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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2012年11月11日(日)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月11日

ご愁傷様というか、メルロが書くような意味での音楽の仕方から見ると、メルロの書き方=仕方が病的に見える程なのですが、平面にデッサンという奥行きの捉え方=仕方からは、たしかにメルロの仕方は、文字通りにゲシュタルト崩壊させる威力がありそうよね。@aoinatsunosora

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posted at 23:54:16

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ルドルフ・シュタイナー @R_Steiner_jp

12年11月11日

ヘーゲルは思考の客観性のみを強調した。が、多数の人間は主観性だけを見るので、彼らはヘーゲルが純粋に理念的なものを一個の事象のように扱い、神秘化していると思うのだ。現代の学者でさえ多くはこの誤解に囚われている。ヘーゲルは自分のものではない誤謬の責任を問われているのだ。

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posted at 04:03:54

2012年11月10日(土)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月10日

即成近代では国語は端的に近代の説明しか問えないよー、たとえ記号論や身体論でも、近代化の説明の道具に還元されているのが即成近代では国語だもの。(^-^)/ @NudistExercise

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posted at 23:47:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月10日

違うよ~。イとオで迷うように出題されてるけど、イは近代化という理由に説明がない、近代になったから近代だ式の同語反復で説明になってない。さっきの授業そのものよ。近代を説明しないものは国語では不可。出題文は t.co/2AXMryZq @NudistExercise

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posted at 23:28:21

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月10日

授業メモ。センター撃沈する生徒さんがきたので、診断。中学国語までは文中の文言の検索ですむが、言い換えられた選択肢に文中の文言はない。それが高校国語と、説明。つまり換言力だが、換言は理由のよる対比がないと確定しない、と解き方に即して指導。さて言い換えが見つかるか?

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posted at 22:48:42

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月10日

授業メモ。またセンター2002。立ち現れるのは意味。意味を立ち現わすのは身体。それが身体化=言語化。身体が意味化するのが(する中に)神。 t.co/W55xj6kP

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posted at 22:48:18

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月10日

授業メモ。同じポストプライバシーから出題された早大問題、理由→命題のないものは説明ではない、それが正解選択肢。
近代化は理由→説明になるが問一の正解
イはトートロジー=理由がない。近代化以外に説明の理由はない。 t.co/oAdZP1wx

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posted at 22:34:45

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月10日

設問中のデータダブルとは、内面化した身体性というプライバシー(そうした身体的な私生活などを秘匿するのが、文中の自己統一の社会的道徳)が、情報化によって分身(個人情報という表象)に分節化されたということ。つねに(身体)現象は表象の批判としてしかない。@sunamajiri

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posted at 22:30:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月10日

授業メモt.co/fv0L8QI5 自己にとって身体化したプライバシーが、情報化で他人に知られる分身=個人情報となった。例えば私はネットではうさちゃんになれた、といったらフォロワーの生徒さん合点したみたいだった(^-^)/ t.co/9Ebz6HJw

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posted at 22:19:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月10日

授業メモ。東大2010は身体論では、前半の内面信仰=近代化は、自分にとっての生身=プライバシー(社会的自己)、後半は他人からみたら分身=個人情報。 t.co/Zzv3llM4

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posted at 17:44:46

露光苑 @keita_roco

12年11月10日

@sunamajiri 興味深いお話ありがとうございました。それにしても国民国家は残り…デカルト的な「制約性」とホッブズの自由が残り…そして独裁の可能性が残ったわけですが、それにしても彼らには批判(の中立性)に絶えず帰還させてくれる気配があります。興味深いお話です…また後日。

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posted at 08:42:14

露光苑 @keita_roco

12年11月10日

@sunamajiri デカルトは特異です。聖職者が哲学者に「墜ちる」分水嶺を著したものと捉えることが許されるかもしれません。身体への帰還がローマへの帰還を意味しようと仏文人は何らかの意味で絶対主義者です。メルロ=ポンティかゴダールかは存じませんが仏文人は進化したのでしょう…。

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posted at 08:33:44

露光苑 @keita_roco

12年11月10日

@sunamajiri 遅れました。幻肢体験諸般はまだしも認識論の派生物と云えるかもしれません。深くは自我の追従過程です。切断を回避したというのは…彼でなければバークリーの業績でしょう。背景からしますと国民国家が仕上がる過程で彼らは現れてきました。ホッブズの国家も一応肉体でした。

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posted at 08:26:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月10日

つまり例示が身体化なのだが、認識を例示するデカルト的な言語は、したがって例示の矛盾のようなもの。そこからは身体化しない(できない)あらゆる病理は、例示できない。t.co/E2JRyt2E @sunamajiri

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posted at 03:03:18

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月10日

ちなみに自己の身体の綜合の直前が、楽器奏者の身体化の例示です。オルガン奏者が楽器が変わっても軽いアジャストで弾けるのは、機械論では説明できず音楽だという話。このように例示とは身体的で、デカルトのように認識を例示すると観念的ですね。例示できるのはつねに身体性。@sunamajiri

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posted at 03:01:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月10日

ちょっとお話ずれますが、楽器の身体化など、身体化の例示からみると、デカルトのような認識を例示する分析自体が病例に見えます。身体の綜合からは認識が病理にみえるという話です。t.co/E2JRyt2E @sunamajiri @KeitaRoco

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posted at 02:56:14

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月10日

それこそデカルトは認識の例示ばかり、メルロが身体性の例示をしているのと対照的。認識の例示では症例=女性は蚊帳の外ですね。@KeitaRoco 女性を真理と云う発言は男根中心主義からのものとは云えません。真理とは中心的価値のことです。恐らくこれは認識論が発達してからの物語でしょう。

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posted at 02:36:47

2012年11月09日(金)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

けれども、今や拘泥しているのはむしろ男子というのが国語力低下。男子が自分を離れる国語力を喪失した。女子化というか、一昔前まではたとえば蓮実的な拘泥だったのが、いつの間にか東的なオタクというか、表象によって言葉が曇らされている。これが読解力低下に見えてしまう。@sunamajiri

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posted at 22:15:41

露光苑 @keita_roco

12年11月9日

@sunamajiri 女性を真理と云う発言は男根中心主義からのものとは云えません。真理とは中心的価値のことです。恐らくこれは認識論が発達してからの物語でしょう。女性は常に意識され続けています。肉欲についてギリシャは頗る寛容でした。日本も同様…ただ天皇制は変容してしまいました♡

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posted at 22:13:17

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

その点で、t.co/UUh2sipq 批評は死んだ言葉という蓮見的な言い方が、詩ではなく批評を書くのは、際限なく言葉に拘泥していて女々しい。批評が死んだ言葉に見えるのは詩ではないから、というだけ。彼の批評で言葉への耽溺が治癒するとも思えない@sunamajiri

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posted at 22:12:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

ですね。女性のことを社会が分からないので書かされたのが女流文学というか。国語は臨床制度といいましたが、制度化したものには訳がある。ここでは国語では女流文学が問えないという制度ですが、女流文学には自分を離れる治癒は書かれていないのです。メンヘラになります。@KeitaRoco

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posted at 21:59:57

露光苑 @keita_roco

12年11月9日

@sunamajiri 卓見だと思います。女流文学で分かるのは基本的には女性のことばかりです。女流文学を読まない限り女性のことは充分には分からないということです。他にあてになるとすれば革命の解析か数学の定理ぐらいのものだと思います♡

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posted at 21:54:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

女性は自分を語り、男性は自分でないものを語ろうとする。どちらが言葉に拘泥した自分から離れる能力なのかは単純に明白。だから結果として男性筆者の出題文、とくに評論ではそういう傾向になる。あくまでも、言葉に捕われた子供たちの、自己治癒能力を教育しているのだから。@sunamajiri

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posted at 21:45:20

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

自分語りから抜け出せなくなる女性的な病理、自己治癒能力のない、つまり中毒的なシニフィアン。ある意味、国語が診断しようとしている病理というのは、それだけなのではないか? あくまでも国語は、惑わす言語への抵抗力の測定。教科=臨床制度であって学問ではない。@sunamajiri

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posted at 21:34:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

いずれにせよ、滔々とした女性的な言語が曇らせてしまう、神というものを物凄く意識的に書こうとすると、おそらく滔々ととめどもなく語り、結局、フェミニズムのように自分のことしか語れなくなる女性の病理が、国語側から診断できる、ということに尽きるだろう。@sunamajiri

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posted at 21:28:56

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

一方、男性的な評論文が、なぜ一々物事につっかえつっかえ言い訳する文で、だからこそ国語テストで「どういうことか?」と問えるのかは、女性が女性から離れて書くことができない病理であるのとは対照的に、男性は自分を離れて神という語彙と常に背比べがかりしているから。@sunamajiri

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posted at 21:25:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

あくまでも国語は、惑わす言葉から病理を診断する方法。女性の書き手はフェミニズムのように、女性というものから離れられない。それはそれ以外が書けないという病理だが、そのために滔々と中断なく語られる。それに一端惑わされると、自己治癒能力のない言葉のようになる。@sunamajiri

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posted at 21:19:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

しかし、たとえ男性性的な言い訳が評論文の動機でも、それでなければ診断できない病理があるというのが現象学的な文。確かに小説に対して評論は、男性筆者のものばかり出題されるが、それは紛れもなく女性筆者が書けない、という病理を顕在化させている、とも言える。@sunamajiri

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posted at 21:06:01

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

評論は一々物事を停止させて、ぐちゃぐちゃ言い訳をいう男子の釈明が動機だものね。だから女子t.co/FnDOx8PH からは、男子の言い訳でテストされるのは不公平と映るのは無理もない。@Tomohokubo フェミニズム系が少ないのは大学教員が男性中心だからだ

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posted at 20:46:38

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

言語の身体化t.co/tWWhCkB4 にとって読む=運動とは現象学特有の用語でいうと、読んでいるその都度、文の世界が現れるといった程度のこと。読後に知識が増えるのではなく、読んでいる時だけ現れる世界。これが読めるということだが混濁しやすい。@sunamajiri

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posted at 09:07:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

おそらく、生徒の読む=運動を中断させてまで、指導者が説明や注釈を入れるべきか、という疑問も、現代文で出題される文とは?という疑問と表裏だろう。何のために出題される文なのかを指導者が分かっていなければ、生徒の読む=運動は妨害され、単に読めなくなるだけだ。@sunamajiri

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posted at 08:53:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

このように国語のテストは、知らないと言わせないためにあるのではない。たとえ既読でも、自分で読む=運動をさせる。この言語の身体化というのは現象学の論点になるが、それを実践させる文が、紛れもなく出題しうる条件の文なのだ。それは既読でも再読に耐える文だろう。@sunamajiri

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posted at 08:27:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

出題されるのは、生徒が知らない文なのだろうか? 既読の文ではカンニングになるのだろうか? もちろん出題できる文の条件は、そうした知る知らないという点にはない。学校のテストでは授業で既読の文でテストされる。逆に初見であるはずの入試問題も既読かもしれない。@sunamajiri

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posted at 08:21:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

さっきの生徒さんの疑問t.co/pdn5Wxeh から考えると分かりやすい。彼女の疑問は単純で、国語は言葉が通用するかどうかのテストか?というのと、それなら自分たちに通用しない「知らない」言葉をテストされているのではないか?というもの。@sunamajiri

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posted at 08:07:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

12年11月9日

さて、国語はどんな文でも出題できるわけではない。出題も大変だが、出題される文は、想像を絶する集中力をかけた文。どんなに控え目にいっても、読者や解答者は遠く及ばないのが書き手だ。だからといって、国語は知識題ではない。この均衡が出題の範囲であり方法。@sunamajiri

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