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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
並び順 : 新→古 | 古→新

2015年03月15日(日)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月15日

無を催す(サルトルの?)想像力は、なぜか知覚の受動に対して自発性のように語られることで嘔吐するのかもしれませんが、カント書のハイデガーでは構想力はまさに受動(被投)なんでしょうね。つまり企投を受動と捉える錯誤では、被投する構想力にならないという。@jeanbeauty2

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posted at 04:43:05

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月15日

ところで、『~諸問題』で、構想力が最初に言及されるのは、11節bでしたね。知覚にとってはモルペー(形態)だが、古代においてはエイドス(先形像)が能動で、それは構想力(パンタシア、ファンタシア)だ、という箇所。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/ZU43HFSbwq

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posted at 04:45:43

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月15日

古代においては知覚より構想力が能動的だが、カント的な転回では、企投性が強調された。それをサルトルなどは、企投=知覚に対する構想力の自発性といって無で嘔吐する。しかし、ハイデガーは『カント書』で構想力の(時間に対する)受動性=被投性に至るんでしょうね。@jeanbeauty2

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posted at 04:48:27

2015年03月16日(月)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

それこそカント書は無で嘔吐しませんね。存在は存在者に何者も付加しない。被制作性には、被知覚性のような他者原因=神はないからだ。つまり神とは無のことだと『~諸問題』でもエックハルトまで動員して捲し立てますよね。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/f208kzyqzh

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posted at 04:47:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

私達はつい西欧というと古代から中世まで、無と言うより有の文化と勝手に思い込むのだけど、あれは何なのかね? 単純に存在論的差異、存在が被知覚物に現実性という変状を付加するのではなく、現存在が制作する以外は自己原因(自然)として直前にある、という差異の無。@jeanbeauty2

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posted at 04:56:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

『現象学の根本諸問題』は、存在が存在者に変状を与えない、つまり神は原因ではない、それは近代的反省の問題ではない、ということを巡って、被制作性と非知覚性の共通の根を、ひたすら現象学しますよね。カント書の超越論的時間規定という根までには至らないのだけど。@jeanbeauty2

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posted at 05:08:43

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

鍵RT @jeanbeauty2 ハイデガーは、無の前で震撼、キルケゴール的には目眩、そして無を無化したい、出来ないか、できるはず、出来た、そして、無と無化も、そもそも、頽落、世人から、投企すると、世界が現れ無が消え、さらに、いや詩人の声に耳を傾けると、世界が。勝手な発言です。

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posted at 18:57:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

詩人になりましたね(^-^)/ @jeanbeauty2 そして、無と無化も、そもそも、頽落、世人から、投企すると、世界が現れ無が消え、さらに、いや詩人の声に耳を傾けると、世界が。勝手な発言です。

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posted at 18:59:17

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

お気づきのように、ハイデガー自身が詩とは対照的に散文のマックスで饒舌だからね。とはいえ、言いたいことは極めて単純。このパルメニデスの一節が、プラトン~アリストテレスによって覆われたことだから。@LitoSnowfield pic.twitter.com/LzZe8vxYxz

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posted at 19:53:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

存在と思惟は同じだ、というパルメニデスが、その後プラトン~アリストテレスで覆われてしまうことは、先カント書期のハイデガーでは散発的だが、後カント書期のハイデガーはそれに徹してしまう、といっても過言ではないのだろう。@LitoSnowfield

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posted at 19:55:28

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

よく、ハイデガーはプラトン主義に対してアリストテレス回帰だ、という人がいるのだが、おそらくもっと単純。陰謀論批判の方が、大量にRTしていた「不動の動者」とも通底する。bit.ly/1xrtMfC @LitoSnowfield

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posted at 20:00:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

存在者の存在というのは、現実性を現実化させる原因、不動の動者や神と呼ばれるものなのだが、それは思惟や知覚、つまり企投するから、そのように思える。しかし現実化=制作に被投すると、存在者が自己原因になってしまう。その話を永遠とやっているだけ。@LitoSnowfield

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posted at 20:14:17

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

先カント書~カント書は、その企投から被投、あるいは被投することによる企投、という同時性(それをカント書では共通の根、超越論的時間規定、純粋時間と名付けるのだが)に行く話。つまり神がなくても自存するような話。@LitoSnowfield pic.twitter.com/YjgxUMbHyt

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posted at 20:21:37

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

つまり、普通の言い方で言うと、思惟など考えるから神が想定されるが、飛び込んでやらかしたら、単に存在できる、というそういう極めて当たり前のことを話しているのだが、問題は神を考えてしまう、いわば人間の愚かさ、をどう批判するかということ。@LitoSnowfield

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posted at 20:23:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

それを普通の言い方で言うと、思惟、つまり理解しようとするから神が想定されるが、飛び込んでやらかしたら、単に存在できる、というそういう極めて当たり前のことを話しているのだが、問題は神を考えてしまう、いわば人間の愚かさ、をどう批判するかということ。@LitoSnowfield

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posted at 20:38:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

理解というのは理論で考える、数学的に考えることなのだが、それではダメだというのは文字通り、時間に対する瞬発性のようなものが要求されるジャズのアドリブで、理論よりプレイのほうが先、の先取り。ハイデガーの時代は音楽はモダンジャズに飛び込んでないからね。@LitoSnowfield

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posted at 20:40:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

ハイデガーは、先カント書の『現象学の根本諸問題』を、カントの先純粋理性批判期の、有はレアールな述語ではない、というアンセルムスの神の存在証明批判から着手するのだが、「先純理」に対しては「先カント書」という言い方気に入った。先には先ね。

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posted at 21:44:19

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

差異より理解が先行してるという話 twitter.com/sunamajiri/sta... まで、日本仏教では誤解されて、絶対的シニフィアンが宇宙に鳴り響いてるとか、あほなこというからな。どうしても理解より差異を先行させたい日本仏教。

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posted at 22:23:29

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

彼の柄谷読者批判は、わからんではない。私は最近柄谷は一切読んでないし、柄谷論はそれゆえしてないのだが。私も柄谷でハイデガーを迂回してしまった。それを反省してハイデガーを読み始めたようなものだが、やっと柄谷の生臭さは取り払えた。しかしそれは彼の言う境地とは違う。@Oygnino

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posted at 22:54:36

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

しかし、少なくとも先カント書どころか後カント書でさえ、ハイデガーは詩的というより、散文的に饒舌ですね。カント書の大意は、カントではアリストテレスが形而上学にしてしまった存在論を完全に取り戻せないということだけど、散文的にしか応戦できないんでしょうね。@jeanbeauty2

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posted at 23:34:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

存在という存在者との差異、つまり神という原因は思惟が齎すものだ。だからこそその無について目眩や嘔吐になってしまう。差異が変状を付加しない自存=自然だけが、思惟においても被投されるべきだ、という。twitter.com/sunamajiri/sta... @jeanbeauty2

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posted at 23:41:14

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月16日

はっきりいって、いわば純粋原因としての神、無から有を変状として齎す原因というのは、アリストテレスが存在論を形而上学にしてしまったことから、キリスト教に至るまで偏在しているだけなのだが、そうした原因性そのものを、取り払うことが散文的にしか出来ない。@jeanbeauty2

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posted at 23:48:18

2015年03月17日(火)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月17日

確かに、後カント書的には「存在の歴史」で、現代には詩しかない。しかしカント書で踏破された、基礎づけの根源(時間の超越論的な純粋性、同時性、先行性を有さないこと)が、何の基礎づけか、というのが先カント書の散文ですね。これが一番面白い。@jeanbeauty2

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posted at 03:24:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月17日

カント書で踏破された基礎づけの根源に至る解釈の道は、先カント書的な『現象学の根本諸問題』では、本質と実存、思惟と存在、志向性と制作性、存在者と存在、という存在論的差異、つまり差異の共通の根源ですね。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/Ge5noXQsQA

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posted at 03:27:29

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月17日

デカルトでは基礎づけは、根源的ではなく、神観念要請です。アンセルムスの「神の概念に存在を含む」という存在証明に対する、カントの「存在はレアール(実在的)な述語ではない」という転回が、この基礎づけの根源への遡行を可能にしているわけです。@jeanbeauty2

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posted at 03:30:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月17日

カント書は、カント的な転回に対する新転回に至るための基礎づけの根源化です。企投と被投の同時性、志向と制作の同時性、本質と実存の同時性、それらが超越論的時間規定として、基礎付けにとっての根源、つまり不動の動者になった。@jeanbeauty2

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posted at 03:32:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月17日

ご承知のように、破綻的な(先カント書期的には破綻性しかないのですが)『存在と時間』では、まだ単なる「等根源性」です。等根源性が何か、ということは解明されていない。それどころか、『存在と時間』は、何の等根源性かという『現象学の諸問題』のような明示が足らない。@jeanbeauty2

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posted at 03:47:42

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月17日

書誌的要約では、『存在と時間』が等根源性を告知して破綻し、『~諸問題』が何の等根源性かを形式的告知し、『カント書』で等根源性が、告知された企投と被投に対する同時性と解明されている。ただそれだけです。twitter.com/sunamajiri/sta... @jeanbeauty2

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posted at 03:53:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月17日

先カント書的散文は、ただそれだけのことで、難しいわけではない。その基礎づけの根源が理解できずデカルト~カント的要請に遡行する人は、必ず無の問題に囚われているが、カント書はそれも解決して、散文の役目が終わった。それで基礎づけられない人は信仰にいくしかない。@jeanbeauty2

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posted at 03:58:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月17日

ダヴォース討論の話 togetter.com/li/791136 で、人間が神の造り手から開放される話になったけど、中世の宗教画からルネサンスになるように、たとえばここも制作物は製作者から自立してある話。@LitoSnowfield pic.twitter.com/S5ZAx2LQuf

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posted at 05:43:01

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月17日

つまり、実際に制作するのではなく、頭で考えているだけだと、いざ制作しても宗教画のように神を思い浮かべてしまう。つまり人が神の造り手になってしまうのだが、考えるより前に手を動かすと物が生み出されるのだ。@LitoSnowfield

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posted at 05:48:39

りと ᙏ̤̫(3さい) @LitoSnowfield

15年3月17日

@sunamajiri それこそが創造というか制作ですからね〜(*^o^)v <考えるよりも前に手を動かす

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posted at 05:51:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月17日

そうなのよ。それがダヴォース論争のカッシーラーが理解できないのよ。新カント派というのは、人が神の造り手、つまり宗教画の世界なのだ。ハイデガーは考えるより先に手を動かしたら、神など作らんぞ、という話をしてるのだ。@LitoSnowfield

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posted at 05:53:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月17日

転回までのハイデガーは少なくとも、制作することを神による創造と履き違えるアリストテレス~キリスト教にあるプラトニズムを問題にしてるのだが、人が造り手でないから神なのだということが、周りに理解されてないのだ。@LitoSnowfield

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posted at 06:14:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月17日

カッシーラーはユダヤ系だからか、どうしても人を神の造り手と思いたいのだ。ところが人が実際に何か手を動かして作ると、出来上がるのは神ではないのだ。それをしつこくいうことがハイデガーにとっては現象学なのだ。リトさん見抜いてるのよ、それ。@LitoSnowfield

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posted at 06:15:39

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月17日

ダヴォース論争では、どっちが人間中心主義か、と論争してるのだが、当然のことながら、神を人が作れる、なんていう人間中心主義の方が奢りや横暴であって、そのことにカッシーラーは最後まで気づけない。彼は人間が神を創造できるほど無限な能力と考えているのだ。@LitoSnowfield

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posted at 06:20:43

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月17日

新カント派は、カントの転回を、神の造り手は人で、だから人には無限の数学的能力があると、過信してるのだ。しかし、カントどころかアリストテレスも、そんなことは何一つ含意してないぞ、というのがカント書のハイデガーなのだ。それでカッシーラーと論争になる。@LitoSnowfield

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posted at 06:29:18

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年3月17日

ちなみにその次の箇所笑うよ。「もっと単純に見ろ、それが饒舌な現象学だ、東洋の仏教だと受け取る人がいるが笑えない」とハイデガーが語るのだが、『フォス新聞』『ウーフ誌』って仏教かぶれの当時の三流紙なのかね?@LitoSnowfield pic.twitter.com/qw9TPvlKI8

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posted at 07:09:30

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