大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年06月08日(月)
そういうことが、新たに気付きになってしまうような暗さの中にいるのだとすると、だからこそ、カントの派生的直感の分際で根源的直感のつもりになるという、もうほんとにアホらしい悟性しかないことになる。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 20:53:00
たぶん、そんなところよ。その日本の諸学の危機は、さっき政治家ほど戦前は弾圧された大本教的なものに日本会議で拘泥するという話題 twitter.com/sunamajiri/sta... が出たけど、ヨーロッパの諸学によって、三島的に端的にリビドーが危機なんでしょう。@sayori27
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posted at 19:21:51
日本の近代化で、和魂洋才ではなく端的に西欧化は、大本教を介さないと無理なんでしょうね。戦前は大本教は弾圧されてたのに、戦後レジームからは大本教に政治家ほど戻りたがる。アメリカがカントを度外視した妙な経験論で薄弱だから、和魂の危機なんだろうな(爆)@lakudagoya
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posted at 18:03:00
端的端的。三島じゃないが、エッチしたくなっちゃうぐらい端的(^-^)/ twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 14:32:19
端的よ、カントは魂の不滅で不感症になる人達を救うポルノ。何が端的かというのは、論争は意識という魂の不滅という問題しかないという点。ちなみに、それを度外視するのを不感症という。twitter.com/sunamajiri/sta... twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 14:31:17
このカント的な魂の不滅という議論は、言い換えれば、意識が魂のように不滅なら、すぐにまた輪廻してしまい、死を先駆できないから、リビドーは不感症しか得られない、という程度の他愛ない問題。このことが日本では文学としてもっとも鋭く表出するのだ。
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posted at 14:10:13
というのは、三島が天人五衰で構想では輪廻を、実作では輪廻の不可能性をサーガとして自決した点 twitter.com/sunamajiri/sta... で日本文学はフリーズしただけだが、もし輪廻があるなら最高の性感を得るのが人生の目標。しかし輪廻があるとすると不感症になるのだ。
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posted at 14:09:00
つまり、死を先駆できず不感症になるというのは、端的にラカンでもバタイユでもフロイディアンでもなんでもいいが、ハイデガーに帰って読めてないからよね。不感症になるのは、文字通りハイデガーが読めない時なのだ。カントもポルノだがハイデガーはその極意。
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posted at 14:01:07
三島が憂国を銀座のバーのママに読ませたら、ポルノ小説として読まれちゃった、というのが全てなんだが、あれ以上に興奮する道がないという。死を先駆するからリビドーもマックスになるという憂国のテーゼは、死を先駆しなきゃ不感症になる、という日本のテーゼなのよね。
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posted at 13:58:39
なるへそ。bit.ly/1Guapw1 バタイユと日本というと、どうしても三島の憂国のリビドーを連想するんだが、憂国のように切腹しなくてもエッチで興奮できることを、日本のラカニアンは求めるのよね。あの興奮が忘れられないという。
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posted at 13:56:52
ここで、物自体を忘れ、「自然の直感」なんてロマンチックで曖昧な言い方に「専念」するから、ショーペンハウアーは常に「われを忘れ」て、仏教に一性の某かを求めてしまう。twitter.com/Schopen_bot/st...
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posted at 13:21:17
そういった統一性がおそらく一性ということでもありそうだが、その統一性の許で言明を企てるなら、時間は非現前的だというハイデガーの超越論の規定の仕方になるのは無理もない。意識が恒常や不滅であるわけがないのだから、それはいわば時間を自然に帰すことでもあるのだろう。@kikuchi_8
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posted at 13:14:17
それは言い換えれば、単純に自然を変化として捉える自己の時間性のことで、恒常的な意識、つまりカントのように端的に、元来の魂の不滅のような論争問題、そうした恒常性の問題からの決定的な決裂であるのは、言うまでもないことなんでしょう。@kikuchi_8
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posted at 13:10:58
しかしながら、時間が自己の非現前性で、意識という恒常性が現前するはずがない、というのがハイデガーの超越論的規定の仕方だとすると、言明の通用性というコギトの観念要請、つまり神の文化の問題にすぐに還元されてしまうが、そうした文化的な解釈は元の木阿弥なんでしょう。@kikuchi_8
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posted at 13:07:48
神ではないという言表のようですよ。たとえば、西欧に固有の文化の問題というより、純粋直感=時間をもたない人はいない、ということでしょう。@kikuchi_8 「時間は一性」というのは「時間は全てを包括する実体=ト・ヘンだ」つまり「時間は神だ」、という言表でしょうか?
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posted at 01:52:48
2015年06月06日(土)
ツイートまとめ(^-^)/ 観念論でなく物象化論でなく唯識でもなく虚無でもなく時間を一性と規定すること
www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p...? @kikuchi_8
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posted at 17:05:00
力技、たしかに読み応えはある。ただ言ってることは却って単純ですね。今という現象は、再生の再認、概念にあるけれど、そうしたカントの様態化は、カントが時間の一性に動揺しただけだ、といった程度です。たしかに無常論のほうが深遠にみえなくもない。@kikuchi_8
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posted at 13:09:39
@sunamajiri 無常論って言うのも現象が時間性を帯びている、というお話なんですけどね。そのことはまた今度検討してみます。観念論の脱却の仕方がお話を聞いた限りでは、私からするとかなりの力技に思えますが、その辺は勉強してみます。スリリングな対話をありがとうございました。
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posted at 13:05:50
そうです。言い換えると、今は失われていない、ということです。おそらく、日本では無常論が台頭するけれど、当然ハイデガーはそれを終わらせることで、観念論を脱却している。その威力はあまりにも絶大だ。@kikuchi_8 その時間性により、思惟と直感を統合し、対象認識を現成せしめる、と。
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posted at 13:01:15
@sunamajiri 認識の形式に関わる思惟と内容に関わる感性と、それをメタに統合する規定としての「時間性」、そしてその時間性により、思惟と直感を統合し、対象認識を現成せしめる、と。
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posted at 12:58:29
端的にハイデガーはそこから抜け出てますね。結論から言えば、時間の一性を規定とできないと、その概念論の問題に陥り、対象が与えられない。@kikuchi_8 直感と思惟を二元的に立てると、後々困難ですね。人間の認識作用を~ その分析作業をしているのもまた認識作用なわけですから。
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posted at 12:56:00
@sunamajiri 直感と思惟を二元的に立てると、後々困難ですね。しかし、直感と思惟の区別は一応ある。なかなか決着つきそうになさそうですね。人間の認識作用を対象化して概念的に分析すること自体が極めて難事です。その分析作業をしているのもまた認識作用なわけですから。
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posted at 12:52:57
そうです。ハイデガーは、カントがアリストテレスの構想力の問題系を、無理やり再生の綜合へ暴力的に押し込め、直感と思惟の二元論にした、だから自分も暴力でそれを構想力=時間=自己という超越論性に引き戻す、と宣言するんです。もちろん問題はそのあとの動揺です。@kikuchi_8
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posted at 12:47:09
@sunamajiri なるほど。「時間性で押し切るから、不毛な観念論はやめましょう」という話なのですね。不毛な形而上学を終わらせる、という意図はある意味カントを引き継いでいるわけですかね。論理構成は違っても。
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posted at 12:44:13
そうですそうです、だから極めてばかみたいな話なのです。ハイデガーも戦前のカント書で新カント派を完敗させて以降、メタ存在論に転回して、やめてしまう。@kikuchi_8 超越論的主観が与える時間性で押し切ることで不毛な観念論をしなくてすむようにする、という処置ということでしょうか。
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posted at 12:42:11
そうです。だから冒頭に示唆したように、中途半端な観念論から、時間の一性という観念論の全体化なんです。これで観念論をしなくてすむという。@kikuchi_8 私にはどうしても、そのような思考は、後付の観念操作に思えてしまうのです。
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posted at 12:38:50
@sunamajiri 私にはどうしても、そのような思考は、後付の観念操作に思えてしまうのです。対象と時間は其々分離してあり、対象が現前した時に超越論的主観が改めて時間性を与える、という構成だとすると、認識の構造を後付で概念的に説明する為の方便と思えます。
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posted at 12:36:02
逆です、ハイデガーはカントがその時間的幅を取り逃がし、対象を与える超越論的規定を、時間の一性に置くことに失敗した、といっているんです。@kikuchi_8 心も時間という形式を持っているようにも思うのですが。つまり、「作用」という限りは、時間的幅があるはずです。
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posted at 12:29:04
@sunamajiri 心を認識作用と捉えるならば、心も時間という形式を持っているようにも思うのですが。つまり、「作用」という限りは、時間的幅があるはずです。対象は常に認識された対象なので、対象が時間性を持つならば、その認識自体も時間性を持つように思うのですが。
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posted at 12:06:54
そうですね。きのうLINEチャットしてたんだが、問題は対象を与える超越論性の規定は時間だ、ということですね。それは言語論的転回なのです。つまり物自体をコトと捉えられない心の問題ではない。www.evernote.com/l/AJ28G1A6T09L... @kikuchi_8
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posted at 12:03:48
@sunamajiri 心を実体として想定すると物象化論になりますが、心を刹那滅としての認識作用として捉える感じだと思います。「モノ」としての心というより「コト」としての心。「物象化」=モノ化。
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posted at 12:01:00
対象は数学のような規則が与える、とカントが動揺し、想像力を再生の綜合という様態にすることでは、観念論は物象化論に直結する。つまり心が物を生み出してしまう。そんなことはあり得ないから、対象は時間が規定する、というのは言語論的転回で、いわゆる観念論ではない。@kikuchi_8
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posted at 11:53:15
もうざっくり言うべきだが、観念論が唯識や心になるのは仏教徒ですね。それは心を想定した物象化論。一方、カントの物自体に一人拘るハイデガーは、柄谷がやはり物象化論から誤解するのだが、超越論性の規定には時間しかない、という言語論的転回による観念論ですね。@kikuchi_8
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posted at 11:45:12
@sunamajiri コメントありがとうございます。ハイデガーの事は勉強不足ですが、カントの「物自体」は、廣松渉的には物象化的錯視」に当たるのでしょうか。コペンハーゲン解釈の問題は、私も勉強中です^^主格の関係、認識論を考えるのにとても大きなヒントになりそうです。
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posted at 05:23:57
物象化は、ハイデガーがカントの物自体から斥けた心理主義なんでしょうかね。コペンハーゲン問題、私も勉強中でした(^-^)/ @kikuchi_8 www.evernote.com/l/AJ26Q_4dZvRM...
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posted at 05:07:58
アメリカでは自由というのは、いってみれば文学と現実の境目がなくなることをいうのだが、そういう錯覚も元をたどれば、これだけ田舎者という。エマソンなんてほんとに素朴というか他愛無いというか気の毒というか。www.evernote.com/l/AJ1K-xu9crpA...
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posted at 04:10:56