大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年03月07日(土)
そうですね、ハイデガーがカント書でカントが語れなかったものとして語ったのがそれですよね。実体としての地平を齎す時間の数学化する空間からの奪還。それをハイデガーはカントへの暴力的解釈といいますね。@jeanbeauty2 bit.ly/1EVUweJ
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posted at 23:40:40
その辺りは、カント書 第22節 bit.ly/1BhLZ2W と、そこで語られたカントが回避したことへの結論としての、第35節 bit.ly/1wOBt4Q に明示的ですね。@jeanbeauty2 ウーシアとしての時間
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posted at 23:44:04
ちなみに、カント書第22節、常住不変の時間が範疇表を超えた純粋直感としてあるからこそ、変化の中での不変なもの、つまり眼前存在がある、というのを木場旧訳では「実体である」と意訳してるほどです。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/pHqVMybAif
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posted at 23:52:20
2015年03月08日(日)
カント書22節の議論は、カントの図式論のA143の実体をめぐってるわけだけど、ハイデガーはB185の超越論的時間規定を、カントが範疇化させたことを問題視しているね。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/cmXukYItbb
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posted at 00:13:22
ちなみに、この高峯訳のカント純粋理性批判では、超越論的時間規定が、先天的時間規定となっているが、ハイデガーに比べて、フッサールの手前のカントでは、あまり超越論性をめぐる訳語の扱いが厳密でなくても困らないね。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/PoWreP2SPB
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posted at 00:14:56
解釈とはこういった暴力のことだけど、ガダマーはハイデガーから時間を取り払ってしまったためか、ハーバーマスとデリダから攻撃されたね。超越論的時間規定は取り払えない何らかな証左だろう。@jeanbeauty2 ガダマーは、この地平という言葉を大切にしますね
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posted at 00:17:24
ウーシアというのは、イデアに対する個物一般のことだけど、カントはそれを取り出しかけて、純粋理性批判第二版で尻込みして自然科学のようになってしまい、ハイデガーは純粋時間をウーシア、とする地平を切り開いた、という感じかしらね。@jeanbeauty2 ウーシアとしての時間の地平
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posted at 04:18:58
表象というカントの用語を単なる代表象として受け取ってしまうことで起こった混乱があるということだよ。この問題はアリストテレスの昔から大問題だそうで、それを短絡するとオカルトになるのだ。@virusyana 誤読?
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posted at 15:03:57
はははww 「カントは、ルールが存在するということと、それに従ってルールが『適用される』こととの間には、千里の径庭(編注:けいてい=隔たり)があると指摘していた。その<間>を埋めるものを<構想力>とカントは呼んだが、構想力は『教えることができない』とも」
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posted at 17:12:31
「などと主張。車掌にも「教えることができなかった」とした。凡人には何が言いたいのかよく理解できない文章だ。芦田氏は、車掌が「融通が利かない」と言いたかったのかもしれないが、無理な主張に思える。」www.j-cast.com/2015/03/062297...
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posted at 17:13:39
まさか、巷のJCAST記事に、カント書の超越論的構想力が登場するとは思わなかったww さすがだなww (^-^)/ www.j-cast.com/2015/03/062297...
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posted at 17:20:29
カント書の超越論的構想力を、巷のJCASTメディアが「融通」と言い換えていて、苦笑というか爆笑してしまった。ww (^-^)/ www.j-cast.com/2015/03/062297...
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posted at 17:23:40
ははは、自然主義が私小説に閉塞してしまい、親近者のプライバシーを晒すのと、カント書にあるような(超越論的)構想力を、周囲に単なる融通と受け取らせる、というのも何処か非常に似ているんだろうね。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield 私小説だった
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posted at 20:50:20
2015年03月09日(月)
単語で融通が効かない世の中だからね。それでハイデガー風を吹かせると、彼のように誤解されやすいのよ。少なくとも文でなければ意味をなさないことを、単語で語ったように受け取られてしまうのだ。神という単語なら万能だったのだろうが、構想力ではね。@LitoSnowfield
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posted at 15:03:32
たとえば、文でなければ単語は「非概念だ」という言い方で、ハイデガーは「自我」という概念を否定する論証を遂行したりするが、それを辞書的な単語だけで受け取ると、何のことだかわからなくなる。それで、みんな主客という態勢に囚われて、融通が効かなくなるとかね。@LitoSnowfield
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posted at 15:07:34
つまり、読んでいないということがもはや罪なんだが、読んでいないというだけで、神以外の単語、たとえば自我だったり主観だったり、そういうったハイデガーが非概念と論証していくものが、一人歩きして概念であるように振る舞ってしまう。それで分からなくなるんだよ。@LitoSnowfield
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posted at 15:10:04
規則に対する融通という某氏の例に引き寄せると、融通が効かないのは規則を読み切れない中途半端があるということなのだろう。その杓子定規では他人に不快を与えるし、規則に対する独断だから罪なのだ。読み切っていれば、規則など取るに足らない物に見えてくる。@LitoSnowfield
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posted at 15:17:28
ハイデガーはしきりに、理論的には自我という単語になるが、そんな理論より実践だ、と論証というスタイルで言い切るのだ。この言い当てに何があるかというと、理論とか規則では、振り回されて融通のきかない、つまり結局は自己の不在のようなことになるぞ、ということ。@LitoSnowfield
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posted at 15:17:47
こういうのを現象学というのだ。こういったことをカント書的構想力の手前の『現象学の根本諸問題』の形相論の手前、第一部で極めて分かりやすい語り口で解説してくれるよ。こんな糞親切な語り手はハイデガーしかあり得ないだろう。それで木田元が分かったといったのだ。@LitoSnowfield
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posted at 15:29:48
つまり、ハイデガー以外の解説を読むのはもはや罪と思えるほどなのだ。そこを迂回すると必ずや、構想力に対する誤解に陥る。端的に主客で語り始め、カント的な実践すらおぼつかなくなってしまう。そういうのを杓子定規というのだ。@LitoSnowfield
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posted at 15:31:51
(アメリカからきた)私に興味深いのは、日本にだけ、これが分かる人と分からない人との格差が歴然とある、という事実なのだ。辻井さんが現象学は儒学に似ているといっていたが、おそらく漢文教育で事態や事象を言挙げする(言い当てる)ことが国語教育だからだろう。@LitoSnowfield
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posted at 15:42:13
簡単にいえばマニュアルのように規則が与えられ、それを杓子定規で受け取ってしまう人に対して、事態や事象として言挙げする(把捉する)方法を心得ている者は、その規則を踏まえて融通が効いてしまうのだ。こういったことが日本には確かにあるのだ。@LitoSnowfield
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posted at 15:43:44
知覚内容の総体に「物自体」という別の部分を対置するという人工的な対立を作りだしても、対立するもう一方の部分にはいかなる内容も与えることができない。なぜなら事物の特定の内容は、常に知覚内容の中から取り出すことができるだけだからだ。-自由の哲学-
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posted at 17:43:08
2015年03月10日(火)
それは、自身訳の分からなくなった書き手が、その自身の混乱を晴らすために、これまた訳の分からない大著を著したりするから、読者が辟易して、今ではツイッターのような一言で済ませようとするも、混乱が一向に晴れない、ということに過ぎないんだろうね。たとえば~@LitoSnowfield
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posted at 02:01:07
たとえば、オカルトになってしまうシュタイナーが、カントの問題を、こう twitter.com/R_Steiner_jp/s... 語るでしょ? カント以来の著述では、こうした混乱が増幅の一途なのだが。言葉のインフレーションのようになる。@LitoSnowfield
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posted at 02:04:36
この同じことをハイデガーが語ると、もっとシンプル。当然シュタイナーのようなオカルトや、ドイツ観念論のような言い訳にはならない。カントの混乱についてはデカルトひっくるめて、添付のように言い切ってしまうのだ。@LitoSnowfield pic.twitter.com/wXOSN9tb04
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posted at 02:16:33
どういうことかというと、(デカルトが想定したような)我という眼前物などない、ということなのだ。主体と客体という2つの眼前物(オブジェ)を想定させる、考え方が間違いだ、ということなのだ。言い換えると、自己客体化などというものもできない。@LitoSnowfield
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posted at 02:20:08
その全集版の翻訳では、眼前性は直前性という訳語で統一されてるのだが、要するに自分が自分の眼前にあったりするわけないだろ、ということを言おうとしているのだ。ところがデカルト~カントは、古代ギリシャの直前存在と我を混同している、ということなのだ。@LitoSnowfield
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posted at 02:22:20
そうすると、どういう混乱がおきるかというと、さっきのシュタイナーのオカルティズムのように、知覚と物自体の関係ということだけに囚われるようになってしまう、ということなのだ。それはそもそもカント、さらにはデカルトにあった混乱に過ぎないのだ。@LitoSnowfield
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posted at 02:24:54
つまり、自分を自我という物として自己客体化してしまう、という混乱が助長されてしまうのだ。それは言い換えると、自己客体化では、実存していない、あるいはそれが疎外だ、という極めてシンプルな見解なのだ。ハイデガーが批判的なのはほぼその一点だけ。@LitoSnowfield
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posted at 02:27:55
ちなみに、木田元訳で以前読んでいた『現象学の根本諸問題』を、全集版の訳語統一の仕方を見るために再読して、改めて絶妙で唸らされているのだが、この主観を眼前(直前)化させる批判あたりまでが、カント書の手前の問題なのだ。@LitoSnowfield
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posted at 02:33:02
『現象学の根本諸問題』は冒頭で、デカルトが神要請でクリアした、神という概念に実存という概念も含む、というアンセルムスの神の存在証明にカントが七転八倒して、実存とか主観とか知覚という用語を多義的に乱用してしまうのを、眼前性のことだろ、で一蹴してしまう。@LitoSnowfield
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posted at 02:40:34
ハイデガーは主観は非概念だと一蹴する。同じように、カントでは現存在も実存もアンセルムスの神の存在証明、つまり神の実存のことなので、ハイデガーは現存在は、直前存在ではないこと、つまり人間だと言い切る。@LitoSnowfield pic.twitter.com/TomvsAxd3e
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posted at 02:59:30
それでも、『存在と時間』とそれに続く『現象学の根本諸問題』では、丸山文隆が論じたように、学問をしようとしてしまっているのだ。それで取り出されなかったのが『カント書』の時間=構想力なのだ。それほど構想力は重たい。某氏がいうように教えられないものなのだ。@LitoSnowfield
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posted at 03:01:48
構想力は某氏の言うとおり、教えようがないのだろうが、一つだけヒントがあるのは、ハイデガーがいうように、カントの混乱によって生み出された用語、主観、客観、知覚、理性、自我といった古名(古い概念)を破棄しなきゃならない。それでみんな大著を敬遠するのだよ。@LitoSnowfield
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posted at 03:05:28
たいていはドイツ観念論やロマン主義になる程度なのだが、シュタイナーになると、カント用顔はラテン語が語源のオカルトに遡行してしまい、マルクスあたりだと、物神論になったりするものなのだろう。しかしそれらはすべてハイデガーによれば非本来的な逃避の類。@LitoSnowfield
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posted at 03:12:03
カントの古い概念、ハイデガーが破棄した概念というのは、様相論のようなんものなのだ。英米分析哲学では温存されるのだが、ハイデガーは一蹴している。それを東がインタビューで、偶然性しかないんだから、そんなもん教えようがない、と結論した点は重い。@LitoSnowfield 古名の古臭さ
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posted at 03:25:18
英米的な様相論をハイデガー的に一蹴した後の話をしている東のインタビューでは、それをハンナ・アーレントにもあった公共性、しかしそんなものに力はない、なぜなら様相などなく偶然性は、固有名の変更可能性においてしかないからだ、といっていたね。@LitoSnowfield
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posted at 03:34:28
ご明察。様相論はハイデガーから見れば被投性に至らない非本来的な思考、つまり疎外の一種なのだろう。ちなみに私は哲学も宗教も文学にしかみていなくて、文学では再専有しか問題にならない。つまり固有名の変更可能性のことなのだが。様相などない。因果律もない。@LitoSnowfield
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posted at 03:40:40
そうそう、豁然としているのは、ハイデガーには哲学なんて文学の一つにしか見えていないのに、それを迂回するものは宇宙を外部から眺めるカントの視点で様相論の坩堝の中で文学的な強度を見いだせない、つまり宗教になってしまう、というだけだからね。新約だが。@LitoSnowfield
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posted at 03:47:32
あなた天才的ね、わたしよりまとめ方がうまいわよ、それどころかハイデガーよりうまい(^-^)/ @LitoSnowfield よく書けていない文学が作者の神視点になってしまっている…という
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posted at 03:56:02
そうそう、いまや皆そういうのを見抜いている皆天才状態の時代、存在了解のハイデガー以降の時代を生きてるからね。英米あたりの様相論馬鹿に爪の垢煎じて飲ませてあげればいい。@LitoSnowfield それは創作素人な典型なので(笑) <下手な作品=作者が神様
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posted at 04:01:10
様相論というのは、概念(経験より先じること)の混乱で、カントでそれがマックスだからね。それを知らずに概念的におしゃべりすると、東が糞食らえといった公共性や一般論になって朦朧とするんだよ。その仕組を知れば、なーんだってなもの。@LitoSnowfield 私もそうですが
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posted at 16:32:57
英米人は哲学というと様相論とか、仏教のような縁起の話と思いがちなのだが、日本人は馬鹿じゃないから、そういうのを最近では「中二哲学」と呼んだりするからね。それほどくだらん。感謝と御縁は別物。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 16:36:23
端折ると分かりづらいが、様相論というのは現実性をカントに語らせてしまった神の存在証明、そのことで志向性という本来の現実性が、知覚を超越しているということが、カントにだけ死角になってしまった、というようなこととしてハイデガーは解明していくね。@LitoSnowfield
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posted at 17:03:19
そこが死角になると、同語反復、自己撞着を引き起こするのだが、ハイデガーにはそこが死角になっていないのだ。これはカント書の手前の現象学の根本諸問題の神の存在証明に対するカントの態度、として現象学的に解明される。@LitoSnowfield
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posted at 17:03:49
同語反復というのは、現象学の根本諸問題の冒頭の神の存在証明のことなのだが、このアンセルムス~アクィナスのスコラ哲学の問題を迂回すると、却ってわかりづらくなる。bit.ly/1F611vr @LitoSnowfield pic.twitter.com/pCeKmrRB9C
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posted at 17:09:05
具体的には、このページの小前提の箇所なのだが、これをめぐってカントが様相論に陥るのだ。デカルトは自我の眼前化で迂回するのだが、カントでは認識の眼前化で現実性と必然性の述定という罠に落ちるのだ。@LitoSnowfield pic.twitter.com/EvK6jWzpNy
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posted at 17:24:15
カント書では解釈は暴力だと宣言されるのだが、その手前の現象学の根本諸問題第一部でも、たしか3回暴力という言葉が使われる。ただし丸山文隆が論証したように、これでは学問(入学)になってしまう。暴力がマックスになるカント書はいわば卒業。ロックみたいだな。@LitoSnowfield
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posted at 17:25:42
カント書が暴力で(カント学を)卒業するのは、超越論的時間規定、つまり時間だけが常に変わらず流れているということを、余りにも不用意に様相として分類したカントを、一蹴する暴力として語られるのだ。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 17:50:22
実際の日本でそれが現象してるんでしょ。アンセルムスの神の存在証明を、アクィナス以上に廃絶しようとしたカントを、さらに廃絶したハイデガーにとっては、神でも有でも、単なる対立項にすぎないのと同じ。無は単に対立項として在るだけなのだ。概念ではないでしょう。@LitoSnowfield
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posted at 21:39:57
鍵RT @jeanbeauty2 固執というのは、面白いですね。しかし、持続ということ、も、一つの重要な時間の局面であり、また、存在と表裏一体たなって、露呈する、というのも、考えさせられます。
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posted at 22:07:05
鍵RT @jeanbeauty2 しかし、実存と、切り離された存在者の存在は、派生的で、むしろ実存から時間の中で、存在者が、存在とともに、立ち現れるということを、言っているように思います。時間が、世界を生み出す。
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posted at 22:07:34
というより、それを表明的に言っていますね。丸山の言うように被投性テーゼの途上『~諸問題』にこそ、先行した理解、つまり概念という点で、カントが直前性を概念化=時間化できず志向性を知覚と企投した、とありますね。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/FUpUmODOXj
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posted at 22:15:44