大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年08月13日(木)
単にフルートの正規の音色を破壊するのがジャズではなく、正規の音色でもフルートはジャズの停滞をぶち破った立役者なんですよ。@mizekurumi フルートは綺麗な音色だけでなくジャズに適している楽器である事を理解しました😃💕ドルフィーは天才♥
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posted at 15:46:57
魂を身体への潜勢(身体のどこかに魂が局在的に宿っている)とすると、心身問題となって、当然、そうしたハードプロブレムは論証も実証もできないので、魂が否定されるのだが、それは問題の規定の仕方を間違えている、というカントの一番の大枠を論じようとしているようだ。
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posted at 12:02:54
つまり、アリストテレスを規定とするのか、デカルトを規定にするか、なのだが、むしろデカルトが規定にされることで、アリストテレスが有耶無耶にした形而上学を、判明に魂の問題として語ったのがカントというようなこと。ハイデガーはその一歩手前、事象の一歩手前まで語れている。
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posted at 12:00:53
この本は、カント書のいう生産的構想力=時間規定が、アリストテレスの言う霊魂を規定とすることで、デカルトの自我だと無規定で問えないが、一性を規定とすると、身体のどこかに宿っている魂という旧来の形而上学の矛盾が修正され、魂そのものを語った晩年までのカントに接近できる、と論じている。
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posted at 11:59:26
菊池健三は一見すると、ハイデガーのカント書を自明化しているが、それでもハイデガーが規定は時間でしょ?というが、その規定で問えることを具体的に語らず、うやむやにしている、ハイデガーはカントがうやむやにしているというだけなのに対して、(続く)
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posted at 11:56:36
自我のような無規定で、魂を問うと、身体のどこかに魂が潜在化(潜勢というのが厳密な術語なのだが)していることになり心身二元論(ハードプロブレム)になって解決できなくなるのだが、一なる全体の時間を規定として問い直せば、魂そのものを問うことが出来る、それがカントの問題だ、という本。
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posted at 03:38:02
本来形而上学は魂を問うものだが、それが所在論(潜勢性を問うこと)に閉塞してしまった。それが自我という無規定性で判明したので、規定を絶対的な全体である時間に措定すれば、本来の問が適正化され、魂を身体への顕在性ではなく、魂の非顕在性を問いとして立てることができる、という話に過ぎない。
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posted at 02:33:52
菊池氏は、時間規定に関してのハイデガーの発見を自明のものとしているが、それはカント自身が、問うためには規定が絶対化されなければならない、という問題を扱っているからで、なおかつハイデガーも規定はこれだろ、というところまでで、その規定によって問えたものの、答えについては言明しない。
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posted at 02:28:15
問うためには、規則の規定が、自我のように無規定では、魂の局在性や心身二元論のように、問が無規定になるが、一なる全体としての時間を規定とすれば、形而上学を魂の動力学として、明示的に問い得るようになる、ということを言っているにすぎないのだ。
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posted at 02:25:38
さらっと立ち読みして判るのだが、カント以前に自我のように、身体のどこに魂が宿ってる=顕在化してるのか、という潜勢論だった形而上学を、トヘン(一なる全体)としての時間を規定にすれば、心身問題ではなく、より直接に問えるでしょ?という話なのだけれどね。
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posted at 02:23:26
帰って検索したら、こんな論文もあるね。菊池健三『カントと動力学の問題--魂は動力学的な、潜勢的な現前の関係にある』 ir.acc.senshu-u.ac.jp/index.php?acti... 面白そうだが、眠いので明日読む(^-^)/
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posted at 01:37:56
駅前の小さな書店、人文書新刊書充実してるのだが、たまたま立ち読みしてたら、カントが晩年、動力学として、脳理論である生産的想像力(構想力)の超越論的時間地平に、霊魂論として触れているとか、書いてあるので、何じゃ?と思って買って来たww www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%8...
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posted at 01:30:36
2015年08月11日(火)
2015年08月09日(日)
ハイデガーの言う時間という心は、オイディプス的なリヴィジョンのことなのだけれど、東の問題的な今年のインタビューでの結論部は、修正主義こそ(ハイデガーの言う生産的想像力で)、それが必然性という意味だ、というもの。twitter.com/sunamajiri/sta... @inja650rr
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posted at 02:20:15
それは面白い解釈ね。ハイデガーは転回前(カント書まで)は、オイディプスに明示的ではないが、時間が心であるのはオイディプスロマンスだからですね。それゆえ歴史も心になる。@inja650rr タイムスリップの概念がスタトレでは時間軸でBtFが因果律であるという事ですね。
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posted at 01:46:45
2015年08月07日(金)
ハイデガーをデカルトからアリストテレスに遡行したと一面的に捉えると、日本の柄谷行人のように、デモクラシー以前のイソノミアに遡行してしまう。しかしじつは、ハイデガーこそ、デカルトが権力を通用させた無規定性を最終的に解消し、最も非ギリシャ的なのではないかと思える。@inja650rr
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posted at 18:46:39
この過去にとらわれるな、前向きに未来を見ろ、というのがポジティブシンキングのようで、未来とは死のことで、その死を恐れず受け入れろ、というのが日本人が過去に陥った総玉砕みたいな危険思想に聴こえるのだろう。しかし過去にとらわれるのは単なる信仰だという。@LitoSnowfield
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posted at 07:42:00
したがって、想起や流れ去る過去だけを時間規定とするカントの認識論では、存在論的には造物主が前提されているに過ぎない、というのがハイデガーの主張。人間が将来に同一化する存在論によってはじめて、造物主を前提としない、過去に縛られない時間規定が得られる。@LitoSnowfield
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posted at 07:39:54
有限者は神のように認識対象の造物主ではないが、対象を同一視する認識論は、カントの言う再生的想像力=いわば想起では、対象がすぐに過去に過ぎ去るので、時間規定としては不十分。すぐに現在化する将来の同一性を時間規定にする存在論であるべきだ、という話ね。@LitoSnowfield
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posted at 07:33:39
カント講義書は主著以後なので主著の用語で綜合できるが、本来性というのは時間規定のことだから、カントが人間(派生的直感)は神(根源的直感)ではないとするために、想像力を過去の想起としたのは非本来的な時間規定で、生産的想像力こそ本来の時間規定だ、という。@LitoSnowfield
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posted at 07:33:14
人間はカントの言う根源的直感(神の産出力)を持たないが、カントが想像力(構想力)を再生的綜合(過去の想起)と規定したのに対して、本来の時間規定からは、生産的想像力(既在と将来の等根源)だ、というのが講義書。それがカント書の有限性の話に解消していく。@LitoSnowfield
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posted at 07:09:26
体系に触れようとする本だから、いくら主著のような悪文ではないとはいえ、見取り図がないと、何を読んでいるのか迷子になるよ。また体系的だからこそ見取り図が可能なのだ。@LitoSnowfield
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posted at 07:03:04
カント講義書とは、根源的直感(カントの言う神の能力)を持たない有限者は、カントの言う再生的想像力では通俗的時間規定だが、本来的時間規定からみれば、生産的想像力を有していることになり、それが自然と歴史という超越論の根源規定だという話。@LitoSnowfield @estei_st
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posted at 06:55:07
カント講義書は主著(存在と時間)とは違い、本来性などハイデガー用語が最低限だから文が読みやすいのだが、あえて本来非本来で見取り図にすると~ (続く) @LitoSnowfield @estei_st
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posted at 06:52:18
リトさん、カント講義書(ハイデガー『カントの純粋理性批判の現象学的解釈』)の見取り図は、このあたりを道標にすると、掴めるはず。(^-^)/ twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield @estei_st
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posted at 06:46:18
2015年08月06日(木)
ミヒャエル・エンデが、想像力の超越論性=産出力を、なんとかものそうとしてますよね。twitter.com/Michael_Ende_j... @estei_st それまでのドイツ観念論を継承しつつ、理性による存在の認識を超え、意思は(これまでにない)新たな存在を想像する力
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posted at 23:13:32
カントが想像力を再性的能力としてしまったが、じつはそれは生産的想像力(構想力)bit.ly/1InXgCq ではないか、というのがカント講義書末尾の総括部、さらにカント書ではそれを有限的想像力を齎す超越論的時間地平と語るのです。@estei_st
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posted at 23:11:34
@sunamajiri 面白いことにハイデガーもシュタイナーも、先人の哲学を引き受けながらも、解体し読み替える達人だったといえると思います。両者の生きた時期は重なっていますが、互いの哲学をどう評価していたのか、等。思いつくままに(すみません)。
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posted at 22:57:08
@sunamajiri ひょっとするとハイデガーも同様のことを考えていたのではないか?つまり被投のうえでの企投、新たな価値を創造する、といったことの当時の表現がナチスへの期待だった、等。
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posted at 22:54:50
@sunamajiri 思い出しました、高橋巌さんのシュタイナーを読んでいて思いついたことをひとつ…シュタイナー哲学のキモは、それまでのドイツ観念論を継承しつつ、理性による存在の認識を超え、意思は(これまでにない)新たな存在を想像する力を持つ、というところにあると思いました。
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posted at 22:49:52
実は前半読みやすい高田珠樹が、このあたりになると読みづらくなる。前半な文意で換言できていたのが、後半になると用語の新訳だけで、読みづらい、それでもその箇所は訳注で、こんな感じ。@estei_st さん pic.twitter.com/kk6Dwo2JsM
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posted at 21:26:52
ハイデガーが悪文のお手本のようになるといえば、@estei_st さんの twitter.com/estei_st/statu... を拝読。例のナチ絶賛のように読まれる74節に至る箇所についてだった。@LitoSnowfield
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posted at 21:05:27
それで判るように、ハイデガーは書き手として最悪なのだ。書き手というのは無規定な自我を無規定なままに振る舞う態度のことなのだが、ハイデガーは態度決定というこというために、歴史の規定は時間という全体である、という態度表明をするから書き手として最悪なのだ。@LitoSnowfield
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posted at 08:50:50
無規定でしかない(書き手という)自我になりたいために、形而上学に走ってるね。図式化=概念の規定は全体である、という超越論性を、彼は神のことだと短絡しているようだね。それで自我という仮象になってしまう。彼の言う書き手というのはそういう意味だろう。@LitoSnowfield
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posted at 08:46:02
そうそう、柄谷行人は全体=神という形而上学だね。それに対して全体=時間というハイデガーは、書き手などにならず、普通に有限者が安らかに死ねる、という話をしているのだが、それを受け付けず、柄谷は書き手として死後も不滅でありたい、という欲望の権化なのだろう。@LitoSnowfield
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posted at 08:42:40
時間が一性だから、神の視点でなく有限者の視点が得られる、というハイデガーのような単独者論を、柄谷行人は有していないということになる。柄谷にとって一なる全体はあくまでカントの図式論の言う規則に対する時間規定ではなく、単なる形而上学的な神のことなのだろう。@LitoSnowfield
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posted at 08:27:50
柄谷といえば取り柄は乱読なのだが、彼は読み手として誠実ではないというだけなのだろう。全体より単独者だというのだが、そこには、一性は神のことで、そんなものは存在しないのだから、時間は部分のことだ、という誤読が介在しているように見える。@LitoSnowfield
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posted at 08:24:36
おそらく、時間が一なる全体(一性=トヘン)だから規定だ、というハイデガーの論述を読めていないか、まさか一なる全体の話ではないと、柄谷行人は高を括ってるね。だから読めない、つまり自我という仮象の探求を彼はするね。彼の言う単独者は書き手になることだしね。@LitoSnowfield
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posted at 08:22:44
アーリアとセムという二元論に走るあたりで、内田樹に反知性主義といわれてしまいそうだが、柄谷行人は。セムというより、コギトを実体的に読む仏教の間違いか何かだろう。仮象=無規定=部分と、現象=規定=全体ということを、彼は度外視してしまう。@LitoSnowfield
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posted at 08:02:52
そのハイデガーの親切を読めない柄谷行人が、ハイデガーをデカルトの自我に固執するアーリア人、カントをセム的と一面化させて、トランスクリティーク(ハイデガーに対する超越論的批判)するのよ。@LitoSnowfield
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posted at 08:00:49
しかし、自我という無規定性を、人間などという一般的な概念で規定するな、というのは、一般と個別の脱弁証法のような営みをするユダヤ教のラビのようだ。無規定=仮象を、人間という仮象ではなく、時間という規定=現象に解消するという、カント書が、極めてヘブライズム的に見えるのは事実だと思う。
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posted at 07:28:50
もっとも、カント書ですら、カントの超越論的仮象が、デカルトの自我の無規定性だと、明記的になっているわけではない。そこにカントの動揺ならぬハイデガーの動揺があるのかどうかは、研究者の意見が分かれるところだろう。しかしカント書では、超越論的規定性を言明している。
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posted at 07:25:20
デカルトの自我という無規定性=仮象は何なのか、それは時間という規定だ、という原理の発見というのは、ハードプロブレム(心身問題)という仮象が終結して、有限者がやっと安らかに死ぬことが出来る、ということだから、我々の感覚としてはごく自明なことなのに。@LitoSnowfield
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posted at 07:22:17
この西欧文明の自分探しの原理的終結、時間を歴史の規定にすること、というハイデガーのカント書の暴力(有限者の回復)のインパクトはものすごいね。直後の第二次大戦というより、戦後、非西欧人が反動で自分探しして、ついに原理的に飽和してしまったから。@LitoSnowfield
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posted at 07:19:41
有限者であることを取り戻すためには、自我という無規定ではなく時間を規定として歴史化すればいい。そうすれば無規定な自分探しなどというど壺に落ちることはない。言い換えると、人間や当為を一般論で規定するな、ということだが、やっと一人前になるという趣旨ね。@LitoSnowfield
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posted at 06:48:31
そうそう。自我という無規定より時間という規定だというハイデガーのカント書の有限者の回復というのは、一言で言うと、自分探しなどするな、というようなことだからね(^-^)/ @LitoSnowfield 冒頭文ナイス〜(*^o^)v togetter.com/li/856740
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posted at 06:44:07