大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2016年12月15日(木)
bit.ly/2hHfA54 は、いわゆる無の問題、すなわち魂・世界・神というヴォルフの特殊形而上学、つまり古い形而上学を無効化すること、という図式論が純粋理性批判の最奥部だ、というハイデガーのカント書を、純粋理性批判から内在的に論じている。
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posted at 12:22:48
佐藤慶太《カント『純粋理性批判』における概念の問題》bit.ly/2hHfA54非常に図式論的でよい。その後に、《定義・像・図式--『純粋理性批判』「図式論」の役割とその哲学史的位置について》 ci.nii.ac.jp/naid/40018835258 という論考も。
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posted at 12:22:24
2016年12月14日(水)
語彙を解体するというのは、存在に行き着くことなのです。デカルトでは思惟、カントでは悟性なら、アリストテレスなら霊魂なのです。ハイデガーでは存在だが、それはアリストテレスの霊魂が構想力で、デカルトの思惟もカントの悟性も、構想力=時間によるからだ、という解体です。@inja650rr
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posted at 02:07:37
2016年12月11日(日)
非公開
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posted at xx:xx:xx
さて、音楽教室の頭に戻れてきた。霊性(と解釈すること)を全面的に許す=全肯定だけでは、音楽にならないからだ。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 10:53:21
これ以外(つまり被制作性暴露としての固有名)は、すべて非存在論、あるいは形而上学であり、それは存在=自我の基礎づけとしての時間性、アプリオリテートに対するテンポラリテートではなく、格律(表明性)ではなく、単なる宗教だ。
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posted at 10:50:39
bit.ly/2hlrTUf ハイデガーのカント解釈の表明性は、むしろGA31の因果論に対する時間論の表明で、それがスピノザ的な因果論に対する迂遠なカントの批判だ、という私の最近の言い方に接合されているはずだ。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 10:49:53
昨日のメモ bit.ly/2hlrTUf のようにハイデガーのカント解釈の表明性は、むしろGA31の因果論に対する時間論の表明で、それがスピノザ的な因果論に対する、迂遠なカントの批判だ、という私の最近の言い方に接合されているはずだ。それ以外は形而上学である。
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posted at 10:45:43
確かな言い当て、言挙げ、表明とは、時間に基礎づけられた存在(自我)の言表だが、それは単に被制作性暴露=形而上学や反知性主義では済まされない。この問題を取り出せないのは、カント書論~フリードマン史観論がGA31での表明性を、扱いきれないからだ。
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posted at 10:43:10
つまりなぜデリダのように、転回としてのテクネーを終末論と捉え、ユダヤ教への転倒が生じたのか。反知性主義とはむしろそちらのことであるはずだ。共通するのは、木田元とホフスタッターのGA24解釈。ホフスタッターの反知性主義に対して、木田元のカントの被制作性暴露=形而上学だ。
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posted at 10:41:10
日本では文系以上に理系の閉塞だが、こうした反知性主義の震源は(ラポパートがいうように)、さしあたりホフスタッターのGA24解釈が、木田元のカントの被制作性=形而上学以上に、デリダ批判たり得なかった、という理路にあるだけだが、こうした郵便論がなぜ日本では存在論からの退却になるのか。
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posted at 10:36:20
ラポパートがいうように、米文学から始まった、デリダ批判(ホフスタッターの反知性主義論)に対して、たしかにデリダはハイデガーからユダヤ教(固有名)に転回ならぬ転向しただけだが、ホフスタッターのほうがよほど反知性主義的だ、という話であるはずだ。
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posted at 10:31:50
つまり漠然とした思いが存在を基礎づけている(形而上学)というよりは、厳然と時間を思考することが、自我の存在の根拠を言い当てている(存在論)、という単純なことが、またしても延長論と奥行論の相克に差し戻されているのだが、これとフリードマン史観をスッキリ接合する方法はないものか。
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posted at 10:29:51
時間が存在=基礎づけであるとは、我思うだけではなく、時間を考える超越論的我が、自我の存在の基礎づけだ、というだけの単純な話であるのに、なぜ彼らは時間を考える=基礎付け bit.ly/2hlrTUf 、つまり物自体を放置しているのだろう?
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posted at 10:18:01
それにしても、TLは、なんでいまさらカルテジアンなんだろう。カルテジアン(とくに延長論)の妥当性というより、ハイデガリアン(奥行論)を言表することの、妥当性という土俵であるに過ぎないのに。bit.ly/2gNhDA9
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posted at 10:15:08
両者を接合すると、アナクシマンドロス論としての郵便論は、なぜ我思うだけれで、我時間を考える故に存在に至らないのだろう。つまりカルテジアン(延長論や表象論)から、なぜハイデガリアン(奥行論というより存在論)に至らず、彼らは形而上学的なのだろう。
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posted at 10:14:43
今日は、米文学のラポパートのデリダ批判と入谷時間論のハイデガー批判の言語論的転回(言語=時間性)をめぐって。bit.ly/2hjQeXV twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 10:08:51
起きた。午後から生徒さんだが、起き抜けメモでスッキリ。昨日は、存在=基礎づけは時間である、という理想社版『物への問い』近藤の解説、つまり「我思うに対する、我時間を考える故に存在する」に関して。bit.ly/2hlrTUf
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posted at 10:08:33
2016年12月09日(金)
時間についての研究書でした。その中のある文に、私はひどく考えさせられましてね。こんな文です。『ある瞬間から、宇宙には〝時〟が存在し始めた』。この文を書いた科学者は無責任にも、『この概念はわれわれの理解の範疇を超えている』とも書いています(「ダマセーノ・モンテイロの失われた首」)
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posted at 16:43:33
2016年12月08日(木)
ところで、ハイデガーのカント批判としての純粋自己触発論(対象ではなく時間が自我を触発する) bit.ly/2hiwZkl を解題するのも、比較的容易です。それは、タカ基地さんの言葉で言うと、主客分裂への違和感と同じようなことでしょう。@BeTakada
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posted at 14:22:57
タカ基地さんが、里見論文に違和感を表明する bit.ly/2h79Bpg のは、もっともでしょう。対象としての自己、あるいは自我は何も触発しない。時間が力のように触発するから自我が有るのだ、というハイデガーの逆説を、里見氏は読めていない。@BeTakada
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posted at 13:56:08
里見氏がその箇所で批判したGA25-391とGA3-189以下、つまりカント書の純粋自己触発の節をPDFにまとめときました。bit.ly/2hiwZkl 里見氏の、いわばハイデガー批判は妥当ではないでしょう、というのは~ @BeTakada
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posted at 13:47:40
里見氏は「(恰もハイデガーは時間が触発すると言いたげだが)、触発するのはあくまで対象であり・・・ハイデガーは無理に、時間を力と解釈している」というわけですから、ハイデガーからの退却、つまりハイデガー批判なわけです。これが今までの私の読解との違和感でしょう。@BeTakada pic.twitter.com/8gjN8XQqSj
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posted at 13:41:54
タカ基地さん、これはあくまで読解上の作業的なもので、個人攻撃のたぐいと誤解されるようなものではないので、フォロワーさんとの整合もあるので、あえてこちらでレスりますね。対話型読解メモだとお考え下さい。@BeTakada bit.ly/2h79Bpg
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posted at 04:34:57