大本薫 Kaoru Ohmoto
- いいね数 11,694/13,358
- フォロー 2,831 フォロワー 2,653 ツイート 290,630
- 現在地 東京 LA NY 茅ヶ崎 鹿児島
- Web http://www.sunamajiri.com/
- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年03月11日(水)
いずれにせよ(ハイデガーのようにうまく言えませんが)、先行して存在する自然を発見できる現存在には、直前に存在している自然が、先行して理解されている(概念化している)、という超越論的時間規定が、カント書への地歩になるんでしょうね。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 00:06:47
こうした先行理解、概念の予めという時間性が、つねに流れている常住不変の時間 twitter.com/sunamajiri/sta... に、概念的に一致すること、空間化した時間より超越的な概念であることを、カント書 では、表明的に超越論的構想力と論述していきますね。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 00:07:55
ここで敢えて「直前性」という全集の統一的訳語が気になりますね。「眼前存在」のことですが、それを敢えて時間的に受け取られる「直前性」という訳語に統一してそうです。確かに自然は先行了解で空間的というより時間的に直前にあることで、現存在は存在するんでしょうから。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 00:28:55
次の規則はドストエフスキーにもあてはまります。つまり、ひとたび小説の一部になれば、思考は本質を変えるのです。教条的な思想は仮説的なものになる。哲学者が小説を書こうとするとき見落とすのがこの規則です。《小説の精神》
タグ:
posted at 04:08:27
2015年03月12日(木)
鍵RT @jeanbeauty2 カントには、持続ということは、あまりなく、同一性、さっきの自己と今の自己の同一、共に、イッヒ デンケという、ということなのでしょう。常に、ということではない。時間が、点と点ではないか。もっと、持続、あるいは、面ということには、ならないのかですね。
タグ:
posted at 18:45:45
ハイデガーのように時間を汲めれば、もはや時間はどうでもよくなりますからね。存在はレアリテート(事象)なのだから、神を実存と証明すれば人が実存しない。そこで知覚や意識を直前化するだけでは、事象の本性、時間に飛び込めない。@jeanbeauty2 カントには持続ということはあまりなく
タグ:
posted at 18:50:28
ハイデガーが日本人に読まれるのも、アクィナス~スレアス~デカルト、という近代の起源を、アリストテレスから全て脱構築するからですよね。それを度外視してカントを捉えると、ハイデガーがいうように被投的実存が危うくなる。神は存在非存在という現実性を超えている。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 18:52:34
前近代までは、神を存在だと思惟しているわけです。その残像がカントにある。それが事象性、時間の不徹底です。ハイデガーがカント書まででやったことは、単にその徹底に過ぎない。神を存在ではないと思惟しているのなら、カント~ハイデガーの問題は空論に過ぎなくなる。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 18:54:39
「存在はレアールな述語ではない」、存在はレアリテート(事象内実)だ、ということをカント書の構想力だ、と言っている方 twitter.com/pouvoirmagique... がいたけれど、そのとおりで、この現実性と可能性という問題が神の実存ではないというだけです。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 19:00:41
当然ながら、ここで「神」は、新プラトン主義、キリスト教のそれというより、単にアリストテレスの第一の範疇、形而上学のことにすぎない。それを様相と頽落させる近代というのは、ハイデガーからみれば時間の範疇を捉えていない、となるのは当然です。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 19:19:33
中世神学は、神を存在や実存と証明しようとして、人の実存が危うくなるんですよ。カントが危ういのも、実存や実在といった語彙の多義化に見られるように、人の実存を思惟できていないだけです。ハイデガーは、神は実存ではないといっているんです。それがおそらく構想力です。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 19:20:08
カントの多義語の問題(たとえば自我など)を、こうしたアリストテレス形而上学に対する誤解、神の存在を捉える中世神学の思惟として捉えきれず、単なる意識の直前(眼前)性の問題と称揚するのは極めて危険です。ハイデガーが批判しているのはそういうことでしょう。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 19:44:57
神を実存させ人を実存させない、そういう中世神学の問題を切り離せたのはカントではなくハイデガーだ。そういう地平が、少なくとも非西欧人には共感できるに過ぎない。統覚(意識)に帰着するカントでは、それへの逆行があるんでしょう。つまり無意識=構想力なのでしょう。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 19:50:11
訂正、スアレスだった。twitter.com/sunamajiri/sta... ハイデガーはアクィナスをめぐる、スアレス~デカルトに対する、スコトゥスというのだろうか。全集一巻のハイデガーの初期論文のスコトゥス論が読みたいのだが、手が回らない。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 20:08:22
ざっくりいうと、困るのは元来、こうした意識=神を存在と思惟する誤解ということを度外視して、ハイデガーのような議論も自明なものとして、無意識の所産を探る修行に、非西欧人の日本人が憑かれることです。そこでいきなりカントの時間と言われると固まってしまう。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 20:24:07
時間も構想力も無意識も、単に思惟や意識や神の存在といったことの対立項として措定されているに過ぎない。それを度外視すれば、おそらく動態のようなもの、あるいは時間のようなものも、すべてフリーズしてしまうんでしょう。そうした自我などに生きる場所はないですね。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 20:29:28
ハイデガーの構想力より、カントの統覚でいいんだ、という非西欧人を考えるわけだけど、神を存在と誤解して思惟してしまうこと、自我という直前性を誤って措定してしまうことが、彼らの無意識からは奇異に映るんでしょう。しかしそれだけでは構想力や時間にはならない。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 21:29:37
2015年03月13日(金)
渡邉さん www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j... は、Als(として)構造、解釈にとっては存在理解より存在論的差異が先行すると言ってるが、丸山文隆さんの最近の一連の論考は、存在理解が先行すると言っている気がする。被造物がどこに属するかという話だからね。
タグ:
posted at 10:10:45
2015年03月14日(土)
言表が先行する世界理解というと、これの先行関係のことですか? twitter.com/sunamajiri/sta... @jeanbeauty2 ハンマーが、重いと、語らなければ、ハンマーが重いという、世界理解は、存在しないということは、どうなのでしょう。
タグ:
posted at 14:16:34
(存在論的)差異より(存在)理解が先行すると言ったのは、丸山文隆が喝破するような手許性としての理解のことでしょうね。制作する現存在という。heideggerforum.main.jp/ej8data/maruya... @jeanbeauty2 pic.twitter.com/9gmivoLLeD
タグ:
posted at 14:44:36
「制作する現存在」は『~諸問題』11節で、スコラ哲学と比較して、カントのレアリタースは、現実化=手許による制作、つまり創造を前提=自明化して、主観に対する作用=認識だけを語った、という件で概念化されますね。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/fqRSVJpYhk
タグ:
posted at 14:49:38
ハイデガーはここで、デカルトが全面的に依拠しているスアレスとカントを比較してるわけだけれど、スアレスまでは現実性は、現実化=創造として自明化されていない。しかしカントはそれを自明化することで、手許性=制作性を語れなくなったといっていますね。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 14:56:51
しかし当然のことながら、本質を実存に現実化する(神による)創造など解明するわけがない。とはいえそれをカントのように自明化すると、現実性の認識論しかなくなる。それでは手許性という、本来の理解につながるものが、置き去りになると強調しますよね。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 15:00:00
こうしたハイデガーの言い方の例からも言えるように、あらゆる差異化より前に、存在了解が先行するということが想定されているような気がしますね。世界を理解することも、手許性として先行して現存在はそれに対して被投しているんでしょうから。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 15:04:01
もし現存在の存在理解が先行しているのでなければ、可能態(本質)と現実態(実存)という差異において、想像しただけの100万円の札束が、手許に到来しただけで本物の100万円に化けたりするんでしょう。夢物語ですね。bit.ly/1BDCeMK @jeanbeauty2
タグ:
posted at 15:24:20
鍵RT @jeanbeauty2 その手元性が、何かの困った事態に遭遇して、別のものとして、あるいは何故ここにあるの?みたいに、存在が、露呈する、ということかもしれませんし、投企が、全く出来なくなった途端に、不気味な存在感のみが、生起して嘔吐を引き起こすという、あれです。
タグ:
posted at 22:45:57
鍵RT @jeanbeauty2 常に可能態が、優先して、目的が、あらゆることに、癒着していて、無目的も、一時的に目的に包括されている。その目的から隅々まで了解が、なされている、そんな感じでしょうか。
タグ:
posted at 22:46:23
デカルトの情念論から気分論へ。サルトルはエポケーを実在性のないこと、知覚の受動に対する想像力の自発性と捉え、それが夢とは異なる美だ、といって嘔吐するんでしたか。@jeanbeauty2 投企が全く出来なくなった途端に、不気味な存在感のみが生起して嘔吐を引き起こすという、あれです。
タグ:
posted at 22:48:52
無が絡むんですよね。夢と想像力を分けようとすると、実在性のなさ、を無と捉えてしまい、それが裏切られる度に、不安を通り越して嘔吐するという。ハイデガーがスコラ哲学とカントの比較で、無がないことばかりやりますね。pic.twitter.com/pkxEV05yWk @jeanbeauty2
タグ:
posted at 22:51:53
情念論(喜怒哀楽)から気分は面白いですよね。情念論ではスピノザの倫理学になってしまう。自己原因がカテゴリー直感になるためには、ハイデガーのようにトマス批判にいって、無がないことをカントに突きつけるしかない。そこでやっと情念から開放されるんですかね。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 23:04:38
その『~諸問題』11節aの冒頭は、誰のことや?と、ダヴォース論争のカッシーラーが情念に憑かれそうだが、じつに爽快な気分に触れていますね。気分は嘔吐だけではなさそうです。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/xUtRkEZ9ba
タグ:
posted at 23:13:55