大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年07月13日(日)
そうした日本的な理系文系という諸学の危機。素朴な唯物論で、理系という人達が超越論的な文を、数式と同じように読めない、というところが日本では理系の危機だからね。文系などというものは、つねに超越論的なことしかいわないので、そうした素朴な唯物論など一度も命題化したことがないわけだから。
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posted at 23:21:46
twitter.com/Grunesheim/sta... そうそう、 それでいうなら戦後どころか明治以来、文系を左翼と早計する理系の素朴な唯物論しかないから、「人権=外国人が日本人になること」に対抗できなかったが、文系は単に超越論的なだけだからね。つまり理系が外国人を日本人にしてしまう。
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posted at 23:12:53
twitter.com/maruyama_note/... ドイツ人が、デカルトのラテン語コギトを輸入して、自然を生産と把握したにすぎない近代性を、日本人という自然の生産に短絡・転倒twitter.com/sunamajiri/sta... する限り、日本は生産に向かない、というだけだからね。
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posted at 05:49:32
柄谷行人ですら丸山真男が読めなかったと吐露www.kojinkaratani.com/jp/essay/post-... しますが、中島岳志って若いですね。自然を生産と捉える近代が、日本では日本人という自然の生産になってしまう。中華思想にもみえるけど、中島は仏教的ではないですか?@ujikenorio
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posted at 03:22:14
ツイートまとめ@FB(^-^)/ 陰謀論がネトウヨと同じようなことをいってるのだが、自然を掌握する技術が近代だというのは、ドイツ哲学の誤読じゃないの? www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p...
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posted at 01:39:55
2014年07月11日(金)
面白いのは、そのサトリ世代にはシラケ世代が見えてない点なんですよ。おそらくサトリ世代にはシラケ世代が単なるバブル世代に見えてtwitter.com/kuroisuiseiwo1... いる。これが何かまやかしの原理になっているように思えてならない。エディプス親子関係だし。@J_J_Kant
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posted at 13:59:07
こんな質問ぐらいで激怒って、アメリカの大統領選の討論ならすぐ敗退するなスガさん。触れてくれるな、というところが属国的。打ち合わせにない質問でもなさそうだが、自分より言語達者なアドリブで質問されたのが、面白く無いという上から目線? @hopi_domingo @mt3678mt
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posted at 13:11:13
日本に脆弱性があるとすれば、誰が日本人か?という存在論が、地政学的には自明に思えているのに、意外にも歴史的には自明と思えない、ということに尽きるのだろう。しかし、これは近代的な命題ではない。日本人が近代をアイデンティティーを問うことだ、と思うところが最も近代的ではない所なのだ。
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posted at 11:59:08
この日本人の、誰が日本人か?という形而上学は、いわゆる近代社会ではすでに何らかな形で現象学的還元(エポケー)された問いだ。そんなことを問えば西欧世界は誰もその国の国民と主張できなくなるだろう。日本の国民国家が危機的なのは、この問いを発することにしか無い。
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posted at 11:42:07
2014年07月10日(木)
続)受験偏重が問題だが、それは人物重視ではなかった江戸の学問吟味の名残。筆記を欧米ではクイズというが、クイズヲタが点を稼げる範囲は限られる。それ以降は完全に地頭なのだが、この資質は換言能力と同一なので、社会的でもある。人物重視がそれを見抜けないのは、単に試験官の資質が低いから。
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posted at 01:53:04
2014年07月09日(水)
このように、ハイデガー『カントと形而上学の問題』の演繹論解釈は、無限という実体的呼び名の不可能性から、時間という呼び名の可能性へ、明示的(それ自体を単文で言明すること)にならないようにしながら、立論されていく。
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posted at 18:27:33
すぼめると、「無限はないが、時間はある」ということだな。呼び名の有無という範疇なのだが。アリストテレスのいうような霊魂が有るとすると、キリスト教の言うような神は無い、神が死んだんだから仕方がない。
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posted at 18:23:13
ハイデガーが、ここtwitter.com/sunamajiri/sta... で「無ではない」と強調するように、コギトや統覚を認識論の命題とすると、時間のような呼び名に至らず、霊魂を神と呼ぶ根拠を与えてしまう、ということに思える。存在論を認識論と錯誤すると、呼び名を実体的に捉えてしまう。
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posted at 18:09:21
簡単に言えば、呼び名には実体性がなく、名前は自由だが、文によっては実体的な有限性をはらむ無限のような概念は、呼び名として不適当ということ。そのために無限という呼び名の代わりに、時間という呼び名の要請が重視される。このことは神という呼び名より、霊魂という呼び名の方が適切という命題。
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posted at 17:32:12
しかし、この無限から時間への名前空間の転回が明示的かどうかは微妙。それは時間に対して無限という呼び名が、有限という実体を孕むために、ただ呼び名を変えたよという言明では有意ではないからだろう。しかし、超訳するなら、無限という実体的呼称を破棄すれば、範疇が実存的になる、という遂行。
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posted at 17:22:09
明示的な対立項ではないが、有限という比量的な実体に対比される無限という呼称を破棄し、時間という単一性にリネームを遂行すること。『存在と時間』の名前空間を補完する『カントと形而上学の問題』の演繹論、すなわち第二版のコギト=ラテン語化された統覚を解消する立論はこのような仕方のようだ。
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posted at 16:52:10
続)無限と呼べば、一性は積極的に語られず、だからこそ時間という単一性で呼べば、必ずしもアリストテレス的な四つの範疇を要請されず、範疇性を実存範疇に転回できる。無限ではなく時間だから判断としての思惟は単独的だ、というハイデガーの解釈。 pic.twitter.com/R9Z9U6eKFx
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posted at 16:44:15
無限から、単一性としての時間に、観点を移行するというのは、いうまでもなく、いわゆる神的に漠然と想定されたようなことを、アニマ(霊魂)的なものへ、単一性という概念を、シフトさせることなのだろう。非常に端的だ。
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posted at 05:14:12
もちろん、無限から時間の単一化によって、範疇表を実存範疇へ書き換える解釈学は、延長や対象を生じていた現象自体の厳密化のことで、たとえば対象と物自体と呼ぶコギトや統覚の代わりに、存在者と呼ぶための布石なのだが、この呼称とか呼称し直すということだけに、着目しなければならない。
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posted at 05:09:09
この単一性は無限では有限(という対比)を生むから齎されず、時間の一性だけが齎し、範疇表をカントが無批判に借用したアリストテレスの4つの判断から、実存カテゴリーに入れ替える、という構想は、解釈学的な問題だ。ちなみに、端的に霊魂の単一化の話をしている。
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posted at 05:03:46
ちなみに、直前の節までは、つまり空間から時間に言及するまでは、一を無限と呼称していたのだが、時間は無限ではなく、無限以上に一と呼称することで、有限な認識が、一なる悟性、純粋思惟と命名されただけなのだが、ここでも範疇表の中身の入れ替えだけが行われている。解釈学的には可能だ。
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posted at 04:50:02
~70p 時間が不可比量的な一であると反省するが故に空間化しうる判断が悟性だ、という言い方をやってるようなんだが、たしかにこのハイデガーの言い方だと、カントのような古典的な範疇表の踏襲は不要になるのかもしれない。ここで範疇の範疇性を、実存範疇に本来化する、ということなのだろうが。
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posted at 04:46:38
~70p 時間が一であり空間を含むがゆえに、概念が反省させる判断する思惟が数多に比量しない一として延長ではない空間をも有する。いわば一なる時間があるが故に思惟は空間を一性として反省する。時間があるが故に空間的にも一なる反省がある。 pic.twitter.com/oznxmgsnz6
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posted at 04:00:29
【精読メモ】継続。~70p 判断(する思惟)に反省を齎す概念が、数多に比量しない一である時間によって空間をもそこに含むがゆえに、判断・思惟は一性なのであり、カントが依拠するアリストテレスの範疇表が、概念の一性を述定したり、空間が延長として齎されるわけではない。
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posted at 03:49:47
2014年07月08日(火)
クラシック教育が、譜面で他人の音を聴け、と教えるから、アドリブは自分の内面に聞こえる音を、と思うらしい。そうじゃないんだってば、指が自動的に動くと、気持ちよくなっちゃってアドリブになる、ってのがパーカーの発明だ、と教えるんだけど。@noburin2828
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posted at 22:24:02
知覚表象のない恐怖から、感覚表象に極端に傾倒して、戦争のリアルが語られている気がするtwitter.com/sunamajiri/sta... のだが、知覚表象を得ようという活動も盛んなようだ。(^-^)/ pic.twitter.com/cUfMwrVzCl @Oygnino2
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posted at 19:36:48
ちなみに、ヘルダーとカントとヘーゲルの聴覚の優位(速さ)は、東大の表象文化学会で、さらに触覚の近さを論じたらしい吉田さんの古い論文が速い。ほぼ音楽論という幻想についての話なのだが(^-^)/ twitter.com/H_YOSHIDA_1973... @LitoSnowfield
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posted at 18:44:34
ところで、「カラターニ」には、もっと加速度があるのだが、しかし瞬間性をめぐって、どこか鈍くささがあるのだ。イアン・ハッキングのヘルダーはカントの誤解だ、と柄谷がいったあたりからのことを、ずっと考えているのだが、どうしても加速できない。@LitoSnowfield
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posted at 18:40:12
斎藤元基さんの博論の文体は、まさにこのハイデガーの「換言すれば」という接続詞を省略するような速度なので、おそらくドイツ語より日本語のほうが、ある種の書きやすさを備えているのではないか、と霊感を刺激させられた。@LitoSnowfield
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posted at 18:38:08
その点で、斎藤元基さんの博論は、速度が出ていた。長い文脈の組み立てで、たとえば一文一文に速さがあるかどうかを、私などはつい測定してしまうのだが、そういう意味で優れた学者だ。私の霊感では太刀打ちができないww(^-^)/@LitoSnowfield
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posted at 18:32:53
速いというのは、たとえば140字でヘーゲルtwitter.com/GWF_Hegel_Jp_1... ならメイクセンスするけど、ハイデガーのツイッターBOTはメイクセンスさせずらい、というようなことなのだが、音楽などでは140字どころか、単文より速いからね。@LitoSnowfield
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posted at 18:30:47
確かに、ハイデガーのほうがヘーゲルより瞬間的だが、ヘーゲルよりハイデガーのほうが遅い。こういうスピードの比較しか興味が無い。音楽では遅延などないからなのだが。(^-^)/ @LitoSnowfield
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posted at 18:22:54
その意味でハイデガーはカントよりは早いが、ヘーゲルより遅い。私は小学生の頃ヘーゲルばかり読みあさっていたわけだが、あんなtwitter.com/GWF_Hegel_Jp_1... に素早いものはない。しかしまだハイデガーの瞬間性には至っていない気がする。@LitoSnowfield
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posted at 18:22:08
ツイッターの瞬間性の早さに追いつかない著作・著者というのが、ほとんどだからね。日本人は逆説的に、西欧の遅さを超克する早さに生きている気がするが、西欧の先験性という唯一的な命題を巡っては、ツイッターの霊感に比べれば遥かに遅い思考が原典になるからね。@LitoSnowfield
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posted at 18:16:25
ところで、最近の國分さんは読んでいないのだが、視覚表象の話に向かっているのが、霊感的にちょっと抵抗がある。私はヘルダーの音楽論にしかならない、聴覚の優位は、瞬間の即興の話と思えてならないもので。つまり音楽論にはならない音楽なのだ。@LitoSnowfield
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posted at 18:07:55
あらま、存在の解釈学の斎藤先生に、フォローされちゃったから、ますます霊感twitter.com/sunamajiri/sta... に拍車がかかりそう(^-^)/ @LitoSnowfield pic.twitter.com/01NHs3rxPT
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posted at 17:01:47
専門ではないので霊感だが、このように懐疑の結果が先行する霊魂という呼称の正当化だった、という命題は、じつは近代の、つまりデカルトの懐疑論以降の成果なのか、ということが分からない。アリストテレスにはそれがないのだが、デカルト以降はそればかりになっている。@LitoSnowfield
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posted at 13:18:33
アリストテレスの主著は、形而上学よりアニマ(霊魂論)としか思えないが、ビジネスでこそ、日本が霊魂を失っているということを、もっと真剣に考えなければならないのだが、どうしても仏教用語が邪魔をして、思考停止をしてしまう。それを日本では現状保守というらしい。@LitoSnowfield
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posted at 13:14:44
あらゆる論理学を推し進めると最後に「知識は真の、正当化された確信である」という命題に至るそうだが、この「確信は知覚か」というのが現象学、つまり認識論と存在論のある種の綜合で、そこからしか分析、理数学などを始める方法がないからなんだろうね、きっと。@LitoSnowfield
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posted at 12:50:26
日本における仏教語の万能感と呼んだものが、なぜか最初から呼ばれていたものを忘れさせる、といった具合なのだ。彼らに言わせれば悟りなのかもしれないが。それで霊魂という原初の呼び方が齎した、信念の確定の命題、知覚の存在論と認識論が出来なくなってしまうのだ。@LitoSnowfield
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posted at 12:36:06
この「そう呼んでよいのか」「そう呼ぶべきか、呼ばざるべきか」で足踏みするところがダメで、「はじめからそう呼ばれていた」ということを知らない、ということなのだ。彼らは「そう呼んだ、ゆえに懐疑する」というところから信念を出発するのを、科学と呼んだだけだ。@LitoSnowfield
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posted at 12:25:00
たとえば日本では唯物論とは臆病者の代名詞だったりするのだが。twitter.com/sis_sis/status... なぜか唯物論的であればあるほど、科学的なものに臆病になり、スピリチュアルや非科学的なものを信仰し始めるのだ。@LitoSnowfield
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posted at 12:21:34
この最初から呼んでいたから、疑えるというのが、私達が弱いのだ。この「最初から」ということを踏まえ(られ)るかどうかが、思考の強さと弱さの違いなので、積極的に呼べばよいだけなのだ。何を怖がっているのかということになる。信念の命題も捉えられない。@LitoSnowfield
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posted at 12:19:48
私たちはつい霊魂とか信仰を疑うのが科学的と信じ込んで閉塞するだけだが、西欧的というのは、懐疑を推し進めて最後に残るものを原初から霊魂と名付けてた、という確認を科学的と信じることだから、この点で対照的ではあるのだろう。@LitoSnowfield まさに後者の反転?が面白いです
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posted at 11:58:33
その点で、従来からアニメや劇画にある種のリアリティーtwitter.com/sunamajiri/sta... があったのに、やはり3.11以降、その実感が動揺させられた、と考えて然るべきなのかもしれない。つまり依然、表象論的な問題臭い。@Oygnino2
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posted at 05:04:21
というか、実写ドラマが男子のヒロイズムを否定するから、アニメなのだろうが、戦争はもはやそうした表象文化の問題じゃないなく現実だ、ということになるらしい。(^-^)/ twitter.com/yash_san/statu... @LitoSnowfield
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posted at 04:33:31
これtwitter.com/sunamajiri/sta... 訂正。アポリア(霊魂)を疑うのと、アポリアだから(霊魂があるしかないと)疑うのでは、後者が疑い方として優れていた、というほどの意味。@LitoSnowfield
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posted at 00:15:24