大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年05月27日(日)
哲学の近代化は音楽論の放棄だったという話を前したが、TLにウィットゲンシュタインの音楽論がよく流れてくる。彼がクラリネット奏者だったというところから納得。音楽は論じられない対象だが、奏者という主体には論じれる何かがあるのだ。
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posted at 05:30:42
男子が独り善がりに自己の性感帯の不在の話を、哲学と錯覚するような現代思想の連中というのは、それだけで、つねにすでに女子を排除する独善性にみえて、虫唾が走るのだった。最悪(・_・;)
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posted at 02:20:01
・・・と、苦言を呈するほどに、男子のペニス不感症やアナル性感の懺悔が哲学になると、うざいものはない。誰もそんなものに感心はない。少なくとも女子には感心がないし、そういう言説そのものが、女子を蚊帳の外においてきたのだ。とっとと氏ねってかんじwww (^-^)/
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posted at 01:57:45
だれも恋人でもない他人の性感帯の告白に、哲学なんて感じない、ただそれだけの話だ。みんな無関心なだけだよ。無関心としての尊重なんではないのかしら? そこには社会性という問題は無いと思う。
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posted at 01:53:55
ファルスから移動した性感帯、アナルがどうのという人達の懺悔は、哲学ではない。彼らのほうが懺悔のような告白に陥ってるだけで、よほど宗教的に聴こえる。なぜ罪悪感をもつのだろう。たんなる性感固着の話だ。精神分析のレベルですむ話で、精神異常ですらない。妄想と思いたいのだろうか?
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posted at 01:51:20
思春期の子供たちのほうがよほど素直に、「そのもの」には何か対立項があると分かっている。知性というのは本来そういうものだ。AをBに言い換えて、というのは読解での解法だが、ただそれだけのことで、他に何か意味があるわけではない。(^-^)/
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posted at 01:40:57
神を存在と言い換えたり、観念と言い換えたり、そのものと言い換えたり、換喩はほんとに下らん。哲学というのは雑談としてはつまらん。単に学者が学位を取る、証明としてしか意味が無い。それを他にあるはずとやるから、変なこと言う人達が出てくる。
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posted at 01:39:41
うーむ、神や自然や実体という単独の語義がテクストでも有意味化しなくなると、より直接に、陰茎とか睾丸という語彙を外部化させて、切除したりするようになるのよね。そういう人何人も知ってて、切除した睾丸を持って来ました見ます?といわれて、ドン引きしたことがある。「そのもの」はいらない。
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posted at 00:30:54
人生にテクストが不要なのだろう。t.co/e2Yjktu0 あらゆる語彙、諸用語に意味は無いが、テクストがそれらを有意味化させるわけでもない。他方、音楽は言語化できないが没頭すると、とても気持ち良いので、テクストは生活に不要なのだ。
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posted at 00:10:56
2012年05月26日(土)
人生にテクストが不要なのだろう。t.co/5Sy2EXYq あらゆる語彙、諸用語に意味は無いが、テクストが有意味化するわけでもない。音楽は言語化できないが没頭すると、とても気持ち良いので、テクストは生活に不要なのだ。
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posted at 23:57:46
国宝銅造阿弥陀如来坐像。1252年とは、どういう時代なのか私には想像がつきにくい。かのマルコ・ポーロは、は1254年に生まれたそうなので、10年近くかかったというこの大仏様の造立時期は、マルコ・ポーロの幼少期と重なるということか。 t.co/AXT6XwV2
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posted at 13:19:06
ショーペンハウアーは実に粗野な人物だったといえるかもしれない。
つまり、洗練はされているのだが、ある深さに達した途端に、突然そうではなくなり、このうえなく粗野になるのである。本来の深さがはじまる場所で、彼の洗練された深みは消えてしまう。
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posted at 03:58:46
■ツイート自分用まとめ集■語りえないものを語れる宇宙の外 t.co/JUgAFavD 神学から存在をどう取り戻し世界は性感帯論という語りえないものになったか?(^-^)/
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posted at 00:16:10
2012年05月25日(金)
(哲学の言う)世界は性感(帯論)で、なんでソフィストの言う欺く悪霊、語れないもの=世界にあってはならないもの、になるかいまいちわからん。彼らは、世界をどうあるべきと妄想してるんだろう? 自由?
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posted at 10:33:43
2012年05月23日(水)
和声二元論は現代ジャズを用いて初めて体現化できます。そこでは、cの上方領域がg、下方領域がf、ですから上方のG7、下方のF7ができドミナント/サブドミナントではなく、上方のドミナント、下方のドミナントができます。だからF7→Cはブルースなのではなく、従来の属和音の二元化になります
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posted at 14:53:39
結局のところ、國分氏は、知性改善論は定義論で、デカルトの太陽の刺激の例と対比して、幾何学と神を弁別したが、エチカでは、無限遡行に陥らない「命名される神」(という解決を生んだ)、という話をしているだと思うのだが、どこか論述が撞着的だ。それはスピノザにある問題ではない(気がする)。
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posted at 12:35:41
極論だが最近、日本語は言語ではないのではないか、とさえ考えてしまう。大抵の人は日本語は柔軟で外来のすべての概念を吸収しているつもりなのだが、最も肝心な事柄だけが日本語にできない。そんな気さえする。
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posted at 07:38:13
よく日本語は柔軟というが、じつは根本的に日本語に訳せない事柄があって、それに真摯に向き合えるかどうかだけが、国内では学者の真価になってしまうという話。なかなか面白い。
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posted at 07:32:00
柄谷行人がクリプキの哲学を通じて言おうとしたのは、固有名の単独性と並んで、命名行為の社会性でもある。社会的な命名とは、要するに子どもを名付けること(名付け親になること)を指しており、それはすなわち、かの吉本隆明が語った「対幻想」を理論的に受け継ぐものだったのではないか。
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posted at 00:29:23
2012年05月22日(火)
7/7~9/15(土)15:30-17:00 國分功一郎「スピノザ入門」@朝カル新宿:第二期は、「デカルトの哲学原理」を読む。 t.co/SuvfThlj 学生会員割引あり。(牛)
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posted at 14:52:56
2012年05月21日(月)
2012年05月20日(日)
非公開
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posted at xx:xx:xx
ピアノに向かって作られた曲、ペンで考えながら作った曲。内なる耳だけで作られた曲。これらはそれぞれ全く異なったものであるに違いない。そして、全く異なった印象を与えるに違いない。 −
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posted at 13:28:38
信じるという問題は、多分社会的ということなのだろうが、社会的でない私はいまいち分からない話。信仰者でも無神論者でもない気がしているのも、そこが原因なのね。何も他者と共有したがらないという点で。よくわらんが(・_・;)
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posted at 02:53:02
なんか↓の対話、信仰者を説得(共有)することに腐心したデカルトに対して、スピノザが「分かることを分かる」を共有しようとせず、言語論的な転回(言葉の定義)だけになったというのと、無神論者が無神論を、他者と共有したいというのは、メビウスの輪の表裏みたいに感じた。(・_・;)
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posted at 02:49:19
スピノザみたいに2回破門されちゃうわよーwww それにしてもアメリカは文学やエンタメから大統領演説まで信仰告白なのに対して、私達ってなぜか無信仰潔癖告白の文学になりそうなのよねー(^-^)/ @femmelets @slitsandfrills
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posted at 01:28:49
今日の読解は、行き帰りの30分ずつの電車で、1時間足らずの読解だったけど、ちょうど第七章に移行した時に、証明がどっかいって、命名に変わった、言語論的転回を通過した気分だった。
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posted at 00:33:04
個人的には、1)日本のスピノザ受容(訳出と言説化)、2)ポスト東というか國分氏の世代の哲学論の文体に直感する、何らかな病理の解明に動機づけられて、国語読解としてテクストを読んでいる。
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posted at 00:32:10
國分本の同箇所は、畠中訳+國分訳かはまだ確認していないが、ちょっと違う。いずれにせよ、知性改善論の定義と異なり、エチカでは定義は用語の命名(凡例)で、証明が不要だ。 t.co/gKehg00E
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posted at 00:30:54
指をざっくり切ってしまった荷物は、じつは河出の思想体系全集を2千円(ゴミみたいな値段)で落札した荷物だったのだが、和訳低本の畠中訳ではない、高桑訳のエチカ冒頭の定義の翻訳は、凄まじいことになっている(・_・;) t.co/Qu3H80Cz
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posted at 00:28:18
つづいて國分第7章冒頭。エチカは著者名を含む論述の外部を必要としない匿名的テクストだ。から始まり、知性改善論では定義で(神の存在を)証明しようとしていたが、エチカ冒頭の定義は証明が不要な神の命名だ、という趣旨。 t.co/j5rJL66K
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posted at 00:21:40
そのために、Evenoteに命題をメモりながら精読しないと、論述自体を見失う。画像は第六章読了時のノート。幾何学は真偽のある虚構だが神は虚構ではないとした知性改善論は、個物と神を同列定義するエチカの方法になっているか?という問。 t.co/cUZEKAVz
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posted at 00:17:51
若い哲学論文に何か病理がある気がして読んでる。たとえば國分氏は相似の論証が連続するが、前までの論証との差異が明示的ではない。これは柄谷行人の断言体とはどこか正反対だ。あれ?またそれ?今までの論証と何が違うの?が明示的でない? t.co/wizp1ok4
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posted at 00:14:34