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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2015年11月19日(木)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

さて、ここまでGA26-199の転回の内的必然性を、疎外論からの転回(カントの第一原因に対する客観からの転回)として解釈したが(内的必然性とは疎外論からの転回の内的必然性である)、それを~ @BeTakada pic.twitter.com/n3sXUtYayA

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posted at 02:36:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

それを、丸山論文の結論部 bit.ly/1PNUJpn から見てみましょう。転回が内的必然的なのは、疎外論(第一原因に対する客観)が転回を必然化するということですが、これをハイデガーが表明できているか、という問題です。@BeTakada

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posted at 02:37:01

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

疎外論からの内的必然的な転回をハイデガーは表明できているか。それは丸山結論部冒頭の「ハイデガーのテクストの弱さ」の問題です。そのため従来は転回は内的必然性として読まれなかった、とあります。@BeTakada pic.twitter.com/YHzBkqDnFh

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posted at 02:40:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

つまり、疎外論からの転回という内的必然性を断念するドグマがあり、内的必然性があるというハイデガーの表明を、無視した解釈がドグマ化してしまった、というのが、そこに付せられた注15でしょう。@BeTakada pic.twitter.com/GHzRUjRtSg

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posted at 02:41:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

もちろん、内的必然性はハイデガーの語り方(順序)の必然性だが、しかしそれは疎外論が齎す転回の内的必然性である。ドグマはそれ自体で解体されようとするものなのだ。ドグマであることがここでは対立的に外的と形容されている。@BeTakada

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posted at 07:16:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

ハイデガーの順序では、超越を世界内存在と言い換え、それをまた超越という言い方に戻す。それは、現存在であることから疎外された人間を、現存在と既成的に語ること(存在と時間)から、現存在になっていない未然的な人間を語ること、への順序性だ。@BeTakada

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posted at 07:23:25

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

この順序は、メタ存在論への転回後の、事実的実存の還元のために必然化される。つまり『存在と時間』では既成の現存在として語られた人間が、単なる存在者という現存在の未然性として語られる。GA26では、人間は現存在ではなく非現存在、つまり存在者と語られているのだ。@BeTakada

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posted at 07:34:04

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

ちなみに、ハイデガーは用語(ジャーゴン)がすぐにひっくり返る。とくに現存在は『存在と時間』では、人間の事実的実存のことだが、GA24ではカントの現存在が事実的実存でないという意味で使われ、GA26では人間との対立用語として使われるので、慣れるまで一苦労なのだが。@BeTakada

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posted at 07:54:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

GA26で現存在ではないものとしての人間が語られるのが、丸山が引用する世界入場(全集では世界進入)の一文。これは事実的実存からみれば、世界内存在する現存在とは、世界に進入する可能性、つまり途上のことだ、という文。@BeTakada pic.twitter.com/xU7xpaBEsT

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posted at 07:58:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

この存在了解以前の人間は眼前の「周囲の自然に埋没してしまって区別ができない」存在者だが、この「全体における存在者」としてしか、旧来の客観という形而上学が疎外した、事象としての人間は現存在として生起しない。@BeTakada pic.twitter.com/P2WpOq3kfq

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posted at 08:15:20

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

よって、「全体における存在者」とは、存在了解する前の人間が存在了解=現存在に至る被投のことで、それに対する「存在者の全体」とは人間を眼前存在と企投し、存在了解できないことの謂なのだろう。@BeTakada

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posted at 08:19:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

いずれにせよ、客観とは第一原因ではない根源的直観の「われわれ」であるが、客観を前提させる旧来の形而上学では、全体における存在者、つまり事実的存在としての人間が、存在了解=現存在であることから疎外されている、と語るために必然化した順序なのだ。@BeTakada

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posted at 08:24:24

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

GA26-250「実存する者としてのわれわれがそのうえ前もって諸客観を前提する必要など最初から全然ない」と、後の疎外論に至るデカルトの方法的不徹底、非本来的形而上学を解体するには順序が必要だ、と言っているのだ。@BeTakada pic.twitter.com/jxu3VguhsL

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posted at 08:39:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

事実的実存も、即自的客観というドグマを解体する順序ではない。実存は客観を解体しない、順序が客観を解体する。そこにはもちろん疎外論ではドグマは解体できないことも含まれている。疎外論は誤った順序である。しかし、日常的先存在了解はより決定的に誤った順序だ、というのがメタ存在論。

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posted at 18:10:03

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月19日

そう思いますね。概念的だと分かりずらいので、単線で略図化すれば、非本来的形而上学→客観→疎外論→実存論→ハイデガーの順序性(先存在論的存在了解=基礎存在論→メタ存在論=非眼前存在)→存在了解→本来的形而上学という。そこに丸山論文の順序性。@BeTakada

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posted at 22:32:51

2015年11月20日(金)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

ハイデガーの本来的形而上学への順序は、方法そのものですね。順序として略図にしてみました。形而上学は葬られるもの、などと安易に短絡すると、方法自体が凡て存在忘却されるのだから、怖ろしいです。@BeTakada pic.twitter.com/vw6fRj8uXz

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posted at 03:58:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

要するに、いわゆる哲学史、つまり疎外論から発する弁証法が、こうした順序としての方法そのものを忘却させたことを、いわば方法として本来化するようなことを、存在了解というわけでしょうから、こうした順序性=方法というのは、本来の歴史性でもありますしね。@BeTakada

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posted at 04:12:42

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

メタ存在論への転回が、『ライプニッツ講義』GA26で語られるのも、もちろん偶然ではないですよね。明証とは論理学ではなく、予定調和や弁証法では先存在論的で、存在了解への転回=明証が生起しない、とひたすら語っているわけですから。いわば本来的形而上学への転回なのです。@BeTakada

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posted at 04:25:42

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

論理学的に予定調和したり、霊魂の不滅に潜勢したり、弁証法的に神の歴史が完成したりするのではなく、有限者としての人間を方法化するのです。それが日常的先存在了解(我があるというだけ)による事実的実存=基礎存在論からは判明にならない、と訴えているわけです。@BeTakada

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posted at 04:31:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

それが、『存在と時間』では、現存在(性)が既成の人間の日常、つまり先存在論が語られたが、『ライプニッツ講義』GA26では、人間が未だ現存在になっていない未然性、として語られるということでしょう。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 04:40:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

先存在論的日常的存在了解は、ただ我ありと思惟して微睡んでいるに過ぎない。スピノザがそれは方法ではないと懐疑し、ライプニッツが並行的な先存在論的存在了解を語ろうとした。それに対して、人間の現存在の未然性を語ることは、いわば方法の覚醒を語ることです。@BeTakada

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posted at 04:47:20

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

注意すべきは、「存在一般の意味への問い」は、宇宙論でも神学でもない(特殊形而上学に二重化する非本来的形而上学ではない)。全体における存在者 twitter.com/sunamajiri/sta... が、人間の方法自体であるように、人間の意味という本来的形而上学を問うている。

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posted at 04:54:14

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

このように、非本来的形而上学から本来的形而上学への転回とは、人間が(神にとって)何かであることから、人間がそれ自体で意味、有意義に転化(転回)することを、語っている。@BeTakada

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posted at 04:55:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

これを言い直すと、反省という近代哲学の欺瞞が炙りだされていて、存在了解=理解とは、対象として捉えないこと、自己対象化をやめること、即自をやめること、なんですよね。だから自由も自発性のことではないし、存在も実在性のことではない。@BeTakada

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posted at 05:49:28

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

つまり、ハイデガーの言う「存在一般の意味への問い」も、それを順序=方法化している「全体における存在者」も、対象認識のことでないばかりか、自己を認識しようとしないことでしかない。存在一般というと、つい一般存在のことと思うが、それは常にすでに自己のことであるのです。@BeTakada

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posted at 05:49:51

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

ハイデガーの言い方は、私たちにはかなり月並みだが、彼らにはオオゴトなわけです。存在一般の意味は万物ではない。それはバウムガルテンが、特殊(神学、宇宙論、心理学)を形而上学の一般性から二重化させ、万物を語ろうとしたことへの、反動ないし批判なわけです。@BeTakada

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posted at 07:28:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

それが、フォアゾクラティカーは、世界をコスモスといい、それは自然(万物)ではなく人間のことあった、という前の節「世界という現象」twitter.com/sunamajiri/sta... 。にも拘らず、デカルト以後、カントが自然を二重化させ、万物を語ろうとしてしまった。@BeTakada

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posted at 07:29:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

現代では、宇宙どころか心理ですら科学、つまり形而下の問題だが、カントが自然どころか動力学、脳解剖のことである脳科学、さらにはアストラル体まで動員して、霊魂の不滅の実在性を自由と語り、新カント派まで心的実在論という非本来的形而上学を語っていた。@BeTakada

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posted at 07:30:28

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

それを批判すべく、存在一般の意味は、形而下の万物ではなく、人間という形而上だ、とハイデガーは必死に訴えてるわけですが、どうしても私たちには万物を語っているように聴こえてしまうわけです。それでこの自由の問題が、意味不明な困難なものに感じてしまうのでしょう。@BeTakada

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posted at 07:34:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

それが、フォアゾクラティカーは、世界をコスモスといい、それは自然(万物)ではなく人間のことであった、という前の節「世界という現象」twitter.com/sunamajiri/sta... 。にも拘らず、デカルト以後、カントが自然を二重化させ、万物を語ろうとしてしまった。@BeTakada

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posted at 08:02:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

現代では、宇宙どころか心理ですら科学、つまり形而下の問題だが、カントが自然どころか動力学、脳解剖のことである脳科学、さらにはアストラル体まで動員して、霊魂の不滅の実在性を自由と語り、新カント派まで心的実在論という非本来的形而上学を語っていた。@BeTakada

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posted at 08:03:17

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

それを批判すべく、存在一般の意味は、形而下の万物ではなく、人間という形而上だ、とハイデガーは必死に訴えてるわけですが、どうしても私たちには万物を語っているように聴こえてしまうわけです。それでこの自由の問題が、意味不明な困難なものに感じられてしまうのでしょう。@BeTakada

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posted at 08:03:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

しかし、次節「自由と世界」bit.ly/1MIQDcOtwitter.com/BeTakada/statu... 不自由が第一次的で、それが順序性の内的必然性だ、と約言するのは秀逸です。これで透明化した世界が次の節でいよいよ、内的時間性の解体になっていくのですが。

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posted at 08:03:59

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

内的時間(心的時間)がいかに永遠時間であり、有限的な人間を語らないか、という語りの根源時間性については、別途話題にすべきだが、ハイデガーがヘーゲル的な哲学史を、思想史的に解体するのも、潜勢性に疎外=二重化したカントの自由を問題にするためです。@BeTakada

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posted at 18:37:58

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

つまりなぜ形而上学は旧来のまま終わってしまったのか。それは形而下である万物と、人間という形而上が、カント以来決定的に混同されているからだ、ということをハイデガーは『カント書』に至るまで判明にしようとしているので、全てはその伏線です。@BeTakada

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posted at 18:38:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

カント書ではより頻繁に、用語の「孤立化=純粋化」という言い方をする。それは端的に、形而下=万物は、形而上=人間ではない、というような人間の孤立化のこと。それはカントが、自然と世界、数学と力学、万物と人間を混同する自由を語ったことから、用語を孤立化する作業です。@BeTakada

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posted at 19:02:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

タカ基地さんが twitter.com/BeTakada/statu... と約言した「自由と世界」bit.ly/1MIQDcO はキルケゴール的実存を批判するブーバー的我と汝は独我論であり、自由の規定(孤立化)を語らない、という作業箇所です。@BeTakada

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posted at 19:05:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

そうした作業も、未だに形而上学が旧来のままで、だから形而上学は衰退し本来化しない、という批判です。形而上は形而下ではない、という存在論の地平が本来性なのに、カントは万物と人間、形而下と形而上を混同する非本来性に疎外されている、と批判しているのです。@BeTakada

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posted at 19:11:56

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

このように、丸山論文が順序性として問題にする「全体における存在者」「存在一般の意味への問い」というメタ存在論の用語は、万物ではなく人間一般の意味を問う、という点に注意が必要なのです。本来的にコスモス=世界とは形而下ではなく人間の形而上だ、という意味です。@BeTakada

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posted at 19:12:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

あえて哲学学的に付言すると、ハイデガーの野暮ったい語り方は、メタ存在論という地平創造を宣言するための作業的な語りで、本来的な根源的語である端的な語り方ではないのです。しかしそれによってしか、人間とは何かという旧来の形而上学から、人間とは如何にか、という順序=方法を語れないのです。

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posted at 19:24:39

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

メタ存在論(方法の順序化)への転回以後、ハイデガーが問題にする同一律=真理とは、本来的な形而上学である作業的な語り(本来的な予備学)と、根源的で端的な時間的な語りを統一する、というような目的論なのだと、私には思えます。それが詩学なのでしょう。@BeTakada

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posted at 19:30:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

しかし、世界=方法は無なのです。「自由と世界」bit.ly/1MIQDcO は、方法=世界は方法論ではない、世界とは無だという次節の脱自的時間根源への示唆です。順序が方法なのも、方法は実践以上に遂行自体で、それ自体で方法論として意識化されない、ということです。

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posted at 19:59:00

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

ハイデガーは方法とは順序=遂行歴史という無で、それに対して時間が有だというだけですが、しかしその途上である「自由と世界」に拘泥するのが、ハイデガーと丸山の順序=内的必然性であるのか、というのは丸山論文の順序からしか解明できない、というだけでしょう。@BeTakada

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posted at 20:19:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

順序が錯綜するので、もう一度丸山論文の先存在論的存在了解=日常性から、存在論への転回の内的必然性の順序で考えたほうがいいです。@BeTakada はい、生起=より前〜今〜より先=歴史性を時制(アプリオリ)として規定し、中立的存在者(孤立化)として明証する作業が残ってます

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posted at 20:23:11

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

私達が、どうしても別の順序で語れると錯綜するのは、非本来的形而上学を依然として前提 twitter.com/sunamajiri/sta... しているから、というだけでしょう。ハイデガーのように本来的形而上学を前提すると、ある順序が内的必然化するという話なのですから。@BeTakada

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posted at 20:31:37

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

それは、身近なツイッターユーザーが、形而上学は過去のものだ、と踏まえて語るのでは見えてこないことがある、というようなことです。彼らは必ず、仏教という非本来性の語彙に戻り、却って神への信仰ということを語り始めるのだが、方法とは信仰のことではない。@BeTakada

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posted at 20:55:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

逆に、私がこの内的必然性の順序を問題にするのも、潜勢と現勢という地平から、形而下と形而上という存在論の地平を、見下ろしているからです。潜勢と現勢とは規定論だが、それは存在論のメタレベルなのです。@BeTakada

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posted at 20:55:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

重要なのは、丸山論文の順序では、「全体における存在者」も「存在一般の意味への問い」の「存在一般」も、万物ではない人間一般という意味だ、と解明されている点で、ハイデガーの順序では、それは時間を根源とする語り方(歴史)だ、とさらに解明されている点です。@BeTakada

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posted at 20:56:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

簡単な話です。語りは因果律(第一原因が齎す永遠時間)ではなく、順序=遂行歴史だということです。時間は事柄においてしか脱自的に意味化=志向意識化できない、ということです。問題は存在了解(4つの根本問題)が、なぜ脱自的時間なのか、という方です。@BeTakada

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posted at 21:11:37

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

転回はこのように文学論化(文学論の始元諸根拠)です。しかし、文学論に転回できていないと、形而上学が実体論になってしまい、それは受け入れがたく、時間も即自(時間をそれ自体で意識対象にできること)と思い、因果律から第一原因と永遠性に、頽落してしまうんです。@BeTakada

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posted at 21:15:54

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

カント書に至る手前の『ライプニッツを端緒とする論理学の始元初根拠』全集26巻は、メタ存在論への転回、つまり論理学から文学論への転回の始原諸根拠(規定)論なのです。文学論のバイブル(規定集)です。@BeTakada

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posted at 21:48:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

それは、即自的時間=内的時間では、語りの順序は因果律となり、始原を点時間とする第一原因から、永遠時間や予定調和や弁証法的止揚を語りだしてしまうが、そこからの転回を物語るということです。それは時間は即自できないからです。@BeTakada

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posted at 21:48:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

しかし、なぜ時間は即自できないのか、という順序=方法が内的必然的に問題です。それが丸山論文の順序である、先存在論的存在了解=日常性ではデカルトの漠然とした我あり=実在論 twitter.com/sunamajiri/sta... だが、それは方法ではない、という意味です。@BeTakada

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posted at 21:49:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

それゆえ、順序が方法なので、どの順序に準拠して話すか、ということです。私の順序でも良いし、タカ基地さんの順序でもよいし、丸山論文やハイデガーという既存テクストの順序でもいいが、しかし順序でないものは、方法的な事柄ではない、ということです。@BeTakada

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posted at 21:51:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

つまり、順序性がぐちゃぐちゃになるツイッターでは、こうした方法への問いは、どれかテクストを順序として準拠しないと、おそらく隠蔽されてしまうのです。テクストを解釈するか、テクスト解釈ではなく、自力でその順序を語るか、です。それを意識的にしないと方法的ではない。@BeTakada

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posted at 21:53:39

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

しかし、丸山論文の順序が解明しているように、端的に日常性=先存在論的存在了解=デカルトは、存在了解=方法ではない=ハイデガー、という図式から話題にしないと、事象性とは何のことだかわからなくなりますよ。@BeTakada pic.twitter.com/c3iDj2Iv8T

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posted at 21:58:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

ハイデガーの言う先存在論的存在了解=日常性とはデカルトのコギト・エルゴ・スムの我ありという実在論のことです。それでは語り(エゴ・サム・コギタンス)の方法=根源時間にはならないのです。@BeTakada

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posted at 22:17:14

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

先存在論的存在了解では、時間は即自=内的時間になり、永遠時間(霊魂の不滅)に、カントどころか、フッサールをも疎外していることになる、というのがハイデガーの先存在論的日常的存在了解からの転回、という批判の仕方ということなのでしょう。@BeTakada

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posted at 22:23:31

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

というように、ハイデガーの転回を、論理学の始原諸根拠から文学の規定論への始原諸根拠への転回という積極性で読んでしまう私の順序 twitter.com/sunamajiri/sta... の方がメタレベルなのです。@BeTakada

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posted at 22:26:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

ちなみに、疎外 twitter.com/sunamajiri/sta... というのは、現世利益ではなく来世利益のように欺く語り方のことなのだが、文学ではそれはサブジャンルというだけだが、一般社会的にはそれを宗教というのだ。@BeTakada

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posted at 22:37:09

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月20日

本来はデカルト以後なるものは、要請=規約であることの自覚性なのよね。ところが、それが要請=規約であるということを、人は簡単に忘れてしまう、という。twitter.com/Novalis_bot/st...

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posted at 23:48:51

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