大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年07月19日(日)
そうそう。極めて平明にいえば、アリストテレスの霊魂が、デカルト以来、心身二元論で実体化してしまってるので、そんなバナナという話ですよ。アンセルムスとデカルトの実体論は『現象学の根本諸問題』で解体されてましたね。@jeanbeauty2 bit.ly/1Me3W8W
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posted at 23:59:21
RT @jeanbeauty2 しかし、存在とは、述語になることで、何か、オンティツシュなものに、考えてしまう、そのことを批判をしているということ、つまり、実体=存在(実体)ということでしかない、のは、だめ。
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posted at 23:48:02
RT @jeanbeauty2 神はが、主語、完全な存在、が、述語。完全な存在だから、実在(レアール)する、というアンセルムスの論理に対する批判と考えても良いでしょうか。
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posted at 23:47:33
2015年07月18日(土)
今まさに内田樹から柄谷行人の反知性主義を批判しようとしたら、タイミング的にこれだ。柄谷は関係ないが、正しさなどというものはもはや問題ではない。東京新聞(7月17日) (内田樹の研究室) blog.tatsuru.com/2015/07/17_135... pic.twitter.com/Ue1Rh2DbKh
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posted at 01:32:53
というように、柄谷行人が『トランスクリティーク』でハイデガーが批判したカントをセム的と擁護するわけだが、内田樹『反知性主義の日本』で、そうした反アーリア的無時間性が、反ユダヤ主義的な陰謀論と修正主義に容易に転じる反知性主義である、と喝破していて苦笑してしまった。
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posted at 00:49:53
反知性主義者たち、作家になりたいならまだしも、なんでそんなに評論の書き手になりたいんだろう? 脱構築という存立問題で作家を逆手に取るのも賞味期限なのに、彼らが書くのはつねに非アーリア的非西欧人という気分を自己限定する話ばかりだ。誰がそんなものを読むのだろう?
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posted at 00:42:57
作家性(新人)が生まれてこない、という脱構築という一点が日本では関心事になってるだけなのだが、そんなこと(作家)の不可能性、もっといえば新人作家は成るものだ、というビルディングロマンスを想定するから、古名の範疇論に遡行し、現実に誰も書け(か)なくなっただけではなかったのか?
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posted at 00:16:32
場所、領域、空間、自我、時間、構造、規則、規定、根源といった古名、概念を再範疇化しても、単に実存範疇の方が力強いというだけだ。村のような共同体の間に自我を領域化するより、気分の方が先立っている。それをわざわざ日本の非西欧性を非アーリア的領域と範疇論に遡行するわけだから、村的だ。
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posted at 00:08:47
2015年07月17日(金)
日本人が拠り所にする領域論の類、西欧人の語る時間まで、自我の領域と空間化すること、柄谷の内省とか第三省察というのは、要するに単に外人が怖いという話だろう。バイリンガルならこんな少女でも、そんな幼稚な違和感はもっていないはずだ。huff.to/1TDwQ4x
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posted at 23:40:22
おそらく、内田樹のいう「反知性主義」に通じるが、日本人はハイデガーに対してさえも、領域(自我領域)や場所(共同体間)という問題しか捉えない。これはセムとアーリアという柄谷も内田も前面に出す単純な二元論である以上に、単純に「非西欧的」という領域化=自己限定のことにすぎない。
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posted at 23:23:53
あえてより単純化すると、柄谷行人はハイデガーのフッサール批判が、フッサールの自我圏域を批判するだけで、共同体の間といった場所論となっていない、といっているだけなのだが、カント書では規定名(古名)こそ空間的ではなく時間的だ、といっているだけだ。@LitoSnowfield
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posted at 23:13:14
久々に、3月末の入院直前で尻切れになった柄谷論を、@jeanbeauty2 さんにFavられたので、この機会に、柄谷行人とカント書の違いを単純に整理しておいたから、分かりやすいと思う。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 23:10:32
ニュートン的絶対空間も、自我の圏域性が産んだ錯誤であるように、コトバはモノのヒトによる現れだ、という書き手(書くこと)の不可能性を暴露するだけの、いわゆる「脱構築」の問題が、彼らが考える以上に、そもそも存立していない。www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p...
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posted at 23:00:03
時間を絶対空間化させるのも圏域的自我の空間性だが、非現前時間(規定名)となることで、弁証法やアンチノミーのゼノンのパラドックスのような無限遡行は、デカルトの自我のような神観念によらずとも、単に通用している。
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posted at 22:58:11
ニュートン~カント的絶対空間に対して、時間が非現前的(圏域に対する規定名)だ、というハイデガーのカント書のカント批判こそが超越論的批判であって、柄谷の場所論や起源論がそうであるのではない。
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posted at 22:55:43
柄谷はカントを批判できないが、ハイデガーにはできた。それは場所でも圏域でも根源でも起源でもなく規定名(古名)だからだ、ということだ。時間はニュートン的絶対空間ではなく、非現前的(自我圏域に対する時間の根源規定化)であり、だからこそ無限遡行しない。
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posted at 22:53:51
一方、内田樹『反知性主義の日本』で反知性主義とは、アーリアに対する無時間的なセム語族特有の圏域論であって、そうしたものが非アーリアにおいては、容易に反ユダヤ主義という反知性主義になっている、とする。
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posted at 22:50:28
柄谷行人の整理学でいうと、フッサールの根源である自我は圏域だが、カントでは根源であり、ハイデガーはフッサールの圏域を批判しているだけで、その時間性は、アーリア独特であり、共同体の間というセム語的な場所がハイデガーにはないが、カントにはあるとする。
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posted at 22:48:13
このカントを批判できたハイデガーを柄谷が批判しようとして破綻したという問題は、昨日の内田樹『反知性主義の日本』のアーリアに対するセムの無時間性と同じ。柄谷はハイデガーをセム的でない点を、時間的すぎて場所的でない、と『トランスクリティーク』で批判しているからだ。
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posted at 22:46:30
3月末の入院で尻切れになった柄谷行人のハイデガー批判に対するカント書からの巻き返しという話、久々に@jeanbeauty さんにFavられた。 bit.ly/1gFaIZw twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 22:44:18
2015年07月16日(木)
内田樹『反知性主義の日本』は、この知識人の固定観念こそが、ハイデガーが解くような時間性に抗う「無時間性」であって、そうした無時間性=反知性主義が、陰謀論から修正主義まで、現在日本に顕在化している様々な動揺を引き起こしている、といった話題を提供している。仏文学者の焦りが感じられた。
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posted at 23:52:37
この通用問題に対して固定的な神のような観念を要請しただけで、実は協同的な知性に何ら寄与していない、というスピノザの批判=方法は、教師だけが真理を知っている、という教育の弊害に直結してしまう。そういう話が國分氏の『スピノザの方法』と読書案内できるが、しかしまだ時間の話が出てこない。
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posted at 23:48:47
反知性的というのは、いわば知識人の凝り固まった固定観念のようなものなのだが、知性改善論からのスピノザのデカルト批判は、神などという観念を要請して、無限遡行に対する通用問題を説いただけのデカルトの固定観念が俎上に載せられる。
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posted at 23:46:41
つまり、教師だけが正解を知っていて、無知な生徒に教える、というのが反知性主義なのであって、生徒のほうが正解を持ってるかもしれない、という可能性が知性主義。日本では詰め込み教育の弊害があるからね。アメリカも一時期この反知性主義に陥ったのだ。これが先駆的時間の話から語られている。
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posted at 23:39:11
ここが一番端的。知性とは知ったかぶりのことではなく、共同性を時間とするような方法(マナー)のことだ、という態度のようなもの。國分さんのスピノザの方法ではないが、教えるというのは、必ずしも教師が正解をもっていることではない。 pic.twitter.com/c6hJ5HVn4Q
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posted at 23:35:33
知性というと、スピノザの知性改善論のデカルト批判を想起するが、アメリカの反知性主義のように、知識人の病。知性とは協同的で、反知性とは無時間的という。その辺りの混乱が整理されていないだけの話に見える。知識人が固定観念に陥るのを反知性というのであって、非知識人の問題ではない。
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posted at 23:31:51
内田樹『反知性主義の日本』。ホフスタッターの『アメリカの反知性主義』のように、反知性主義者とは大衆ではなく知識人のことだ、という話なのだが、反知性主義的知識人とは無時間性のことだとか直言するので購入した。 pic.twitter.com/gSPoS9EtIF
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posted at 23:27:15
2015年07月14日(火)
この前、NYのたまちゃんと、こういう話したのだった。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield pic.twitter.com/ab9ywiaB4c
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posted at 08:26:46
音楽は芸術の中で最低とかいうしね。yokato41.blogspot.jp/2013/08/blog-p... 自分で音楽ができない人の被害妄想って一般的なのだが、音楽ができない哲学者は、可能性と当為を自我と語り、時間と語れないんだろうね。ハイデガーもできなかっただろうが、必死よね。@LitoSnowfield
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posted at 08:25:14
そうそう、哲学学の人達の論文の書き方に、何かを要約して、「~ということ、まさにこれである」という強調的な構文が出現するのだが、まさにそれだな(^-^)/ @LitoSnowfield まさにソレですね〜
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posted at 08:07:56
ハイデガーが読みづらくて泣いている人が多いらしいが、ハイデガーってユーモアしかないんではないかと思えるほどだ。たしかに機械は自分が有限であるなどという気遣い(ゾルゲ)、つまり方法をもっていないのだ。@LitoSnowfield 面白くてゲラゲラ笑ってしまいました
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posted at 08:02:55
@sunamajiri あはは(*^o^)> 先程の二枚の文章を読んで面白くてゲラゲラ笑ってしまいました(*^o^)/ しかも尚且つ…当然に?…詩的でもあるという…(*uou)>む〜…(笑)
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posted at 07:59:45
したがって、端的に方法としての思惟とは、誇大妄想して後悔することのないように、有限性をゾルゲ(気遣い)することだ、という方法論がカント書なわけだ。有限性をゾルゲできるのが人間であり、それは自分を神と思うなかれ、という方法論が可能である、ということ。@LitoSnowfield
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posted at 07:57:10
つまり、人間を能力の面だけで神のように誇大妄想していると、現実には違うわけだから、後手に後悔する羽目になり、人間の無能さしか積極的に語られないが、有限性をゾルゲ(気遣い)できる人間だけが能力的にも可能性が最大化するぞ、とカント書は思想化したいわけよ。@LitoSnowfield
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posted at 07:49:27
予め自分を有限と思惟していれば行為する可能性が最大化されるはずなのに、そういう明確な自覚がなく、ハイデガーが批判するカントの動揺のように人間は無際限な可能性があると信じこみ、何か当為をした結果、後手に無能さに気づくのでは、今=過去でありすぎるという話。@LitoSnowfield
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posted at 07:39:10
まあ、それがさっき、こちら twitter.com/sunamajiri/sta... でも触れた曖昧(カント的当為表現の動揺)さからの回復、ゾルゲ(気遣い)、過去としての今ではなく、未来としての今、つまり当為ということなのだ。@LitoSnowfield
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posted at 07:29:31
自己の有限性をはっきり意識すること(気遣い=ゾルゲ)というのは、カント書では回復(旧訳語で反復)と術語化される(最終章の表題)。デカルト的な要請の内、当為という可能性は有限性である、ということ。 @LitoSnowfield pic.twitter.com/yX1GV972Cs
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posted at 07:27:25
カントには動揺があって、まず人間が何であり、それ故に人間は何を為すべきかか、という人間学として根拠を曖昧にしたまま受け取ると、人間を能力的に無際限に列挙して、結局、人間の有限性を後手に不完全さとして露呈するにすぎない、といった話だからね。@LitoSnowfield
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posted at 07:18:10
自我(フッサール)なのか人間(シェーラー)なのか時間(ハイデガー)なのか、という術語のどれを可能性(規則)の根源規定とすれば、デカルト的な要請に整合するか、という話なのだが、可能性(当為)は有限という関心(ゾルゲ=気遣い)のことであるのに~ @LitoSnowfield
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posted at 07:17:58
ちょうど、宮﨑駿のインタビュー blogos.com/article/122316... を読んだが、人文学廃止に向かう日本という件で、冷戦後の日本に曖昧さが蔓延っている、と答えていた。この曖昧さ、つまりカントの当為の曖昧さ、それを払拭することが、いかに急務であるかは、特筆するべくもない。
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posted at 05:08:56
かつて、大江健三郎が「曖昧な日本」と語ったが、それは日本の固有性であるより、カントの曖昧さを鵜呑みにしただけだといって過言でない。その曖昧さを払しょくすることが仏文にはできなかったが、戦前のハイデガーには可能であった、ただそれだけのことでしょう。
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posted at 05:04:17
始まりのハイデガーとは、そのトラウマのような過去に引き摺られ、朦朧とした今=自己となることから、はじめて自由になった瞬間のことであるはずで、それだけが日本人を超えた、あらゆる当為、つまり倫理の根源となるものなのでしょう。
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posted at 05:03:56
しかし、非西欧人と限定しようとも、過去に無限遡行してしまう今には、いくら反省しても自己はいない。その普遍性は、日本人にも単純に妥当する。ただそれだけのことだ。
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posted at 04:48:47
このことが、日本では受容的に非常に混乱し、挙句にポストモダンや、柄谷行人のような起源論という、ハイデガー批判に直結しているのだが、そこにあるのは、ハイデガーは西欧人で、日本人は非西欧人だ、という二元論。
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posted at 04:48:28
柄谷行人などは、この自我分裂と心中しようとするが、解釈学はカントの曖昧さ、時間の無限性を、対象の根源規定と表明し、過去に無限遡行する反省的自己から、つねに今である、本質的な自己を獲得する。そういうことが語られている。
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posted at 04:47:47
フッサールは、カントの論理学を心理学と批判するために、対象の根拠規定をデカルト的な自我においた。しかしそれでは自我分裂にいたり、現象学は崩壊してしまう。~
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posted at 04:47:39
自分を過去として無限遡行すればメランコリー(鬱病)になり、自分を常に未来である今として捉えることができれば、有限な自己がクリアに浮かび上がってくる。これを表明しようとして非表明、つまり曖昧にしたカントを、表明的にするためには解釈学しかない、そういう営みです。
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posted at 04:46:41
しかし、そうした自己反省という理屈ではなく、今が常に未来であるような意識。今が常に同時に未来であることを根拠に、自己を対象化できた時、有限性という、コギトが要請する最も重要な魂が宿ることになる。
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posted at 04:46:08
今という瞬間はすぐに過去なのです。今といった瞬間に既に過去だ。今というのは同時に過去ですらある。その過去を根拠とすると、自分が無限に遡行して、その無限遡行は宇宙を突き抜け、造物主のようなものを要請してしまう。
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posted at 04:45:48
ハイデガーの始まりは、いわゆる柄谷行人が渾身でハイデガーを批判して言うような起源論というより、意識=今はつねに未来にある、という先駆のことで、それによって対象化、つまり自分を見極めることが出来るというものでしょう。
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posted at 04:45:35