大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2017年01月28日(土)
哲学はコペルニクスのような転回を望むがそれは、形而上学を仮象とする二元論ではなく、ハイデガー以後は確実に、科学的認識なるものが無意識化させる諦めを意味するのではなく、より確実な現勢=意識を触発する時間性となったのだ。togetter.com/li/1075336
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posted at 23:11:07
私たちはつい、狭い確実性から、全く仮象でしかない不確実性を妄想してしまうが、ハイデガーはそうした不確実でデリカシーのない仮象を、完全に払拭しようとしたのだろう。togetter.com/li/1075336
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posted at 22:36:16
科学的認識が確実なのではなく、科学的認識が無意識へと追いやるオイディプス時間が不確実というだけで、そうした仮象を抜き去った時に、はじめて本来の確実性が出現すること。そのことは科学にとっての無意識という、デリカシーのない、そういう蒙昧とは全く異なる境地なのだ。
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posted at 22:35:31
つまり、ハイデガーがカントを一元論、現勢とみなすことで、形而上学の仮象性、オイディプス時間を暴露して、それを払拭することができたのも、デリケートでスムーズな語りがあったればこそなのだ。そういう確実性。それは全く異なる確実性だ。
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posted at 22:34:56
二元論=潜勢から分析をはじめるのは、確実性=科学的認識ですらない。デリダは、ハイデガーの形而上学批判期を、後半のオイディプス時間から逆向きに読むが、二元論では二元論を払拭できない。そうしたジレンマは何も触発しない。
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posted at 22:34:23
こういう想像力が、彼らには露ほどもない。そのデリカシーの無さに幻滅するばかりだが、さすがにアーレントがぞっこんになっただけのことがある。デリカシーというのはハイデガーぐらいにしかないのだ。
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posted at 22:33:58
思えば、無意識の科学とは、なんとデリカシーのないものか。科学的確実さの無意識とは、何に対する抑圧なのだろうか? 平明に言えば、出産が男子にとっては無意識だという、そういう陳腐な空想のことだ。しかし女子には無意識ではない。
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posted at 22:33:34
だからこそ、形而上学批判期においては、形而上学の仮象性が、オイディプス時間だと言い当てられるのだろう。そのような無意識の時間は何も触発しない。ハイデガーの語りは、ますますスムーズになっていく。
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posted at 22:32:55
コペルニクス的転回とは、科学的認識が無意識を生むことではない。ハイデガーのカント書は、そうしたカントが怖気づいたものに言及し、二元論からの読みの息の根を、完全に封じる。
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posted at 22:32:29
科学的認識=確実性が無意識に封じ込めるもの。そうした仮象性を暴露するハイデガーは、二元論=潜勢から語らない。コペルニクス的転回とは科学的認識のことではなく、それがオイディプス時間へと蹴落としたもの、一元論から、じんわりと触発的に、語りを出発させることだ。
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posted at 22:31:35
ハイデガーはそれをカント書の一元論から語り、デリダはそうして語られたハイデガーの形而上学批判期を、ハイデガーが仮象としたオイディプス時間から逆向して読解する。その不確実性について。togetter.com/li/1075336
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posted at 22:31:12
「ハイデガー読解201701 オイディプス時間=仮象とは別の確実性が語る=触発すること」をトゥギャりました。 togetter.com/li/1075336
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posted at 22:06:22
私のツイッターではじめて、哲学論文の文体、○○という概念は、☓☓という概念に属する(含まれる)、(言いたいことは)これである。までではじめたから、そろそろツイートをこえはじめてるなこれは。止まらないのだが(笑)。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 06:30:23
入手しづらいGMという巻が来てからと言うもの、概論に換えた予備考察を読んだだけで、これだけ触発されて読書メモが止まらなくなってしまう。いい加減論文でやればいいのだが、ツイッターではじめて、哲学論文の文体、AはBに属する、これである。がでてしまったほどだ。
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posted at 06:25:02
極めて端的に、ハイデガーというのは無意識などないと言いたいのよ。無意識というのはデリカシーがないじゃないかと。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 06:19:55
カント書が現勢的だから、ハイデガーは両義性(潜勢)からは形而上学は思惟できない、というのだが、こうした両義性が潜勢であり、カント書に現勢があるということが、ハイデガーの形而上学批判期に思惟されているということを見落とすと、そこでいわれる仮象としての形而上学となってしまう。
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posted at 06:18:51
ここで、だいぶ前に導入した、潜勢と現勢という二分法について、潜勢とは予め二元論を読み込んだ思惟のことで、現勢とは予め二元論を排除した思惟のことだ、と概念把握しなおすのは、有用かもしれない。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada
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posted at 05:57:26
こうしたschein(仮象)論から遡ると、GMでの「両義性からは形而上学は読み取れない」というような話、そしてカント書の一元論に遡行するわけで、それに対するあらゆる誤読のように、二元論=仮象に遡行しているわけではない。
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posted at 05:48:51
まるでメビウスの輪だが、このようにしてハイデガーの形而上学批判期は、仮象のオイディプス性を、形而上学から抜き去ることに成功するのだろう。仮象((二元論や形而下)が脱去させていた形而上学から、仮象を脱去すること。
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posted at 05:47:00
二元論ありきで読む人には、こうしたアプリオリの無意識性こそが、科学的認識として語られてしまうのだが、そうした科学的認識にとって無意識にされてしまうもの、そこにアプリオリなどない、彼らの二元論批判は、むしろそういう話題だからだ。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 03:18:40
ところで、ウィトゲンシュタインが批判したアプリオリをハイデガーが語っているというのは最大の誤解だ。ハイデガーはアプリオリが無意識のような仮象ではない、というカント解釈を通じて、そうしたアプリオリ批判の原理を提示しているだけだからだ。twitter.com/lemoncyder/sta...
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posted at 03:14:03
2017年01月27日(金)
デリカシーのない男子に幻滅するのだ、さすがアーレントがぞっこんになっただけある、デリカシーというものはハイデガーぐらいにしか感じられない。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 18:24:33
あの人達が、無意識の科学ばかりするのは、やはり男子には無意識だからというのが大きいのだろう。何に対しての無意識か。もちろん出産が男子には無意識だということだが、男子には無意識なのに、女子には全く無意識ではない。そういう想像力が彼らには露ほどもない。 @LitoSnowfield
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posted at 17:48:58
こうした複合的なプラトニズムからすれば、ハイデガーの超越論がいかに素朴にみえることか。科学的認識からは無意識と実体視されるようなもの、そのようなものを実体として語らないこと。そうしたハイデガーの構想力を、とくに柄谷行人が退けたことが、現代日本の閉塞であると言っても過言ではない。
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posted at 17:31:16
西欧人は記号のプラトニズム性から語り始めてしまいポスト構造主義のように頓挫を繰り返すが、翻って私たちは、西欧を一つの世界観のように捉えることで、こうした二元論というプラトニズムに強力に拘束されてしまう。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 17:29:12
それほど、プラトニズム、つまり二元論という、いわばアポステリオリはしつこいのだが、それに対しては、ただ二元論から語らずに、構想力から語れば良い、というハイデガーの態度に準じるしかない。その点でポスト構造主義は頓挫したのだ。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 17:25:59
それは、カントを二元論を葬った者として読んだハイデガーから、再び二元論を読み込み、ハイデガーが終わらせたオイディプス性の暴露という問題群に、ふたたび回帰してしまっているからだ。
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posted at 17:21:24
こうした主客なのか構想力なのか、という命題は、実に戦前の日本の哲学状況そのものだったわけだが、戦後の終わりに際して、こうしてハイデガーからしか触発されないという事態が、またしても起こっているということも看過できない。
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posted at 17:16:01
私たちは、主客から記号論に至る二元論に囚われて、そのオイディプス性の暴露ばかりを語ってしまう。しかしハイデガーにはこれがないのだ。構想力から語り始めると、すでに主客の二元論は葬られているからで、ハイデガーはオイディプス性が暴露された、その次を語ろうとしているからだ。
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posted at 17:14:26
蛇足だが、そもそも小説文学のスムーズな語りを収奪した柄谷行人の語りが、こうしたハイデガーの構想力に対する二元論を捏ち上げ、それを受けたのかどうかは定かではないが、ハイデガーをラカンに同一視して否定神学システムに入れた東が、すべての語りの触発=スムーズを収奪した事態は看過できない。
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posted at 17:12:55
このようにして、感性(客観)と悟性(主観)の根源(アプリオリ)は、構想力であるという超越論は、GA40に至り、仮象のオイディプス性の暴露となるschein論を触発するが、残念ながら、オイディプスから触発された語りでは、構想力というアプリオリには突破できないのだろう。これである。
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posted at 17:01:23
二元論を解体するためには二元論が前提されている。二元論ありきではオイディプス時間に拘束され、語りは何事も触発しない。こうしたプラトニズムに対して、二元論からは無意識とされてしまう構想力という一元性から語りだす時間は、あらゆるプラトニズムの欺瞞を暴露するスムーズな触発=語りを得る。
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posted at 16:57:44
たとえば、デリダは記号論という二元論によって、プラトニズム自体を探求しようとしてしまうが、カント~ハイデガーは構想力こそ超越論的だとすることで、こうした探求、二元論を着手点とすることを免れている。こうしたスムーズな触発が、ハイデガーの形而上学批判期の語り=触発なのだ。
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posted at 16:57:26
この語り=触発のスムーズさこそが、非オイディプス時間なのだが、構想力は感性(客観)と悟性(主観)にとってのアプリオリだ、という一元論を真理前提とするときだけ、二元論=プラトニズムをアプリオリとした、記号論に至る問題群を正確に捉える、触発を得ることができる。
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posted at 16:57:06
いずれにせよ、デリダが二元論ありきで語るのは、記号論の現前性、プラトニズム批判だからで、記号の二元論批判からはじめると、この図式論の一元論への道が塞がれてしまう。これがまさにオイディプス時間だが、それによっては何事も触発されないのだろう。スムーズではないのである。
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posted at 16:56:49
デリダの参照するハイデガーの形而上学批判期を、この点で大雑把に約言すれば、構想力こそが純粋なのだから、主客という二元論は、純粋な構想力、時間に先立たれており、それがオイディプスという仮象をも生むので、構想力はオイディプス時間とは別の時間だ、といったようなものだ。
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posted at 16:38:42
カント書の図式論とは、感性と悟性という理性的なものは、理性的なものからは心理的な無意識とされてしまう構想力ないしは感性的理性によって触発されたものに過ぎず、これが超越論的真理だ、というような布置とすれば、そこには主客のような二元論こそ前提されていない。
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posted at 16:38:10
二元論ありきで語るオイディプス時間は何も触発しないが、スムーズな語りは触発的だ。これである。デリダは記号論から語り始めるので触発的に聴こえない。それは、仮象とはオイディプスのことだ、というハイデガーの触発が、カント書のbild論に端を発する、という理路を塞がれているからだ。
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posted at 16:36:56
三木清『人生論ノート』bot @jinseiron_note
感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層真理に近い。感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。真に主観的な感情は知性的である。 【孤独について】
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posted at 10:39:08
現物でない記号こそ存在者=現前的だ、というデリダの記号論批判は、結局二元論から話を始めたオイディプス時間なのでしょう。ハイデガーがこうした二元論からはじめないこと、というBild論からはじめることで、あの極めて平易な、GMの語り聴かせが可能になっているのだから。
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posted at 01:23:02
デリダは二元論を脱構築すると言いながら、そのじつschein論から記号の現前性を批判することで、二元論からはじめてしまっている。しかしハイデガーのbild論には、これがない。つまり二元論=潜勢からはじめるということがない。(版面『終わりなきデリダ』122p)。 pic.twitter.com/kqBTo8xHVx
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posted at 01:20:00