大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年01月09日(金)
コンピューターが人間の労働を奪うとかいうが、それは税金を人間主体に捉えるからで、能力に税金をかけて、能力が上の機械から利益あげるという、単なる技術進歩にしか見えない。どんどん機械をこき使って、人間は遊びまくるのだ。そんな万能な機械が可能としての話だがww @bezokuGon
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posted at 07:05:45
『存在と時間』と新約学、神学といえばブルトマンだが、ブルトマンはchristianity-church-barth.undo.jp/category18/ent... のようにハイデガーからも神学からも、異端のレッテルを貼られるほどだ。つまり、存在の意味はそこ(新約)にはないということなのだろう。@estei_st
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posted at 16:47:01
その点でもザラデルが有効。斎藤元紀氏が博論で脱自態としてのカイロスを論じていたが、ザラデルはレーマン~ペゲラーも、ブルトマン新約学も、パウロの非クロノス的なカイロスに、ハイデガーのように直面できないとする。bit.ly/1KrzGpJ @estei_st
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posted at 17:54:48
『存在と時間』はカイロスの形式化なのだが(だから斎藤氏は、形式的告示の主題として取り上げるのだが)、もしその言葉だけに囚われると、180度反対の形式の内実、可能性の条件すら忘却しかねない、とザラデルなら言いそうだ。@estei_st pic.twitter.com/sx8DsRuaic
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posted at 18:17:19
2015年01月10日(土)
ハイデガーの旧約の脱選民化を棄却するデリダというポストモダンの体たらくの話をしていたら、渡辺氏がデカルト的自我の延長である近代国家の限界に対して有効なのは仏教の縁起だtwitter.com/curatorshinya/... とツイートしたので苦笑してしまった。というのも~@J_J_Kant
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posted at 18:05:25
なぜ縁起ではなく、ハイデガーなのかという、ポストモダン批判の話になってしまい文脈が見えづらくなったので、暫定的にFBにまとめたけど、たぶん@J_J_Kant はFBが会員でなくみえないというが、他の人には見えるだろう。www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p...
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posted at 18:33:21
非公開
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他人の文字である本を嫌ってネットするようになった人が多そうだからね。その前はテレビだったけど、今や自分の文字ばかり。@marumovich そうそう、やはり活字情報が、情報と主体的に関わるという意味でもいいそうです。映像は大衆を引き寄せるだけで、その場限りですから :3
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posted at 22:36:27
小説はフロイト以前に無意識を、マルクスより前に階級闘争を知っていましたし、現象学者より前に現象学(人間的状況の本質の研究)にとりくんでいたのです。ひとりの現象学者も知らなかったプルーストに、なんとみごとな〈現象学的記述〉があることでしょう。《小説の精神》
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posted at 22:38:25
まさにそれそれ。日本では国語テストといえば、大学受験では現象学を読めるか、という測定だけど、だからこそ現代文では近代小説が中心。ところが最近は小説読解力がアホ化していて、評論で測定するしかないという。twitter.com/M_Kundera_bot/...
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posted at 22:45:59
2015年01月11日(日)
ルアッハばっかりよ。戦後はとくに、ハイデガーがカバラーやミドラッシュを全く知らなかったのに、にもかかわらず無意識のうちにパクってしまった、というパクリの罪しか問われてないぞ。ルアッハしかいないぞww(^-^)/ @ru_ahha pic.twitter.com/imPXBY3TTO
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posted at 15:21:08
それだけを仏語圏のレヴィナスやデリダがずっとやっていたというべきだが、そのレヴィナスの弟子のマルレーヌザラデル女史が、両者を論破する手つきは、迷路のようなハイデガー全集をすべて開いてしまっていて、仏語圏では定評があるのに、日本の哲学者は殆ど参照しないところに妙な屈折を感じるね。
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posted at 15:50:58