大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2017年01月31日(火)
勝手に終焉した日本の戦後文芸。それは、小林秀雄のインテリ批判が、ベルクソンのアインシュタイン批判を批判する営みに結実するはずだった。しかしハイデガーのように安々とはできなかった。なにせ彼の批判するインテリというのは、単なる唯物論者だったからだろう。そうやって文芸は終わった。
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posted at 23:42:05
かつて、ルネッサンスといえば、文芸復興だったのだが、いまやむしろ、文芸からの復興のほうが甚大だ。文芸がかき混ぜ、二元論や認識論や無意識という、雑念そのものにしてしまったもの。それらが綺麗さっぱり、ゴミ箱にいれられること。これほど痛快なことはないではないか?
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posted at 23:34:46
平和ボケという鈍化に限界があったように、戦前、認識論への転倒など払拭されていたにもかかわらず、戦後に鈍化したもの。そうした戦後的なものどもが、近年のハイデガーの全集読みではないが、すべて払拭され終焉してしまった。それが日本の戦後の文芸の終焉だ。雑念がなくなり非常にスッキリだ。
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posted at 23:32:21
一言で言えば、togetter.com/li/1075336 の趣旨のように、存在論を認識論と転倒し、二元論をアプリオリのように語ってしまう。そうしたことが戦前の日本では払拭されていたにも拘らず、戦後日本ではそれが鈍化した。その鈍化が限界に達しただけだろう。
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posted at 23:27:30
かつての戦後、つまり文芸屋が席巻した戦後日本は、小説の三島にしてからがそうであったように、そうした雑念だけが成分だったと言えなくもないが、そうした雑念をどう綺麗に取り除くか。それが最近洗練されてきているんだと思う。
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posted at 23:18:46
正直、ハイデガーの講義録は、しつこいぐらいに親切なので、それを読んでいれば、どんなバカでも、何の話をしているのか皆目見当がついてしまうはずだが、一番難しいのは、それを一般向けに一言でも紹介する時に混入する雑念、先入観の方。これを払拭するのが容易ではない。それでみんな苦労している。
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posted at 23:17:21
近刊、もう一冊はこれだね。twitter.com/Philo_Shinkan/... 最近地味に哲学良書が陸続とてきてるんだろうな。柄谷みたいな文芸屋さんが終焉してくれたおかげで。
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posted at 23:14:19
端的に、《現》というのは、唯物論者の我々の言う《現物》 twitter.com/sunamajiri/sta... のことではない。そういう我々が《現》であるかどうかは、甚だ疑わしい。
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posted at 19:16:09
それは、ハイデガーが《全体における存在者》を視点とすることによって、《存在者の全体》という《仮象としての唯物論=形而上学》を一蹴し、《全体としての形而上学》を語ったことへの反動=読解だったからなのだが。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 19:05:02
奇しくも、今月の私の徒然をまとめる togetter.com/li/1075336 と、存在者の全体(仮象としての形而上学=唯物論)→全体としての形而上学→全体における存在者と向かった。
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posted at 18:59:58
今月は《形而上学の全体》をめぐる、一般向け哲学解説書の新刊ラッシュのようだ。ほかに、認識論と存在論の違いを一般向け解説した新刊が昨日出ていた。だいたい、なりを潜めていた唯物論とか、左右の旧式の対立が顕在化したこと自体、形而上学の全体を見失ったというだけだろう。
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posted at 18:52:22
つまり、「自然科学の形而上学化」からは仮象や無意識として取り零す《形而上学の全体》からしか、自然科学=《全体における存在者》が可能にならない、という話だが、最近のハーバードカント学も、その問題地平だけになってきていると見える。
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posted at 18:41:21
先日のまとめは、ハイデガーが「仮象としての形而上学」=「存在者の全体(に対する無限遠点)」から、「全体における存在者」に転回することで得られる「全体としての形而上学」の話だった。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 18:36:35
この自然科学の形而上学化というのは、冨田恭彦氏のハーバードカント学、つまりロック的カントの集大成だろうか。ハイデガーのカント書以後の「全体としての形而上学」を度外視する一つの営為になってそうだが、またしても「仮象としての形而上学」になっていなければよいが。
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posted at 18:34:50
「近代哲学はカントの認識論で素朴な経験主義を脱し、自然科学から自立したという理解は本当だろうか? 哲学史的事情を踏まえるなら、カントの哲学は自然科学を形而上学によって基礎づけたのではなく、自然科学を基盤としてそれに形而上学の装いを与えただけではなかったか。」
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posted at 16:30:41
ついでに、このハーバードカント学の新刊を買ってきたい。新刊だから街の本屋にあるだろう。(^-^)/ カント哲学の奇妙な歪み――『純粋理性批判』を読む (岩波現代全書) 冨田 恭彦 www.amazon.co.jp/dp/400029198X/...
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posted at 16:30:03
先日のまとめ togetter.com/li/1075336 はそれ自体難読になってしまったが、端的には、一般名詞としての我には、固有名詞としての存在は何ら属していない。悟性と感性は各々に別の根があるのではない。両者には共通の、つまり一般と個別ではない、他の根がある、という話だ。
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posted at 16:20:39
2017年01月29日(日)
こうしてアルキメデスの点は、学校の通俗性、哲学史という教科の欺瞞を、唯物論という世界観の思い込み、つまり存在者の全体=宇宙に対する外部視点=無限遠点の欺瞞として言い当てていく。形而上学を形而下との二元論とする通俗的批判は、何も触発しない。彼はそう知っていたのだ。
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posted at 19:05:37
世界は世界観(イデオロギー)ではない、というハイデガーの世界内存在からみると、今日のグローバリズムにおいて、旧来の学校が目の敵にされているのも容易に理解できる。学校は唯物論というイデオローグ、批判者を生み出してしまうが、それは世界というよりは、思い込みのようなものだからだ。
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posted at 18:44:36
学校が通俗化させるものの最たるものが、形而下との二元論という仮象としての形而上学、つまり唯物論というイデオロギーだが、そうした世界観が世界ではない、というハイデガーにとって、学校とは哲学史=批判者の場ではなく、あくまでも存在史=哲学の場、というわけだろう。
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posted at 18:37:28
近代社会の中核を担うのが学校だが、しかし学校は存在史を哲学史に捻じ曲げるために、批判者しか生まれてこない。本来は触発されているにも拘らずだ。こういう存在史観をこそ、学校で教えるべきだ、というような話をしているのだろう。
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posted at 18:29:11
学校は違いを特徴だけで教える。だから哲学史には存在史がなく、学校は哲学に不向きだ、というハイデガーの学校批判に、触発される人が続出するということなのだが、デリダが触発されたことも隠蔽してしまうのが学校的。学校にかかればすべて批判者だ。哲学史は存在史ではない。
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posted at 18:25:46
デリダがハイデガーに触発されたのも、記号論の二元論性=欺瞞の暴露という点だけだが、それを触発したハイデガーはといえば、形而上学を形而下との二元論に通俗化した学校の欺瞞性の暴露だっただけだ。学校は哲学を通俗化させる欺瞞的な装置だから。
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posted at 18:00:16
今回まとめたツイートは主に、読解メモという話題なので、一般向けに話題付けられてあること、つまり未読者向けの解説になっていないのだが、解説すれば、二元論を読み込もうとする、あらゆる誤読性の暴露になってるのだろう。二元論が先入観だという。togetter.com/li/1075336
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posted at 17:38:53
存在者が、存在者の全体から、全体における存在者となるためには、仮象としての形而上学、形而下との二元論となった学校(学的)形而上学の通俗性を暴くことで、全体としての形而上学に昇格させる。こうしたハイデガーにデリダが批判的だ、という見方があるとすれば、誤解だろうな。
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posted at 17:22:58
形而上学も存在者も、どちらも一致してそれで全体とすること、というのが存在論ならば、カントの感性的理性の分析に徹するカント書までは、ヴォルフの学校形而上学、つまり形而上学とは形而下との二元論だ、というままで、全体としての形而上学に昇格していない。
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posted at 17:07:30
カント書は、存在と時間にくらべて画期的な語り方をせず、ただひたすらカントの無意識を言い当てる作業に没頭するのだが、それでも形而上学はカントが依拠したヴォルフの学校形而上学のままだ。学校形而上学にとって、全体における存在者、という語り方。それでカントの無意識を言い当てるのだ。
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posted at 17:05:25
形而上学は仮象なのか全体なのか。形而上学が全体でないとは、デカルトも含めたすべてのプラトニズム、二元論のことで、それが仮象としての形而上学なのだから、全体における存在者が、全体としての形而上学のことでなくて、どうするというのだ?
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posted at 16:56:04
さてこのようにして、カント書までは全体における存在者にとっての異物だった形而上学が、仮象性のない全体としての形而上学になってしまう、ハイデガーの動物論が問題とされる、というのはだんだん読み取れてきた。しかし、形而上学が仮象であることのほうが、よほどまずいだろう。
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posted at 16:52:47
カント書までは、形而上学は全体における存在者にとっての異物=仮象という扱い。形而上学批判期=動物論では、形而上学は仮象から全体に昇格。「ハイデガー読解201701 オイディプス時間=仮象とは別の確実性が語る=触発すること」 togetter.com/li/1075336
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posted at 16:50:11