟齬)で浮き彫りにして、近代的自我を形成するための小説国語のことですが、日本語の音韻自体が小説だけでは乗り越えられない象徴化作用を持っていたと見て間違いないのでしょうたぶん。@sunamajiri
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posted at 05:31:34
いまは日本語ラップの時代ですが、ラップになるまで日本語の音韻は、ある種のビートやリズムを受け付けなかったんです。どうやらこの日本語の音韻を表象として捉え、象徴作用を生み出すことが、言文一致文学からのオイディプスを剥奪してるようですね。@LitoSnowfield
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posted at 05:28:42
この父親を音楽のように実体化t.co/7OHd1ZlJ させない、表象、あるいは明確に象徴としての言語というのがあって、このオイディプスの二重化が、吉本の詩論のとおり、それが日本語の音韻の切断だ、ということに思えてならない。@sunamajiri
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posted at 05:21:52
漢文から近代化は言文一致で、それは物語だから普通オイディプスになるのに、言文一致による身振りと台詞の差異化がなぜかアンチオイディプスになるのが日本近代文学のようで、吉本の詩論のとおり日本語では象徴切断だけが実体になる。オイディプス重層化ではじめて父性が現れる@sunamajiri
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posted at 05:17:16
話し戻すと、クライマーズハイも息子を無口に病化させる父性の喪失の話。それを回復するためには父親が二人必要というダブルオイディプス、あるいは重層的オイディプス。それが言葉を表象と思って失語症に病化するのが、日本語では同根という。(^-^)/ @LitoSnowfield
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posted at 05:13:24
私中学に英語圏にいくまでは、文は読めるけど口下手だったんです、いまや日本語でもコミュニケーティブですが、しかも自然に。克服するためには日本語を一旦離れる必要があったと自覚しています。@LitoSnowfield とても居心地の悪いことですし、日本語への興味や謎?についての原点
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posted at 04:18:32
そうです、日本語が、身振りの描写と台詞の言文一致でさえ、実体より表象、つまり象徴化させてしjまう、という問題に子供の頃からずっと悩んでいます(^-^)/ @LitoSnowfield 日本で文章がおざなりになる…扱われるというのは、まさに表象と捉えて別に内実がある…という思い込み
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posted at 04:13:02
うさたん、どうしてもハムのせバタートーストがたべたいから、さっき食パンとバターとハムかってきたから、トースターのコンセントいれる。なぜ普段たべないかというと、トースト焼くと部屋がくさくなっちゃって、あとでたいへんなの(^-^)/
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posted at 04:07:46
吉本隆明がそのテクストで明らかにしようとしているのは、インドヨーロッパ語族は音楽という実体に従属して意味となるのに対して、日本語はそれができないことで、音楽とは対立的な日本語という言語の実体をもつ、というような事柄なので、大変興味深いです。@sunamajiri
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posted at 03:55:23
音楽というのは音で何かを表すような表象であるより、明らかに純粋な実体です。ところが歌詞というのは何かを表象してしまう。日本語では歌詞が意味を持とうとするとメロディーが生まれなくなる。これが日本語に固有かインドヨーロッパ語族と対照的な実体というわけですから。@sunamajiri
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posted at 03:53:46
この問題は、音楽の側から興味深いのです。日本語の音韻、シラブルがなぜかメロディーにならない。メロディーにするためには、メロディー性を変形するか、シラブルを押し込めるように、日本語の音韻をデフォルメするしかない、というような。@sunamajiri
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posted at 03:49:59
吉本隆明が秀逸なのは、日本語の実体論になっている点ですね。言葉は音韻であるのに、インドヨーロッパ語族とは対照的に日本語でメロディーとなるためには、象徴的意味の切断が不可欠と言明したことになる。t.co/f7hPfGeP @lapasion
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posted at 03:46:41
つまり近代文学は身振りと台詞の差異から言文一致を生み出すも、オイディプスのような実体を喪失してしまうが、詩論では、象徴的意味の切断が日本語の音楽的実体を表すとなる。小説文学で近代化したつもりで、じつは近代化できなかったのは、日本語固有の問題と示唆している。@sunamajiri
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posted at 03:18:36
たぶん一般人はクライマーズハイのダブルオイディプスが無意識化されて、何の話か分らない側に回るかもね。それほど日本語の病理は深刻なのだ。吉本隆明の詩論でさえ、日本語では象徴的意味を切断しなければ、言語の音楽的実体が現れないとしているが実体が言語にない。@LitoSnowfield
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posted at 03:10:46
でしょ? いま日本語では、詩による象徴的意味を切断しないとメロディーが生まれないという吉本隆明の話をしていたのだが、その日本語でもオイディプス的実体が現れるためには、必然的にダブルオイディプスのようになる、というのが凄かったでしょ?(^-^)/ @LitoSnowfield
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posted at 03:03:57
通常小説論では、身振りと台詞の違いによる言語性しか明らかに出来ない。それが言文一致の仕方なのだが、そうしたナラトロジーではなく、試論では日本語の音的実体が現れる(音になると意味にならない言語)というのが、さすがに吉本隆明惚れ惚れするわね。@sunamajiri
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posted at 03:00:42
問二の吉本隆明の詩論は秀逸。日本語で意味を表現するとメロディーとならず、日本語を音律にしようとすると、詩が意味を失う、という日本語の実体論。つまり、日本語で意味とは音楽ではなく、音楽とは意味ではないという、日本語の存在論として詩を捉えている。@sunamajiri
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posted at 02:51:45
2012年11月29日(木)
エロティシズムはフロイトが考えたような欲動そのものや自然的欲求の中にあるのではなく、これがイメージ化され欲望となったときに生ずる、“言葉の産物”に他ならない。
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posted at 21:05:06
そうそう、物語を表象と捉えた日本人だけ、ポストモダンも内面化させてしまって、パズルを作ってしまった。行き詰って当然。t.co/fgnJl0Z7 @LitoSnowfield 同じことを考えていました。「大きな物語の終わり=冷戦終結とする場合はサスペンスになる
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posted at 01:43:30
いわゆる大きな物語の終わりといっていた人たちは、命と名前の入れ替わりから、サスペンスに物語が変形した、ということなんだと思うけど、それでは大きな物語はイデオロギーでしかないことになってしまう。大きな物語は単なるオイディプスのことなのに。@LitoSnowfield
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posted at 01:27:12
2012年11月28日(水)
アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 @AntiOedipus_bot
(…)あなたは神を信じますかと問うひとに対して、私たちは、厳密にカントあるいはシュレーバーの仕方で答えなければならない。「もちろんですとも。ただし、それはただ、離接〔選言〕的三段論法の先生を信じ、この三段論法のアプリオリな原理を信じるのと同じことなのです」と(…)。――p35
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posted at 16:34:15
まとめると、身体を探す心身二元論的な心=内面は、身体を表象=政治的代表とするイデオロギーとなるということ。このように身体性は心によっては探せない。それが認識できないもの、対象ではないもの、としての身体という実体。それは文字も同じ。実体とは認識できないもの。@sunamajiri
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posted at 11:17:42
身体を認識しようとして探すとイメージ(表象や代表)t.co/mZE5ynjS になる。つまり身体t.co/73RsL2fU とは認識の対象ではないということ。文字と身体は認識されない。そういうものを実体という。
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posted at 11:09:16
たとえば、センター小説テストも、心のテストではない。評論は書いてあることのテストというが、それなら小説テストは、言い換えのテスト。それを心=心情というから、分らなくなる。心情とは心ではなく、言い換えのこと。それはテストでなくても同じというだけ。@LitoSnowfield
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posted at 11:05:14
戦後教育的には心の共同体を目指しているように錯覚されるので、それを相対化する現代文的には心がないという。その齟齬が分らなくなってしまうと、それこそ相手に心ばかり読みに行き、読解やコミュニケーションから敗退してしまうという。@sunamajiri @LitoSnowfield
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posted at 10:59:33
おそらく単純な齟齬がある。現代文的には心など無いが、戦後教育的には心の共同体になろうとしている。いいかえると近代化は脱共同体のはずが、近代を解体して公平とする戦後では、心が共同体になった。@LitoSnowfield
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posted at 10:59:09
身体を探す必要はない。身体はすでに私と共にある。――私は運動の目標点に向かってそれを導く必要はない。身体は最初から目標点に触れており、まさに身体自身がそこに自己を投げかけるのである。運動における、私の決心と私の身体との関係は、魔術的な関係である。『知覚の現象学』
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posted at 10:52:54
相手を心だと慮る上滑りな人には、じつは心がない(^-^)/ @LitoSnowfield 「内面がある」とされる方にとって「内面がない」というのは、とても恐怖のようですね〜(*uou)? 本当はとてもスッキリしたことなのに
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posted at 10:52:44
それこそ、コミュニケーションを内面を隠すものと思っている人は、ツイッターで言葉を布置するコミュニケーションt.co/JZLvq7MA をしたりしない。つまりコミュニケートしないし、そういう人は存在しないも同然なのだ。@sunamajiri
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posted at 10:41:43
内面があると思うとコミュニケーションから撤退させられ、実際のコミュニケーションは述定のように、つまりイデオロギーではなく、詩のように単語を布置しつづけてしまう。@sunamajiri
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posted at 10:37:21
じつは多くの場合コミュニケートできず、内面という無限遡行で信仰の問題のようになる人々が喪失しているのが、この物主語のような、つまり自分を第一人称としないような、述定という言語のありようなのだ。言い換えると、コミュニケーションは述定なのだろう。@sunamajiri
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posted at 10:32:07
ところで、述定のようなものとは、誰かの断定ではなく、言葉の包摂関係や布置による定着のことだ。ある単語をある動詞で述べれば、ある意味になるということであり、その主語が誰か個人や主体や内面を指示しているわけではない。当然のことだがそういうのが読めない人がいる。@sunamajiri
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posted at 10:29:51
そう考えると、コミュニケートできるものとはフェティシズム以外の何かだ、あるいはコミュニケートできた実体は、フェティシzムや人神化以外の全てを包摂しているということになったりするのだろう。だから実体やコミュニケーションでフェティシズムを相対化できるのだろう。@sunamajiri
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posted at 10:25:45
内面化させる認識、コミュニケートさせない認識は、そもそも標識による無碍遡行のことだった。言い換えると信仰心のようなものだ。しかも、内面が無限化してしまうような認識は、自分を無限化しているわけであり、まるで人神化のような、ある種のフェティシズムなのだろう。@sunamajiri
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posted at 10:22:26
どうも内面化は、晒されることを脅威と思う、恐怖心のようなものに見えてしまう。おそらく認識というのも単なる恐怖心かなにかなのだろう。だからつねに転回しつづけるのかもしれない。それらの内面に、つまり恐怖心から隠し続けようとする人々に、用事はなさそうに見える。@sunamajiri
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posted at 10:14:03
じつは私の小学校高学年の頃に大好きだった口癖が、イデオロギーからの脱却というフレーズだった。今の言葉で言えば、相手から何かを隠そうとして内面化させるのではなく、すべて晒してしまおうという程度の意味だろう。それは内面の吐露ではない。つまり認識ではない。@sunamajiri
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posted at 10:09:44
転回も認識の変種、つまり内面なので、コミュニケーションのようなものではない。このように、認識したつもりで内面を持ってしまうと、なかなかコミュニケートできなくなってしまうものなのだろう。つまり相手から隠すようになってしまう。認識にはそういう作用がありそうだ。@sunamajiri
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posted at 10:06:44
内面こそが前近代的共同体で、コミュニケーションとは非内面自体、近代自体だといった転回は、コミュニケーション論的転回と呼ばれるようだが、カント的である転回的認識とは、単に実体ではないということに思える。認識は実体を認識しない転回のようなものなのだろう。@sunamajiri
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posted at 09:36:29
内面に一物がある人はある種のコミュニケーションから退去して、押し黙って内面自体になるよね。つまりコミュニケーションとは非内面自体。内面がなければコミュニケートできるはず。(^-^)/ @sunamajiri 内面を突き放せる能力があれば内面なんてなくなる。
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posted at 09:25:10
それこそ左翼のS君のように、法的実体でしかない組合を内面のイデオロギーにするから、個人ではない対等な利害関係という組合が過小評価され、個人主義ならぬ孤立主義という、非対等な主従関係に戻っていくのよね(^-^)/ t.co/Apfv0Ogb @sunamajiri
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posted at 01:44:03
このように、実体という術語は、たいへん便利。本当にあるものを対立項から暴き出す時に、実体か非実体かで対比すると、すぐ本物がわかっちゃうよー。みんなも意識的に使ってみよう(^-^)/ @sunamajiri
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posted at 01:21:18
このように心理的な思い込みの人間関係は非実体的なのは当然として、法的な人間関係、つまり社会的なものがじつは実体なわけよね、やはり(^-^)/ @sunamajiri 心理は実体ではないよ(^-^)/
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posted at 01:19:21
つぎに法的な関係性は心理とは関係ない、という問題があるよ。心理的な人間関係のつもりでも、それは別に法的な実体ではないから。心理は実体ではないよ(^-^)/ @sunamajiri 内面を突き放せる能力があれば内面なんてなくなる。
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posted at 01:17:01
内面がないということと、自分の心理や内面を突き放して捉えられることとは、対立項だからねー。内面を突き放せる能力があれば内面なんてなくなる。(^-^)/ @sunamajiri 自分の内面を突き放して考える@LitoSnowfield その鏡面性を気がつけない
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posted at 01:10:01
そうよ、お話のすり替えを、再生産みたいに信仰してきたのが日本的近代、ところがそれが無限にすり替えできなかったので、経済とか行き詰っちゃって、さあたいへん。だからバカはきらいなのよーww(^-^)/ @LitoSnowfield その終わらないすり替え作業が…無限地獄
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posted at 00:39:54