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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2017年01月19日(木)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月19日

かつて作者は死んだと言われた。おそらく神が死ぬより甚大なのだが、それよりも甚大なことがある、それは読者が死ぬことなのだ。読者にデカルト的な個人を強いるということ、それほど酷なことが他にあるだろうか?

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posted at 23:32:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月19日

デカルトの自我というのは、「われわれ」という哲学にとっての真理共同体に対する、個人主義の発見のような話だ。しかし、哲学がそもそも真理前提共同体に対する願望であるのだから、仮に個人になった私といえども、同じく個人のあなたに対する時は、愛以外を語れば虚偽というだけだ。

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posted at 23:26:56

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月19日

デカルトの自我というのは、二人称である汝に向かう、余計なお世話を語る自意識過剰な自我だ、というだけだ。二人称であるあなたには愛ぐらいしか語り聞かせられない、というにもかかわらずだ。ハイデガーは愛以外を語るデカルトを、近さではないと批判するところから始めたのだ。

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posted at 23:22:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月19日

語れないことは語るな、という格律(デカルト以来の汝語りの自我)が生じたのも、単に時間は語れるが、不老不死に繋がるような無時間は、国民国家と同様に仮象であり、語ることができない、ということでしかない。人間は語ることのできる時間だけを語っているしかない。

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posted at 23:18:53

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月19日

このように、ハイデガーは国民国家、デカルト的自我、純粋理性、科学的認識、超感性、超自我は、カントのコペルニクス的転回、感性的理性、超越論的構想力、時間からは、近いどころか、程遠い、と転回するのだ。

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posted at 22:40:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月19日

ハイデガーの近さとは、デカルトの自我、つまり国民国家など仮象だというものだ。仮象であるデカルト的自我を時間論すると、科学的認識=超自我が生じてしまうのだが、超自我=感性からは、カントの言う感性的理性、つまりコペルニクス的転回が抑圧されてしまうのだ。

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posted at 22:31:24

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月19日

しかし、それも子供とは悟らないもの、悟りとは釈迦の老後、と表象=仏像化されたことへの負い目でしかない。日本人が不老化するのは、こうした悟りへの負い目ゆえだが、それは性的な負い目といってもよいだろう。こうして日本人は不死化した。togetter.com/li/1072175

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posted at 22:09:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月19日

これは、科学的認識からは性的な抑圧とされる無意識だが、そうした科学的認識自体が負い目の産物だ、というコペルニクス的転回なのだろう。そして、もしそうした負い目から近さが語られると、サザエさん的な不老の無時間が語られることになる。

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posted at 22:07:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月19日

それはハイデガーの言う意味でカントのコペルニクス的転回を読めなかった負い目だろう。コペルニクス的転回とは、宗教を科学にする認識論的転回=超感性ではなく、超感性からは無意識とされる、感性的理性の負い目を払拭することにこそあるからだ。

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posted at 22:05:54

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月19日

サザエさんは無時間そのものだ。私が幼児の頃から、波平もカツオもタラちゃんも、歳をとらない。この歳を取らない、という日本の病がどこからきたのか。ハイデガーは近さの話をする、サザエさんが日本では国民文学的な近さだ。そしてサザエさんは不老=無時間的なのだ。

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posted at 22:02:18

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月19日

ハイデガーは死ねないこと、不死を語りの負い目=悪だと哲学したのだが、日本人は仏像が釈迦の老後であるためか、いつまでも歳をとらず不老不死のセックスレス社会のようになってしまった。これはハイデガーが懸念した最悪の事態なのだ。

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posted at 22:01:09

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月19日

「なぜ日本人は、歳をとらないサザエさん一家のような、無時間を語りたがるのか?」をトゥギャりました。 togetter.com/li/1072175

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posted at 21:56:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月19日

日本は極度に不老不死が高度化した。それはハイデガーの言う意味でカントのコペルニクス的転回を読めなかったからだ。コペルニクス的転回とは科学的認識のことではなく、超感性にとっては無意識的抑圧とされる、性的欲求に負い目を抱かないことなのだ。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 21:23:28

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月19日

あとで再話するが、ハイデガーはカントによるコペルニクス的転回は、従来考えられていたような宗教を科学に認識論的転回することではなく、道徳的転回、つまりエッチしたくて何が悪い、という無意識(感性的理性)の負い目を払拭することだった、と言いたいわけなのだが・・・・。

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posted at 20:34:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月19日

ハイデガーのカント書というのは、尊敬論なので、なぜ日本人が、科学的になればなるほど、リスペクトを欠くような不安のドン底に落ち込むのか、という話題なんだけどね。 pic.twitter.com/blu6KQOTd3

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posted at 03:43:14

2017年01月17日(火)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

ハイデガーの思想は実に単純、読まずに(解釈学的状況 twitter.com/sunamajiri/sta... を踏まえずに)勝手なことを宣うな。そんなものは、コペルニクス的転回でも科学的でもない。認識が(科学的に)対象を産み出すという新カント派に向けた痛烈な批判。@inja650rr

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posted at 22:56:20

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

それが、冒頭の論文にあった、コペルニクス的転回を新カント派は、認識が対象を文化として生むと履き違えている、というハイデガーによる批判であり、それは転回ではなく、恣意的な転倒にすぎない、というピュアリベラリズムの話なのだが、ちゃんと読んできたのかしら?@inja650rr

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posted at 22:54:17

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

みんな読まないで好き勝手に認識し、それを科学的だと満足してしまっている。それが人文学の危機でもあるのだが、専門家の問題だけでなく、世の中の全体が「科学的かどうか」という前近代の意識に逆行してしまっている。現代文というのは近代的自我を読ませる学科だからね。@inja650rr

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posted at 22:53:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

蛇足だが、FBでリトさんに「詩人である」と呼ばれてしまった。しかしそれはハイデガーなのだ。確かにハイデガーは韻文の書き手ではないのだろうが、散文、それも人一倍饒舌な散文で、詩人となった。私もそれに少しは倣いたい。bit.ly/2jZzRUt @BeTakada pic.twitter.com/BfPF5721eV

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posted at 15:11:26

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

重要なのは、世界観では食べれない、という本来の形式があったればこそ、詩学が生じるというハイデガーの現象学なのです。世界内存在というのは、世界観ではないということです。それでは生物である人間は生きていけないばかりか、コトバを紡ぐことが絶たれるのです。@BeTakada

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posted at 15:04:45

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

三島に引き寄せれば、三島も超越論的構想力に突破していない。つまり文化に箍はめされたままです。だから彼はリアリズムに依ってファンタジーを構想しようとしてしまい、現実逃避だけの失敗に終始しただけです。詩学はそんなところにはない。@BeTakada

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posted at 15:02:51

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

このカッシーラーの終末論的文化哲学の翻訳者は全共闘です、全共闘が三島を総括しようとして総括されてしまったという話( togetter.com/li/1070250 の末尾)をしたが、ハイデガーは、そうしたカントの本来の総括の話題をした。それが超越論的構想力です。@BeTakada

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posted at 15:00:37

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

この、あったればこそ=内的必然性による転回、つまり転回とは恣意性ではない、という形式言語があったればこそ、コペルニクス的転回を現象学とできる。ところがカッシーラーは、転回は認識による恣意性であるとして、まさに文化に箍(たが)をはめてしまったのでしょう。@BeTakada

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posted at 14:47:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

あったればこそ、形式告示、内的必然性。それらによって本来の話題を現象学できる。あるいは現象学は話題の志向性を含むことができる。そういう話をしようとしていますね。そこでは一切の終末論が排除されるのです。現象学は形式告示的解釈学があったればこそ、なのです。@BeTakada

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posted at 14:40:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

この、あったればこそ、という内的必然性が問われるのだが、ところがそれを内的必然性と理解できないとどうなるか。世界観から生物を抽出(救出)する分析作業である基礎存在論の言う、先駆的決意性=終末論に回帰してしまうのです。しかし、それは形式告示であるにすぎない。@BeTakada

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posted at 14:37:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

ここで転倒してはいけないのは、ハイデガーの基礎存在論が、そうした世界観(グローバリズム)というイデオロギーでは、食べれない、という生物論をしていることです。この『世界観では生物は生きていけない』という基礎存在論があったればこそ、という話になる。@BeTakada

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posted at 14:35:36

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

資本家は食うべからず、というレーニン的な終末論は、パウロの本来の時間論ではない、というのが初期ハイデガーの形式告示で、それが本来の転回を志向させる、というのが内的必然性と定式化された問題だが、たしかに働く者は食うべからず、というグローバリズムになった。@BeTakada

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posted at 14:31:21

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

~だっただけです。たまたま今、神学修士の知り合いが、勉強するものがないと最後に行き着いたのが投資の勉強だと言ってきた。ニューハーフ商売を畳み、音楽の勉強とアプリ開発と思うも、個人で開発できるアプリなど限られている。勉強するなら投資だ、と言い出したんです。@BeTakada pic.twitter.com/J3sqOY34XI

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posted at 14:25:56

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

不労所得者は食うべからずという偽パウロ書簡が、第一次大戦後に終末論として流行した。しかしそれは本来のパウロの時間論ではない。というのがハイデガーの解釈学、つまり現象学とは話題の志向性を含む、という形式告示的解釈学 twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 14:18:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

「コペルニクス的転回」は(新カント派やカッシーラーがいうような)認識論的転回ではなく、そんなところに文化、つまり人類学ははない、という解釈学が台頭したということなのだが、そうした解釈学的状況の発端は初期ハイデガーの、偽パウロ書簡=終末論批判だったんでしょう。@BeTakada

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posted at 14:17:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

しかし、鈴木英明論文にあるように、実在論である認識論的転回によって、リベラリズムはどんどん欺瞞的になってしまうが、アメリカの国家戦略でもある比較文学がピュアリベラリズムであるように、カントの本来の超越論的構想力とは、よりピュアな自由を言い当てていたのでしょう。@BeTakada

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posted at 05:13:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

鈴木英明論文ではカントにならって「不可知なもの」と呼ばれる超越論的構想力だが、こうした深淵に、その後のハイデガーであるGA65では別の名前が与えられた、というタカ基地さんの洞察はカントの億万倍もスピーディー。twitter.com/BeTakada/statu... @BeTakada

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posted at 05:07:59

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

丸山論文の「メタ存在論は基礎存在論の内的必然性か」という定式化にあるように、実存論はカントの被制作性暴露の代わりに、先駆的決意性を抱かせた。それが内的必然性となって、カントの気分分析であるメタ存在論が可能になったわけです。その結果、最後の神への言及が始まる。@BeTakada

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posted at 05:01:21

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

そのためにまず生物論(実存論)が基礎存在論として立論され、それが内的必然性となって、カントの不安を言い当てる必要があった。それが不安によるメタ存在論の創始です。想像力こそが、個別と一般という、感性と悟性を綜合する唯一の方法だ、と言っているように聴こえました。@BeTakada

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posted at 04:48:01

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

要するに物神とかマネーというフェティシズムというのは、カントの感性(個別)と悟性(一般)を能産する超越論的想像力の、代替わりとしてあるものにすぎない。しかし、転回を認識論=恣意性だとしてしまうと、単なる実在論に陥り、物神が跋扈してしまう。@BeTakada

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posted at 04:42:29

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

文化は自然現象だという認識論は、想像力を否定する物神論でしょう。新カント派は、カントを実在論と真理前提して、対象は認識に準拠する、という恣意性を認識論的転回とし、カッシーラーは文化を語るが、ハイデガーはそこからの転回を形式問題だというんでしょうね。@BeTakada pic.twitter.com/rgCQbwb4mC

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posted at 04:37:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

ここで手加減すると単なるマネーだけの時代になってしまう。カントにはそれ以上に、個別(感性)と一般(悟性)を統御する想像力があったが、その深淵にカントが怖気づいてしまった。それでマネーだけになってしまう。ハイデガーのいう最後の神とは、この想像力のことでしょうかね。@BeTakada

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posted at 04:17:20

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

鈴木英明のカント書論 bit.ly/2jgQbNp は、カントを不可知=想像力からの退却とする新カント派~カッシーラーを構造主義、カントを不可知=想像力とするハイデガーの新カント派批判を、ポスト構造主義に擬えていて、忌憚ないですね。@BeTakada

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posted at 04:12:28

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

奇しくも今年のセンター試験国語問題が、まさに自然の実在に神を見てしまう、国語力の低下を踏まえたテストだったのは偶然ではないだろう。たとえば、それを為政者のせいだと答えると、失点する設問まであった。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 01:27:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

自然を文化と曲解し文化が圧殺される。これは日本では1995年のオウム事件以後、それまで文化と許容された不可知を許容しないエヴァ世代になった、とよく語られる。自然現象しか許容しない消極性だが、それも関連があるだろう。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 01:19:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

これは、民俗学や神話学、あるいは文化人類学がアプリオリなのか、比較文学(超越論的構想力)がアプリオリなのか、という議論だが、日本では柄谷のトラクリが、旅をしないカントを、デカルトのように旅をする文化人類学者にしてしまう。これを批判するのがハイデガーというわけだ。@BeTakada

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posted at 01:06:31

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

つまり、比較文学だけが、個別と一般、感性と悟性を統御する、主体的な能力=ピュアリベラリズムであり、これが不可知なものとカントが呼んだものなのだ。それ以外のリベラリズムがすべて欺瞞的に聴こえるのもそれゆえで、これが戦後アメリカの国家防衛教育法の理念にもなっている。@BeTakada

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posted at 00:55:30

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

(続き)こうした、カントを不安に陥れた不可知なものとしての想像力は、戦後冷戦期のアメリカが国家防衛教育法で育成した比較文学、つまりピュアリベラリズム、あるいはサラダボウルとかメルティング・ポットのことだ、という話だ。私はアメリカの比較文学学の専門家だからね。@BeTakada

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posted at 00:51:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

(鈴木英明によれば)ハイデガーのカント解釈は、個別(感性)と一般(悟性)を統御する主体性(リベラリズム)である、非理性的な想像力(構想力)が、不可知なものであるため、カントが不安にかられた、というハイデガーの気分論だが、(続く)@BeTakada pic.twitter.com/mr22N768dp

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posted at 00:51:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月17日

鈴木英明『冷戦期アメリカにおける「不可知なもの」-ダヴォス討論と~』 bit.ly/2jgQbNp の最後にあるように、戦後アメリカは、比較文学を、国歌防衛教育予算で育成したからね。それがハイデガーのカント解釈のいう構想力だ、と喝破してるね。@BeTakada pic.twitter.com/pkpUydjft4

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posted at 00:37:00

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