大本薫 Kaoru Ohmoto
- いいね数 11,694/13,358
- フォロー 2,831 フォロワー 2,653 ツイート 290,630
- 現在地 東京 LA NY 茅ヶ崎 鹿児島
- Web http://www.sunamajiri.com/
- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年11月19日(木)
さて、ここまでGA26-199の転回の内的必然性を、疎外論からの転回(カントの第一原因に対する客観からの転回)として解釈したが(内的必然性とは疎外論からの転回の内的必然性である)、それを~ @BeTakada pic.twitter.com/n3sXUtYayA
タグ:
posted at 02:36:16
それを、丸山論文の結論部 bit.ly/1PNUJpn から見てみましょう。転回が内的必然的なのは、疎外論(第一原因に対する客観)が転回を必然化するということですが、これをハイデガーが表明できているか、という問題です。@BeTakada
タグ:
posted at 02:37:01
疎外論からの内的必然的な転回をハイデガーは表明できているか。それは丸山結論部冒頭の「ハイデガーのテクストの弱さ」の問題です。そのため従来は転回は内的必然性として読まれなかった、とあります。@BeTakada pic.twitter.com/YHzBkqDnFh
タグ:
posted at 02:40:12
つまり、疎外論からの転回という内的必然性を断念するドグマがあり、内的必然性があるというハイデガーの表明を、無視した解釈がドグマ化してしまった、というのが、そこに付せられた注15でしょう。@BeTakada pic.twitter.com/GHzRUjRtSg
タグ:
posted at 02:41:23
GA26で現存在ではないものとしての人間が語られるのが、丸山が引用する世界入場(全集では世界進入)の一文。これは事実的実存からみれば、世界内存在する現存在とは、世界に進入する可能性、つまり途上のことだ、という文。@BeTakada pic.twitter.com/xU7xpaBEsT
タグ:
posted at 07:58:48
この存在了解以前の人間は眼前の「周囲の自然に埋没してしまって区別ができない」存在者だが、この「全体における存在者」としてしか、旧来の客観という形而上学が疎外した、事象としての人間は現存在として生起しない。@BeTakada pic.twitter.com/P2WpOq3kfq
タグ:
posted at 08:15:20
GA26-250「実存する者としてのわれわれがそのうえ前もって諸客観を前提する必要など最初から全然ない」と、後の疎外論に至るデカルトの方法的不徹底、非本来的形而上学を解体するには順序が必要だ、と言っているのだ。@BeTakada pic.twitter.com/jxu3VguhsL
タグ:
posted at 08:39:08
事実的実存も、即自的客観というドグマを解体する順序ではない。実存は客観を解体しない、順序が客観を解体する。そこにはもちろん疎外論ではドグマは解体できないことも含まれている。疎外論は誤った順序である。しかし、日常的先存在了解はより決定的に誤った順序だ、というのがメタ存在論。
タグ:
posted at 18:10:03
非公開
タグ:
posted at xx:xx:xx
非公開
タグ:
posted at xx:xx:xx
2015年11月20日(金)
ハイデガーの本来的形而上学への順序は、方法そのものですね。順序として略図にしてみました。形而上学は葬られるもの、などと安易に短絡すると、方法自体が凡て存在忘却されるのだから、怖ろしいです。@BeTakada pic.twitter.com/vw6fRj8uXz
タグ:
posted at 03:58:40
それが、『存在と時間』では、現存在(性)が既成の人間の日常、つまり先存在論が語られたが、『ライプニッツ講義』GA26では、人間が未だ現存在になっていない未然性、として語られるということでしょう。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada
タグ:
posted at 04:40:50
注意すべきは、「存在一般の意味への問い」は、宇宙論でも神学でもない(特殊形而上学に二重化する非本来的形而上学ではない)。全体における存在者 twitter.com/sunamajiri/sta... が、人間の方法自体であるように、人間の意味という本来的形而上学を問うている。
タグ:
posted at 04:54:14
それが、フォアゾクラティカーは、世界をコスモスといい、それは自然(万物)ではなく人間のことあった、という前の節「世界という現象」twitter.com/sunamajiri/sta... 。にも拘らず、デカルト以後、カントが自然を二重化させ、万物を語ろうとしてしまった。@BeTakada
タグ:
posted at 07:29:10
それが、フォアゾクラティカーは、世界をコスモスといい、それは自然(万物)ではなく人間のことであった、という前の節「世界という現象」twitter.com/sunamajiri/sta... 。にも拘らず、デカルト以後、カントが自然を二重化させ、万物を語ろうとしてしまった。@BeTakada
タグ:
posted at 08:02:50
しかし、次節「自由と世界」bit.ly/1MIQDcO を twitter.com/BeTakada/statu... 不自由が第一次的で、それが順序性の内的必然性だ、と約言するのは秀逸です。これで透明化した世界が次の節でいよいよ、内的時間性の解体になっていくのですが。
タグ:
posted at 08:03:59
タカ基地さんが twitter.com/BeTakada/statu... と約言した「自由と世界」bit.ly/1MIQDcO はキルケゴール的実存を批判するブーバー的我と汝は独我論であり、自由の規定(孤立化)を語らない、という作業箇所です。@BeTakada
タグ:
posted at 19:05:55
あえて哲学学的に付言すると、ハイデガーの野暮ったい語り方は、メタ存在論という地平創造を宣言するための作業的な語りで、本来的な根源的語である端的な語り方ではないのです。しかしそれによってしか、人間とは何かという旧来の形而上学から、人間とは如何にか、という順序=方法を語れないのです。
タグ:
posted at 19:24:39
しかし、世界=方法は無なのです。「自由と世界」bit.ly/1MIQDcO は、方法=世界は方法論ではない、世界とは無だという次節の脱自的時間根源への示唆です。順序が方法なのも、方法は実践以上に遂行自体で、それ自体で方法論として意識化されない、ということです。
タグ:
posted at 19:59:00
私達が、どうしても別の順序で語れると錯綜するのは、非本来的形而上学を依然として前提 twitter.com/sunamajiri/sta... しているから、というだけでしょう。ハイデガーのように本来的形而上学を前提すると、ある順序が内的必然化するという話なのですから。@BeTakada
タグ:
posted at 20:31:37
しかし、なぜ時間は即自できないのか、という順序=方法が内的必然的に問題です。それが丸山論文の順序である、先存在論的存在了解=日常性ではデカルトの漠然とした我あり=実在論 twitter.com/sunamajiri/sta... だが、それは方法ではない、という意味です。@BeTakada
タグ:
posted at 21:49:47
しかし、丸山論文の順序が解明しているように、端的に日常性=先存在論的存在了解=デカルトは、存在了解=方法ではない=ハイデガー、という図式から話題にしないと、事象性とは何のことだかわからなくなりますよ。@BeTakada pic.twitter.com/c3iDj2Iv8T
タグ:
posted at 21:58:38
というように、ハイデガーの転回を、論理学の始原諸根拠から文学の規定論への始原諸根拠への転回という積極性で読んでしまう私の順序 twitter.com/sunamajiri/sta... の方がメタレベルなのです。@BeTakada
タグ:
posted at 22:26:57
ちなみに、疎外 twitter.com/sunamajiri/sta... というのは、現世利益ではなく来世利益のように欺く語り方のことなのだが、文学ではそれはサブジャンルというだけだが、一般社会的にはそれを宗教というのだ。@BeTakada
タグ:
posted at 22:37:09
本来はデカルト以後なるものは、要請=規約であることの自覚性なのよね。ところが、それが要請=規約であるということを、人は簡単に忘れてしまう、という。twitter.com/Novalis_bot/st...
タグ:
posted at 23:48:51