大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年11月13日(火)
うん、現象学って、近代哲学が、全てを認識の対象にしようとしたことで、見えなくなる自分とは、っていう現代哲学のきっかけみたいなもの。たとえば物理学のように自分を心理学してしまうと、実は自分が隠れてしまうから、心理学批判が主流らしい。(^-^)/ @KouzaShibuya
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posted at 14:00:00
私が晒せる世界が無限とは思っていないけど、私のできる限りの世界はこれからも晒そうと思う。晒されない世界なんて、世界内存在の私には、ないも同然。(^-^)/
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posted at 13:44:33
にしても、この「絵画の仕方を描写する文が音楽の仕方を神と名づける読み方」というメルロ現象学の理路は、最も横柄にみえるのよねー。たぶん読解力がないとそういう風に受け止められる。しかしこんなに学びに謙虚な態度はないとおもうんだがなー。読解力の乏しい人はだめね(^-^)/
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posted at 13:30:42
私達はメルロ=ポンティも言うように、〈意識〉か〈無意識〉かの二者択一を迫られてはいない。意識は無意識の顕在化であると同時に、無意識は意識の産物である。自我はエスが物象化したものであると共に、エスも自我が無ければ生まれない。『言葉・狂気・エロス』
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posted at 10:05:31
とはいえ、こういう主知主義に対して、経験論ではなく現象学は何ができるか、というメルロのような問題です。確かに神は問わない=認識しないが、知性は、だからといって経験というわけでもない。t.co/E2JRyt2E @sunamajiri
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posted at 03:39:27
・・・という風に、神懸かってくるから、たいていは現象学や客観性は(起点が隠蔽されることで)歪んで捉えられ、病気が再生産される、ということなのですが、私もこれをやると神懸かってくるので、ここいらで中断。いやQED(証明終わり)(笑)。@sunamajiri
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posted at 03:30:55
このように、たいてい知性の話、つまり現象学の起点の話は、回心で終わることになっています。それが最も合理的な回心の仕方だからなのかもしれません。回心できなければ、病気になり、知性とはならない、端的にそういう事柄なのでしょう。@sunamajiri
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posted at 03:26:53
それは端的に、我々は神ではないということに尽きるわけですが、そのことにより、知性は容易に改善され、認識論の客観性と物事の分別は、誰でも常識として持てるわけです。持てていなければ多くの場合認識の延長の客観性が歪み、病気になります。@sunamajiri
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posted at 03:25:23
このように知性の改善=現象学の起点とは、認識による無限遡行=神の存在証明の無限遡行という陥り方をしない、あるいはそこから自由な我=コギトということです。それがそんなに難しいことだとは私には思えない。@sunamajiri @slitsandfrills
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posted at 03:23:40
デカルトの方法序説は神要請です。それを批判したスピノザは神の存在証明を完遂し、デカルトの神要請を不要にする仕方=現象学の起点であって、それがスピノザのいう「知性改善論」なのでしょう。実際に知性とはそういうものだと思います。@sunamajiri @slitsandfrills
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posted at 03:14:54
だから方法を問うのは誤りなのです。方法からは認識、すなわち神とは何か?という無限遡行、言い換えると無神論に陥ります。しかし神を論に含めない論というのは、おそらく判読不能なのです。方法から問うとそうなるが、それなら仕方を変える。@sunamajiri @slitsandfrills
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posted at 03:11:05
スピノザの仕方(現象学の起点)は、デカルトの方法による認識では、無限遡行に陥ると暴露するのですが、認識の無限遡行とは、神とは何だ?という問いのことです。そういう無限性に陥らないためには、仕方を変えればよい。つまり神を問わないのだ、というのが現象学の起点です。@sunamajiri
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posted at 03:05:16
國分氏の『スピノザの方法』は東大話法の安冨歩氏に脱構築過ぎるとアマゾンレビューt.co/gJlpjgwU で書かれてましたが、現象学の起点に触れているので当然です。知性とはそのようにしか改善されない。@sunamajiri @slitsandfrills
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posted at 03:01:36
つまりスピノザ『知性改善論』が方法を挫折させたように、方法や方法論やノウハウというより(それでは認識による無限遡行に陥る)、それを放棄するような仕方(現象学の起点)なんだと思います。しかし加速しますよ、仕方を心得ると。@sunamajiri @slitsandfrills
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posted at 02:50:07
それがデカルト方法序説(認識のための方法だと無限遡行になる)を批判しようとして挫折したスピノザの『知性改善論』みたいな話ですよ。標識も道具も認識のために動員する方法では無限遡行して知性とはならないんです。@slitsandfrills その学知を深めるノウハウが知りたいものです…
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posted at 02:47:37
2012年11月12日(月)
このように、認識する主体とは、じつはリスクマネージメントができない、自我形成に至らない状態。お分かりのように近代的自我とは、認識する自我ではないということ。国語では、自我が認識する主体ではない、という問題が精密に測定される。@sunamajiri
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posted at 09:51:32
はっきり言って、現代文という診断テストでは、認識の病に陥りメンヘラになってしまう現代病だけを真正面から問えば十分と思えるほどだ。言い換えれば大学受験の成否は、メンヘラになりそうな認識の病を持っていないかどうかが査定されるだけ。現代文はその道具にされている。@sunamajiri
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posted at 09:32:28
近代文明=科学である認識の方法で見えなくされるものが自分。見ることだけに専念する男性は認識を疎かにする。しかし女性は見るよりも認識しようとする。男子を科学しているわけだがはぐらかされる。こういう科学では見えてこない自分を記述するのが現象学の仕方。@sunamajiri
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posted at 09:12:00
いいかえると、身体から疎外され相手を見ることで認識を免れる男性こそが、女性からは自由に見える。しかしこの自由を女性は認識しようとする。かくも認識というものはあてにならない。そんな風に、方法=認識、現象学=仕方、とは対照的。@sunamajiri
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posted at 09:03:06
彼女たちにとって相手とは見るより認識する対象なので、つねに認識とは違った結果に直面して、認識が思い込みに過ぎなかったと悟らされる。そういう認識の殻に閉じ込められているのが、おそらく近代では女性なんだと思う。男性はそれほど認識を絶対視したりはしないだろう。@sunamajiri
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posted at 09:00:12
たとえば見る(視覚)ということでは、女性は見られて、男性は見られない、あるいは女性は身体に疎外され、男性は身体から疎外される、といわれるわけだが、しかし、認識ということでは、女性のほうがよほど認識者になり、男性は認識することから自由な気がする。@sunamajiri
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posted at 08:57:31
このように、近代の礎となった、認識という営みは、ひどく女性的というか、女性の自我になりやすい。彼女たちは認識しメンヘラになる、彼らは認識され自由だ。そんな感じ? じつは認識させらえているのが女性の側、ということはあまり意識化されていない。@sunamajiri
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posted at 08:54:45
ツイートまとめ@FB(^-^)/ 国語に頻出する現象学的文の中の用語「仕方」。絵画の仕方を描写する文が音楽の仕方を神と名づける読み方について。目を瞑っていても立ち現れるもの。
t.co/GYz5sKhF
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posted at 07:01:56
うさちゃんだよー、ほら哲学ジャーゴンから、一人称のうさちゃんに戻れた~(^-^)/ @LitoSnowfield ははぁ〜〜〜女神さまぁ〜〜〜(*u_u)/
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posted at 06:33:08
その数ヵ月後にメルロ学者が私の端的性で発狂し、私を神と端的に名指すようになり、そのラカン読書会にまたきてくれと電話がきた翌日から入院しているよw @LitoSnowfield sunamajiriさんに端的に示された内容が田島先生の中にある知識と結びついて興奮されているような文章
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posted at 06:19:37
目を瞑ると音楽が次第にたちあがり、目を開けると純粋なものはなく、目に入るものはテクストか、テクスト的な表象だけだ。目を開けていて、それだけ音楽的というのは天才的でうらやましいほどだ。(^-^)/ @femmelets
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posted at 06:16:03
語る仕方だけに徹した、非読者論的なテクスト、それはまさに国語の客観テストが好むテクストなのだが、そこからは音楽の仕方は出てこない。絵画の仕方はおそらく語られるが、それによって間接的に現れているのが、読み方だけ。このように、読み方が間接化されたテクスト。@sunamajiri
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posted at 06:09:29
この描写する仕方だけを志向するテクスト、メタ描写というのは、あまり読者論的ではないのだろう、読まれる仕方まで折り込んでは語られていない。しかし、読み方はおそらく音楽VS絵画のような、対照性からしか現れてこないかのようだ。@sunamajiri
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posted at 06:06:55
たとえばメルロが、デッサンの仕方を描写する仕方(そう、メルロポンティの『知覚の現象学』というテクストは、小説以上に描写が主体のテクスト。このメタ描写のようなテクストで彼は何かを描写したいのだ)は、こういう辺り。t.co/6SX5Ptp7 @sunamajiri
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posted at 05:35:49
いわば、目を瞑ると音楽が出来て(身体化して)、目を開けると文しか見えず、画家のような純粋視覚は微塵もない。この世界に属して何かが純粋に見えるということが、音楽とは正反対ですらある、あるいはそれと何かによってしか結節しない、というのが興味深い。@sunamajiri
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posted at 05:20:18
一方、たとえば私が見ているものというのは、ほとんど(かつて観念と呼ばれた)テクスト(文字)。それに対して画家は、純粋視覚のように見ようとして、しかも見るだけでなく平面にデッサンしようとする。たとえば私だと、そういうものは見えていなかったりする。@sunamajiri
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posted at 05:11:51
症例VS正常による身体化が援用せざるを得ない音楽VS絵画という弁証法が表す仕方が、なぜか端的に文の読み方を現しているように感じた。それほど音楽と絵画は対照的なのかも。私は即興演奏するときに目をつぶる癖があるようなのだけど、何も見ていないときに出来たりする。@sunamajiri
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posted at 05:07:29
音楽の仕方から、メルロの症例による身体化の仕方を見ると、デッサンなど平面という不自然なものへの奥行きの仕方が、病的に見えるほどなのだけれど、メルロの知覚の現象学の症例VS正常の弁証法に対して、音楽VS絵画という弁証法が、何かの仕方を現すような気がした。@sunamajiri
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posted at 05:04:35
理由t.co/L3MQwOvX が無い言葉を書くとそう現象しそう。そこが仏典のようなハイデガーの誤読に聴こえるのよーww(^-^)/ @jpsartre_bot 書くという欲求は生きることの拒否に包まれている。サルトル『言葉』
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posted at 01:34:35
【受験生へ】このように、仕方とは、仕方の無いこと(たとえば、可愛い女の子を平面=二次元に写し替えたって、仕方が無いこと)を、暴露する仕方=現象学なのよ。評論はそういう仕方=現象学で書かれるものなの。とっても身近な話題、自分たちの生=性に近づく仕方だ、というのが分かった?
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posted at 00:17:16
そう、スピノザの方法とは、デカルト的な方法序説という、哲学の始め方(仕方)、物事を対象にしてしまうような捉え方(認識)が、結局、神への信仰だけで成り立っていた、ということを暴露する仕方になっているのだけど、以来、つまりヘーゲル以降、仕方とはそのような暴露、現象学になった。
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posted at 00:10:06